META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 鹿島順一劇団
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2024-01-22

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「人生花舞台」は娯楽の真髄》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年9月公演・石和温泉スパランドホテル内藤〉                                                                     午後6時から、石和温泉・スパランドホテル内藤で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。ほぼ半年ぶりに観る「鹿島劇団」の舞台は、「相変わらず」天下一品であった。今日の外題は「人生花舞台」、当代随一の花形役者(春大吉)と、その父(座長・鹿島順一)の物語、前回の感想では、春大吉に対して「やや荷が重かった」と評したが、今回は違う。花形役者の「魅力」を十二分に発揮した「舞踊」(特に顔の表情が爽やかであった)で「合格」、春大吉の精進に敬意を表したい。数ある大衆演劇の劇団の中で、「鹿島順一劇団」の「実力」は「日本一」、それを信じて疑わない私にとっては、舞台を観られただけで「至上の幸せ」、間違いなく「生きる喜び」「元気」をもらうことができるのだ。本来、「娯楽」とはそのようなものでなければならない、と私は思う。「鹿島劇団」のどこがそんなに素晴らしいのか。役者一人一人が舞台の上から、芝居を通して、舞踊を通して、私たちに「全身で」呼びかけているように感じる。「今日も来てくれてありがとう。私たちは力の限り頑張ります。だから、皆さん、元気を出してください。みなさんも頑張ってください」そのようなメッセージが次から次へと伝わってくる。私たちが生きているのは、何のためか。それは「他人を元気にさせるため」である。そのことも、私は信じて疑わない。少なくとも、私にとって「鹿島劇団」は「元気の源」であり、その舞台を観ることで「生きるエネルギー」を補給していることは確かである。今日の芝居、1時間の予定が50分で終わってしまった。座長の話によれば、「芝居を短くすることは、私の特技です。いつかなんぞは、1時間の芝居を30分で終わらせてしまいました。なぜって、誰もその芝居を観ていなかったから・・・。へっへっへ(笑)、誰からも苦情なんか来ませんでした。そんなもんですよ。はっはっはっ・・・。「芝居は長すぎるよりも、短い方が《綺麗》に仕上がります」おっしゃるとおり、今日の「人生花舞台」、私が「短すぎる」とわかったのは幕が下りてから30分後であった。とはいえ、これはあくまで私事、誰にでも通用する話ではないのかもしれない。

人生花舞台人生花舞台
(2005/02/23)
本多綾乃

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2023-11-19

劇団素描・「鹿島順一劇団」《芝居「女装男子」で宴会劇場制覇!》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年5月公演・九十九里太陽の里〉
 芝居の外題は、「仇討ち絵巻・女装男子」。開幕前のアナウンスは座長の声で「主演・三代目鹿島虎順、共演・《他》でおおくりいたします」だと・・・。何?「共演《他》」だって?通常なら、「共演・花道あきら、春日舞子・・・。」などと言うはずなのだが・・・?そうか、どうせ観客は宴会の最中、詳しく紹介したところで「聞く耳」をもっていない、言うだけ無駄だと端折ったか?などと思いを巡らしているうちに開幕。その景色を観て驚いた。いつもの配役とは一変、これまで敵役だった花道あきらが・謀殺される大名役、白装束で切腹を強要される羽目に・・・。加えて、その憎々しげな敵役を演じるのが、なんと座長・鹿島順一とは恐れ入った。「これはおもしろくなりそうだ」と思う間に、早くも観客の視線は舞台に釘付けとなる。筋書きは単純、秋月藩内の勢力争いで謀殺された大名(花道あきら)の遺児兄妹(三代目虎順・春夏悠生)が、めでたく仇討ちをするまでの紆余曲折を、「弁天小僧菊之助」もどきの「絵巻物」に仕上げようとする趣向で、見せ場はまさに三代目虎順の「女装」が「男子」に《変化(へんげ)する》一瞬、これまでは虎順と花道あきらの「絡み」だったが、今日は虎順と座長の「絡み合い」、どのような景色が現出するか、待ちこがれる次第であった。だがしかし、「見せ場」はそれだけではなかった。遺児兄妹の補佐役が、これまでの家老職(座長)に変わって、今回は腰元(春日舞子)。亡き主君を思い、その遺児たちを支える「三枚目」風の役どころを、春日舞子は見事に「演じきった」と思う。加えて芸妓となった妹と相思相愛の町人・伊丹屋新吉(蛇々丸)の「色男」振り、敵役の部下侍(春大吉、赤胴誠)のコミカルな表情・所作、芸妓置屋のお父さん(梅之枝健)の侠気、妹・朋輩(生田晴美)の可憐さ等々・・・。絵巻物の「名場面」は枚挙にいとまがないほどであった。
なるほど、「舞台の見事さ」に圧倒されたか、客筋が当たったか(今日の団体客は、飲食をしなかった)、客席は「水を打ったように」集中する。いよいよ「女装男子」変化(へんげ))の場面、若手の芸妓が見事「若様」に変身して、仇討ち絵巻は大団円となった。その「変化ぶり」は回を追うごとに充実しているが、欲を言えば「女から男への」一瞬をを際だたせるための演出、芸妓の「表情」が、まず「男」(の形相・寄り目でもよい)に変わり、敵役を睨み付ける、呆気にとられる敵役との「瞬時のにらみ合い」、その後、「声を落とした」(野太い)男声での「決めぜりふ」という段取りが完成したら・・・、などと身勝手な「夢想」を広げてしまった。さすがは「鹿島順一劇団」、どんなに不利な条件下であっても、「やることはやる」、しかも一つの芝居を、いかようにも「変化」(へんげ)させて創出できる、その「実力」に脱帽する他はなかった。
 舞踊ショー、座長の「大利根月夜」、昨年末の座長大会DVD(「年忘れ顔見世座長大会」・関西大衆演劇親交会)で観た恋川純弥・平手酒造の姿が「色褪せる」ほど、斯界随一の名優を証づける面目躍如の艶姿であった、と私は思う。
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2023-11-13

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《悲劇「里恋峠」、座長の「喜劇」的な死に方》

演劇グラフ 2011年 06月号 [雑誌]演劇グラフ 2011年 06月号 [雑誌]
(2011/04/28)
不明

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【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年5月公演・九十九里太陽の里〉                                      芝居の外題は「里恋峠」。その内容は「演劇グラフ」(2007年2月号)の〈巻頭特集〉で詳しく紹介されている。それによると「あらすじ」は以下の通りである。〈賭場荒らし見つけた更科三之助(三代目鹿島虎順〉は、その男(蛇々丸)をこらしめようとする。そこに川向こう一家親分・万五郎(花道あきら)が現れる。実は、その賭場荒らしは万五郎の子分だったのだ。三之助は万五郎たち(梅之枝健、蛇々丸、赤銅誠)に一人で立ち向かうがすぐにねじ伏せられてしまう。この危機に、(更科一家・親分)三衛門たち(親分・鹿島順一、姉御・春日舞子、代貸し・春大吉)たちが現れ、三之助は助けられるが、早まった行為に怒った実父であり更科一家の親分の三衛門から勘当、旅に出ることに。その後、まもなく三衛門は病に倒れ、一家も落ち目になっていった。旅を終えた三之助が、更科一家に帰ってくると、家には瀕死の三衛門が・・・。事情を聴くと、三之助のいない間に、万五郎が三之助の借金のカタにと、お里(生田春美)を連れて行ったと言う。どうすることもできなかった三衛門は、お里だけにつらい思いをさせるわけにはいかないと腹を切っていたのだ。お里を取り戻すため、三之助は万五郎のところへ向かうのだが・・・。〉筋書は定番、何と言うこともない「単純な仇討ち、間男成敗の物語」。主役は三之助(虎順)に違いないのだが、見せ場は「落ち目」になった三衛門の「病身」の風情にあった。いわゆる「ヨイヨイ」で、身のこなしが「思うに任せない」様子が何とも「あわれ」で、通常なら「泣かせる」場面だが、景色は「真逆」。カタをつけにきた万五郎とのやりとり、(三之助が書いたと言われる証文を手にして、文書の裏を見ながら)「いけねえ、いけねえ。もう目も見えなくなって来やがった」「・・・?。何やってんだ。それは裏じゃねえか」「・・・そうか、裏か」といって表に返し「・・・?。ダメだ。字も読めなくなってしまった。オレノ知っている字が一つもねえ・・」「・・・?バカ、それじゃあ逆さまだ」「なんだ・・・。逆さまか」が、何ともおかしい。加えて、「落ち目」三衛門に見切りをつけ、万五郎と「いい仲」になろうとする姉御(春日舞子)に思い切り蹴飛ばされ・・・。(ひっくり返りながら)「今日は、これくらいですんだ。まだ、いい方だ」といって笑わせる。自刃の後、三之助の帰宅を見届けて、「大衆演劇って便利なもんだ、こんな時には必ず倅が帰ってくることになっているんだ!」、極め付きは臨終間際、「お里を連れ戻し、オレの仇を討ってくれ」と言いながら「事切れた」か、と思った瞬間、息を吹き返し「あっ、そうだ、忘れてた。もう一つ言わなければならないことがあったんだ」で、観客は大笑い。「妹を助け出すことができたなら、里恋峠の向こう更科の地で、鋤・鍬もって《綺麗に》暮らせよ」と進言。「今度こそ、本当に死にます」と断りながらの臨終は、「お見事」。
 九州の大川龍昇・竜之助にせよ、関東の龍千明にせよ、およそ名優というものは「悲劇を悲劇のまま終わらせない」、さげすまれ、いじめられ、哀れな様相の中でも、必ず「笑わせる」。なぜなら、その「笑い」こそが、弱者からの「共感」「連帯」の証であり、明日に向かって生きようとする「元気の源」になるからである。
 舞踊ショー、蛇々丸の「安宅の松風」は天下一品。弁慶、義経、富樫の風情を「三者三様」、瞬時の「所作」「表情(目線)」で描き分ける「伎倆」は「名人芸」。座長・鹿島順一の「至芸」を忠実に継承しつつ、さらなる精進を重ねれば「国宝級」の舞姿が実現するに違いない、と私は思う。



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2023-11-12

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「旅の風来坊」は、新人・壬剣天音の初舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年5月公演・大阪満座劇場〉
この劇場は今月限りで閉館する。また一つ、「趣深い」芝居小屋が消え去ることは、残念の極みという他はない。近所の喫茶店主の話。「あそこは桟敷席だから、座るのがしんどくて・・・」、なるほど、「桟敷」も趣の一つと思っていたが、時代遅れということか・・・。そういえば、ほぼ2年前(平成21年10月)、「鹿島順一劇団」が3年余りの関東公演を終えて「故郷に錦を飾った」のもこの劇場であった。げに、月日のたつのは早いものである。さて、芝居の外題は「旅の風来坊」。今日は、新人の壬剣天音(みつるぎあまね・中学3年生)の誕生日とあって、ナント、座長から「主役」をプレゼントされたのであった。この芝居の舞台について、『演劇グラフ』(2007年2月号)が詳しく(s写真入りで)紹介している。あらすじは以下の通り。〈ある日、仏一家の代貸・藤次が恋女房のおさわに裏切られ、勘造一家に襲われる。おなみと三太が帰りの遅い藤次を心配して待っていると、股旅姿の侠客が、一宿一飯の恩義に預かりたいと訪ねてくる。その堂々とした態度に、ただ者ではない気配を感じ取ったおなみは、三太に世話をさせるのだが、三太はそのことに全く気づかない。そうこうしているうちに、致命傷を負った藤次が帰ってきて、事の経緯を告げ息絶えてしまう。自分を襲ったのは勘造で、親分も手にかけていたのだ。それを知ったおなみと三太は、仇討ちを誓う。夜が明け、侠客は旅立ってしまう。侠客が一宿一飯の恩義により、一家の仇を討ちにいったのだと気づいたおなみと三太は急いで後を追いかけるのだった。実はこの侠客、清水の次郎長の子分・追分の三五郎だった・・・。〉当時の配役は、三五郎・三代目鹿島虎順(現・三代目鹿島順一)、藤次(花道あきら)、おさわ(春大吉))、おなみ(春日舞子)、三太(蛇々丸)、勘造・座長鹿島順一(現・甲斐文太)であった。主役について鹿島虎順は以下のように語っている。〈この「旅の風来坊」は、僕が初めて主演をしたお芝居です。初めてこの芝居をしたのは僕が13歳くらいの時、子分を斬ったのもこの芝居が初めてでした。台詞は少ないんですが、少ないといっても、要所要所でヤマをあげて決める台詞回しが難しいですし、芯(しん)としての落ち着きがないと雰囲気が出ないんですね。主演であるプレッシャーを感じながら、いつも一生懸命演じています〉。さて、今回の配役は、三五郎に新人・壬剣天音、おさわに赤胴誠、三太に座長・三代目鹿島順一という顔ぶれに変わっていたが、この三人は、おそらく誰もが初役。「芯としての落ち着き」を見せなければならない三五郎、対照的に、「軽さ」が目立つ三枚目の三太、抜け目のない悪女のおさわ、という「難役」を、相当のプレッシャーを感じながら、一生懸命に演じていた、と私は思う。とりわけ、女形初役の赤胴誠の風情は魅力的であった。仇役勘造親分に取り入ろうとする「絡み」(媚び)具合は、師匠・甲斐文太との呼吸もピッタリで、「お見事」!。主役の壬剣天音は、文字通り「初舞台」、台詞を覚えるだけで精一杯であったろうが、「よくやった」、基礎基本を学ぼうとする誠実さが感じられて清々しかった。師匠の三代目鹿島順一が「初めて主演をしたお芝居」を出発点に、ますますの精進を重ねていただきたい。今日もまた、「鹿島順一劇団」の《旬の物》を頂戴した思いで、元気いっぱい帰路に就くことができたのであった。
男 追分三五郎男 追分三五郎
(2005/08/24)
一文字辰也

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2023-11-09

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「黒髪道中・縁結びの三五郎」は「蛍火」の風情》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年5月公演・大阪満座劇場〉
芝居の外題は「黒髪道中・縁結びの三五郎」。私は、この芝居を昨年(平成23年4月))、尼崎・座三和スタジオで見聞している。その時の感想は以下のとおりであった。〈芝居の外題は「黒髪道中・縁結びの三五郎」。筋書きは単純、磯浪一家と三つ房一家の抗争にからんだ仇討ち物語である。磯浪一家の親分はすでに病死、今ではその姐さん(春日舞子)が堅気になって川魚料理屋を営んでいる。腕利きの壷振りだった子分の三五郎(座長・三代目鹿島順一)も、今では女房(春夏悠生)持ちの板前、堅気の仕事も板についてきた。そんなところへ、三つ房一家のの親分・留吉(甲斐文太)が 、用心棒(花道あきら)と子分(赤胴誠、滝裕二)を連れてやってきた。身内に料理を馳走させながら、留吉の魂胆はこの料理屋を乗っ取ることにある。姐さんと二人きりになったところで、お決まりの「金返せ」。亡くなった親分に五十両貸していたという。姐さん「今すぐには無理」と断るが「じゃあ、明日の一番鶏が鳴くまで」ということで話がついた。とはいえ、そんな大金がすぐさま調達できるはずもなく、姐さんは思案にくれたが・・・。やむなく三五郎を呼び、「壷を振って五十両稼いでくれないか」と頼み込む。今は堅気の三五郎、しばし逡巡したが、(他に良い手段があろうはずもなく)意を決して「ようし!やりましょう。でも1回限りにしておくんなさい」と言い残して博打場へ・・・。それを見咎めたのが恋女房、「お前さん、何処へ行く気?まさか、壷振りにいくんじゃないだろうね」。三五郎、隠し切れずに一部始終を打ち明ければ、恋女房、欣然として曰く「なんだ、そんな事情があったのかい。お前さん、これを持ってお行きなさい」。、懐の財布、肩身の櫛まで差し出した。「ありがてえ」、三五郎もまた欣然として博打場へ・・・。だがしかし、である。子分たちと飲んでいた留吉が再登場、「おい、誰かいねえか」と店の者を呼び出す。間も悪く顔を出したのは三五郎の女房、その色香に、むらむらとして「いい女じゃねえか、酌をしてくれ」「あたしは三五郎の女房、酌女ではありません」「なんだ、そうだったのか。ますます気に入った」などとほざきながら、酔いにまかせて襲いかかる、といった按配で、女房はあえなく斬殺されてしまった。酒の上とはいいながら、さすがに留吉、「やばい」と思ったか身内の一同を引き連れて闇の中に遁走、行方知れずと相成った。そんな経緯はつゆしらず、三五郎、思い通りに五十両を稼いで、欣然と帰還したが、待っていたのは恋女房の亡骸。その黒髪を胸に抱いて、復讐の旅に出る。それから何年経っただろうか。場所はある茶店の前、三五郎が立ち寄ると、あたりは賑やかな雰囲気、店子(幼紅葉)の話では、土地(新田)の親分が祝言をあげる由、ところが新婦(春夏悠生)には情夫(春日舞子・二役)が居る。その親分とは、あの留吉に他ならず、三五郎、めでたく恋女房の仇を討つことができたが、助けた新婦は亡妻に「瓜二つ」、やるせなささも、いや増して、泣く泣く情夫との「縁結び」を執り行って大団円となったが、ひとり三五郎の淋しげな風情が、何とも印象的な舞台であった。願わくば、恋女房役の春夏悠生、酷なようだがこれも役者の宿命、心底から三代目座長に「惚れぬく」風情が欲しかった〉。さて、今回の舞台、恋女房役の春夏悠生、《心底から三代目座長に「惚れぬく」風情》を、見事に描出することができた、と私は思う。口上での座長の話。「恋女房の亡骸に取りすがって、泣き泣き黒髪を切り落とす場面があります。亡骸は屏風の陰に横たわっていますが、本当は衣装だけ、体の部分は段ボールの箱なんですよ。だから、ボクは段ボールの箱に取りすがって泣いているんです。悠生さんには、裏の仕事がありますから、横たわっている暇なんてありません。今日の舞台は広くなかったので、うまい具合に行きましたが、いつも段ボール箱がバレやしないか心配しています。お芝居って面白いですよね!ハハハハハ」おっしゃる通り、芝居の極意は「虚実皮膜」に尽きるとはいえ、三五郎と恋女房が「生前」に見せた「絡み」が見事であったればこそ(その余韻を感じつつ)、観客(私)は、段ボールの亡骸に「涙する」ことができるのだ。さて、舞台は大詰め、恋女房役の春夏悠生は、別人の花嫁役で再登場・・・。三五郎はその花嫁姿を一目見て、恋女房と「瓜二つ」、夢じゃないかと我が眼を疑ったが、懐の黒髪が「現実」に引き戻す。そんなことは何も知らない花嫁、怪訝そうに三五郎を見つめる、(心の)「すれ違い」が、ひときわ鮮やかな景色を描き出す。加えて、これもまた別人の花婿役に扮した春日舞子の、(剽軽な)無言の演技(「表情」「仕種)が色を添える、といった按配で、たいそう見応えのある舞台に仕上がっていた。今日もまた、観客数は20人弱、知る人ぞ知る「鹿島順一劇団」の名舞台は「蛍火」のように美しく輝いている。その蛍は、いつまで、そして、どこまで、飛んで行けるのだろうか。「旅の一座の名もない花形(スター) ビラの写真のさみしい顔よ 遙かあの町あの村過ぎて 行くかはるばる流れの旅路」(詞・吉川静夫、曲・上原げんと、唄・津村謙)という名曲(「流れの旅路」)を(今さらのように)思い出しつつ、「遠征」から(はるばるの)帰路に就いた次第である。
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2023-10-26

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《座長誕生日公演は「越中山中母恋鴉」》

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【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年5月公演・九十九里太陽の里〉                                      今日は座長・鹿島順一、54歳の誕生日、といっても特別な趣向があるわけではなく、強いて挙げれば、芝居の主役を三代目・虎順と交代 したくらいであろう。外題は「越中山中母恋鴉」、どこの劇団でも定番にしているポピュラー(通俗的)な演目だが、この誰にでもできそうな月並みな役柄・浅間の喜太郎を、斯界きっての名優・鹿島順一がどのように演じるか、私にとっては興味津々、胸躍らせて馳せ参じた次第である。 ゴールデンウィークの中日とあって、施設は「大入り満員」、劇場も「ほぼ満席」状態,赤子の泣き声、食事客の私語、従業員の立ち歩き等々、「騒々しい」雰囲気の中での舞台であったが、出来映えは「お見事」という他はなく、通常は1時間半かかるところ、今日は55分で閉幕、まさに「綺麗に仕上がった」典型というべきであろう。(観劇専門の劇場でない場合、観客の集中度が不足している場合、早々に芝居を終わらせるのが、この劇団の特長であり、だからといって、その出来栄えが(時間に)左右されることがないというのも、また、この劇団の特長なのである)
 この芝居、「瞼の母」の兄弟版という筋書きで、幼い頃、生き別れとなった母を訪ねる兄弟鴉の物語。といっても弟はヤクザ同士の出入りですでに落命、白布に包まれた「骨箱」という姿に変わり果てている。いまわの際に「おっ母さんに、会いてえなぁ・・・」といって事切れたとか。兄の喜太郎(座長・鹿島順一)は、その思いを遂げてやりたいという一心で、ここ越中山中までやってきた、という場面。通常(の劇団)なら、白布に包まれた「骨箱」を胸にぶらさげて(位牌の場合は胸に隠して)登場する段取りだが、今日の舞台は違う。さりげなく人目に晒されないよう、縞の合羽と三度笠で覆い隠しながら、「新吉(亡弟の俗名)よ、もうすぐおっ母に会えるかも・・・」と話しかける時、はじめて真っ白な「骨箱」が露わになるのだ。名優・鹿島順一の手にかかると、この「骨箱」は単なる小道具を超えて、魂の吹き込まれた「登場人物」にまで「変身」してしまうほどである。 生母(春日舞子)に再会したのは二十年ぶり、「たしかに私には二人の子があった。名前は喜太郎と新吉・・・」という生母の話を聞いて、「今度こそ間違いない・・・」と「小躍り」する喜太郎の風情は絶品、にもかかわらず、なぜか「けんもほろろ」の応対に加えて、その大切な、大切な「骨箱」まで、えんぎでもない!と庭に抛りだされる始末。汚れてしまった「骨箱」の砂や泥をていねいに、ていねいに拭き落とそうとする喜太郎の姿、それを見つめる生母の「動揺」が「一幅の屏風絵」のように鮮やかであった。
 覆水は盆に帰らず、この「仕打ち」によって、喜太郎は「生母との離別」を決意する。「あれほど慕っていた弟を、『えんぎでもない!』という一言で捨て去るとは・・・」
その悔しさ、憤り、言いようのない絶望感の描出は天下一品、以後、「骨箱」は喜太郎の胸に「しっかりと」抱かれて(吊るされて)、やさしく、温かく縞の合羽に包まれることになった。
 生母、妹おみつ(三代目虎順)の「窮地」を救ったあと、喜太郎がおみつに話しかけた。「いつもなら、君が私の役をやるところ、今日は私の誕生公演、主役を譲ってくれてありがとう。でも、久しぶりで、緊張のしっぱなし。セリフもとばしとばしで、どうもスンマセン」と言って、生母にまで謝った。とはいえ、それは一時の「息抜き」(アドリブ)、再び「骨箱」を抱きしめると、「それじゃあ、ごめんなすって!」という言葉を残し、一目散に(生母、妹を「一瞥もすることなく」)退場する「寂しげな風情」は、名優・鹿島順一の実生活・生育史を踏まえた演技の賜物であり、並の役者には到底及ばない「至宝級」の舞台姿であった、と私は思う。
通常の劇団なら、座長の「誕生日公演」、ケーキやプレゼント、御祝儀が飛び交う「賑々しい」雰囲気に包まれるのだが、そんなこと(誕生日イベント)には「いっさい無頓着」、「私如きの誕生日など、お客様には、何の関わりもないこと」と言って、普段通りの舞台を務める姿勢が、何とも「潔く」「晴れやかで」、さすが実力ナンバーワン・「鹿島順一劇団」(別名自称・「劇団・火の車」)の面目躍如、という(誕生日)公演に心底から満足・納得した次第である。



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2023-10-25

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《虎順の舞踊「忠義桜」は絶品、加えて若手新人の「変化」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年5月公演・九十九里「太陽の里」〉                           この劇場の客筋は「団体」「家族」で「海水浴」「温泉浴」「砂風呂」「バーベキュー」等々を「楽しもう」とする連中がほとんど、「なんだ、芝居もやっているのか。ついでに観てみようか」といった気持ちでやってくる。まさに「花より団子」、舞台よりは「食い気」、鰯の天ぷらや地魚の寿司を頬ばりながらの観劇とあっては、周囲は騒然、舞台の景色・風情を鑑賞するには「最悪のコンデション」といえるだろう。そんな中で、健気にも芝居の外題は「噂の女」。春日舞子主演、鹿島順一共演による「劇団屈指の名作」である。出来映えは、「いつもどおり」、絶妙な呼吸、音響、照明と「絵になる景色」の連続だが、客席の集中度は不十分、「宴会場の余興」程度に「汚されてしまう」のが、何とも口惜しい。「猫に小判」「馬の耳に念仏」とは、このことか。とはいえ、座長、春日舞子を筆頭に座員の面々は「腐ることなく」「手抜きすることなく」、最後まで「渾身の演技」を持続したことは「立派」。とりわけ、事の真相を知った後、姉「噂の女」(春日舞子)に、泣いて詫びながら、彼女の草履を「宝物のようにして」拭く弟・君男(花道あきら)の「姿」が、ことのほか「絵になっていた。
 加えて、舞踊ショー。座長の「弥太郎笠」、蛇々丸の「一心太助」、虎順の「忠義桜」は《至芸》そのもの。とりわけ、虎順の舞台、音曲は詩吟入り民謡(唄・三門順子)で、古色蒼然たる風情だが、おそらく劇団の伝統として代々受け継がれてきた演目であろう、また劇団の三代目として、初舞台以来、月に1度は披露してきたであろう、えもいわれぬ舞姿が、その「初々しさ」ゆえに観客の心を「間違いなく」打つのである。
 そういえば、この劇団の若手(新人)・春夏悠生(「明治桜」・二葉百合子)、生田春美(「木遣り育ち」・由紀さおり)、赤銅誠(「箱根八里の半次郎」・氷川きよし)の舞踊も、その「初々しさ」ゆえに感動的である。私は、彼らの入団当初から舞台姿(個人舞踊では、毎回同じ演目を繰り返している)を見聞しているが、その「変化(へんげ)」(成長)ぶりは、目を見張るものがある。「基礎・基本」の徹底を図るためだろうか、「技」の習得から習熟、熟達、熟練の「道筋」を「着実に辿らせようとする」師匠(座長、春日舞子)の(並々ならぬ)「教育力」(「技」へのこだわり)と、それに応え、伸びようとする彼らの(素直な)「学習力」が結びついている証だと、私は思う。まだまだ未完成、未熟な「技」に違いない。だがしかし、それは「花のある未熟さ」「末が楽しみな未熟さ」なのだ。
 「がんばれ、若手新人!あなたたちは着実に成長している。今のままでよい。そして、ひとつでも多く先輩の《技》を盗むこと、いざというときに《代役》ができるよう、訓練を怠らないこと」。この劇団にいるかぎり「明日の出番はきっとくる!」などという言葉を、(心中で)掛けつつ帰路に着いた。



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2023-10-24

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「紺屋と高雄」・三代目鹿島順一の課題と赤胴誠の挑戦》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年4月公演・座三和スタジオ〉
この演目を見聞するのは3回目である。1回目は、平成20年2月公演(川越三光ホテル)。その時の感想は以下の通りである。〈祝日とあって観客は「大入り」。芝居は「紺屋高尾」、配役は、座長・紺屋(久造)、虎順・高尾、二人とも発熱(感冒)を押しての熱演だったが、やはり16歳の若手に「遊女」役は荷が重い。「汚れ役」(鼻欠けおかつ)で登場した蛇々丸が舞台を盛り上げた。客から「蛇々丸の女形を観たい」という所望が多いので、今日はそのリクエストに応えたという。しかも、それが何と泥・垢にまみれた「夜鷹」役とあって、客は見事な肩すかしを食らった。そうした演出が実に「粋」である。この「汚れ役」は、通常、「鼻に抜けた」口跡で演じるが、「表情」(化粧)「所作」だけで「鼻欠け」役を演じた蛇々丸の「実力」は半端ではない〉。2回目は、平成20年3月公演(小岩湯宴ランド)。その時の感想は以下の通りである。〈「紺屋高尾」の夜鷹・鼻欠けおかつ(蛇々丸)は「絶品」で、三条すすむと「肩を並べている」。特に、セリフの出番がないときの、何気ない「所作」が魅力的で、客の視線を独占してしまう。この役は、「鼻欠け」という奇異感を超えた「あわれさ」「可愛らしさ」を漂わせることができるかどうか、が見所だが、十分にその魅力を堪能できる舞台であった〉。さて、今回は3回目、舞台の景色はどのように変貌したか、興味津々で来場した次第である。まず、紺屋の甲斐文太は申し分ない。特に、母親役の春日舞子、医者役の花道あきらと絡んで、「恋煩いを」演じる風情は天下一品、他の追随を許さない出来栄えであった。次に、高雄の三代目鹿島順一。三年前は〈やはり16歳の若手に「遊女役」は荷が重〉かったが、今回は見違えた。舞台に登場しただけで周囲を圧倒する、その「美しさ」「豪華絢爛さ」「上品さ」もまた天下一品、他の追随を許さない。まことに見事な出来栄えであった。課題は、「口跡」。やや声を落とすだけでよい。加えて、(浪曲師)初代篠田實の、あの「殺し文句」を思い浮かべるだけでよいのだ。「遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う、嘘と嘘との色里で、恥もかまわず身分まで、よう打ち明けてくんなました。金のある人わしゃ嫌い。あなたのような正直な方を捨て置いて、他に男を持ったなら女冥利に尽きまする。賤しい稼業はしていても、私もやっぱり人の子じゃ、ああ、情けにかわりはあるもんか・・・」三代目鹿島順一は弱冠十九歳、必ずや、将来、篠田實の風情を超えるだろうことを私は確信する。さて、その次は「鼻欠けおかつ」、これまでの蛇々丸に変わって、なんと新人の赤胴誠!なるほど、まだ〈「鼻欠け」という奇異感を超えた「あわれさ」「可愛らしさ」を漂わせる〉には及ばなかったが、口跡に「開鼻声」(フガフガ声)を用いることなく、「表情」(化粧)「所作」だけで演じようとする姿勢は立派。さらに、〈セリフの出番がないときの、何気ない「所作」〉「視線」を一工夫すれば、「絵になる風情」を描出することができるだろう。彼もまだ十八歳、今後の精進に期待したい。



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2023-10-23

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「黒髪道中・縁結びの三五郎」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年4月公演・座三和スタジオ〉
芝居の外題は「黒髪道中・縁結びの三五郎」。筋書きは単純、磯浪一家と三つ房一家の抗争にからんだ仇討ち物語である。磯浪一家の親分はすでに病死、今ではその姐さん(春日舞子)が堅気になって川魚料理屋を営んでいる。腕利きの壷振りだった子分の三五郎(座長・三代目鹿島順一)も、今では女房(春夏悠生)持ちの板前、堅気の仕事も板についてきた。そんなところへ、三つ房一家のの親分・留吉(甲斐文太)が 、用心棒(花道あきら)と子分(赤胴誠、滝裕二)を連れてやってきた。身内に料理を馳走させながら、留吉の魂胆はこの料理屋を乗っ取ることにある。姐さんと二人きりになったところで、お決まりの「金返せ」。亡くなった親分に五十両貸していたという。姐さん「今すぐには無理」と断るが「じゃあ、明日の一番鶏が鳴くまで」ということで話がついた。とはいえ、そんな大金がすぐさま調達できるはずもなく、姐さんは思案にくれたが・・・。やむなく三五郎を呼び、「壷を振って五十両稼いでくれないか」と頼み込む。今は堅気の三五郎、しばし逡巡したが、(他に良い手段があろうはずもなく)意を決して「ようし!やりましょう。でも1回限りにしておくんなさい」と言い残して博打場へ・・・。それを見咎めたのが恋女房、「お前さん、何処へ行く気?まさか、壷振りにいくんじゃないだろうね」。三五郎、隠し切れずに一部始終を打ち明ければ、恋女房、欣然として曰く「なんだ、そんな事情があったのかい。お前さん、これを持ってお行きなさい」。、懐の財布、肩身の櫛まで差し出した。「ありがてえ」、三五郎もまた欣然として博打場へ・・・。だがしかし、である。子分たちと飲んでいた留吉が再登場、「おい、誰かいねえか」と店の者を呼び出す。間も悪く顔を出したのは三五郎の女房、その色香に、むらむらとして「いい女じゃねえか、酌をしてくれ」「あたしは三五郎の女房、酌女ではありません」「なんだ、そうだったのか。ますます気に入った」などとほざきながら、酔いにまかせて襲いかかる、といった按配で、女房はあえなく斬殺されてしまった。酒の上とはいいながら、さすがに留吉、「やばい」と思ったか身内の一同を引き連れて闇の中に遁走、行方知れずと相成った。そんな経緯はつゆしらず、三五郎、思い通りに五十両を稼いで、欣然と帰還したが、待っていたのは恋女房の亡骸。その黒髪を胸に抱いて、復讐の旅に出る。それから何年経っただろうか。場所はある茶店の前、三五郎が立ち寄ると、あたりは賑やかな雰囲気、店子(幼紅葉)の話では、土地(新田)の親分が祝言をあげる由、ところが新婦(春夏悠生)には情夫(春日舞子・二役)が居る。その親分とは、あの留吉に他ならず、三五郎、めでたく恋女房の仇を討つことができたが、助けた新婦は亡妻に「瓜二つ」、やるせなささも、いや増して、泣く泣く情夫との「縁結び」を執り行って大団円となったが、ひとり三五郎の淋しげな風情が、何とも印象的な舞台であった。願わくば、恋女房役の春夏悠生、酷なようだがこれも役者の宿命、心底から三代目座長に「惚れぬく」風情が欲しかった。



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2023-10-19

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《「里恋峠」、新人・幼紅葉の初舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成22年4月公演・香川城山温泉〉
芝居の外題は「里恋峠」。金看板・更科一家親分三衞門・座長・鹿島順一、その息子三之助・鹿島虎順、その妹お里・新人・幼紅葉、親分の後妻おたき・春日舞子、代貸松造・春大吉、敵役の川向こう一家親分万五郎・花道あきら、その子分たち・蛇々丸、梅乃枝健、赤銅誠、滝裕二という配役で、注目すべきは新人・幼紅葉の起用である。外題の「里恋峠」は地名だが、娘・お里を案じる父・三衛門の想いも重ねられていることは確かであろう。だとすれば、お里はいわば「準主役」的存在、極めて重要な役どころではないだろうか。はじめは勢いのよかった更科一家も親分が中風で倒れた後は、子分衆は一人減り、二人減り・・・という「落ち目」で、今では代貸一人だけとなってしまった。その松造も、今は一家に見切りをつける潮時と「盃を水にしてください」と申し出る有様、加えて後妻からも離縁を迫られる始末で、病臥の親分、まったく孤立無援となってしまった。最後のたのみは娘のお里だけ(息子の三之助は勘当、現在、旅修行中)という状況の中、闘病中の三衞門を「かいがいしく」「かわいらしく」「無邪気に」「明るく」介護する風情が不可欠、後妻に入った、おたきの「あばずれ」「放蕩」気分とのコントラストが「見せ所」であろう。さて、一日目の舞台、新人・幼紅葉にとっては、いかにも荷が重すぎた。まだ、登場して「台詞を間違いなく言うだけで」精一杯、その「つたなさ」が、座長はじめ一同の「足を引っ張る」結果にななったことは否めない。その結果、《厳しさ、それは親子の愛》という眼目の描出は「不発」のまま終わった感がある。だがしかし、である。「そうは問屋が卸さない」のがこの劇団の真骨頂、(この芝居は二日替わり)二日目の舞台は景色・風情が「一変」していたのである。昨日とは打って変わり、お里の所作・表情・口跡が「芝居になってきた」。とりわけ、「視線が決まり」、「喜怒哀楽の表情」を描出することができるようになってきた。例えば、旅に出ている兄・三之助を「恋しく思い出す」、後妻おたきの「心変わり」を感じて表情を曇らせる、おたきの「身勝手な振る舞いを睨みつける」等々・・・。「かわいらしさ」「けなげさ」「無邪気さ」といったお里の「人となり」が、わずかとは言え、感じられる。新人・幼紅葉の「一日の成長」は確実、そのことによって、愁嘆場を演じる座長の「技」がより鮮やかさを増したたのである。万五郎一家に連れ去られたお里を追いかけようとする三衛門の「あわれさ」に多く観客が涙し、拍手が鳴り止まなかったのだから。「一日にしてこれほど変わろうとは・・・」、私は驚嘆・落涙する他なかった。今日の舞台は昨日の舞台があったればこそ、文字通り「失敗は成功のもと」「日々精進」を地で行くような結果であった。(幼紅葉の努力、素直さ、彼女を「一日で成長させた」座長はじめ各座員の面々に心底から拍手を送りたい)三衛門臨終の場面、本来なら「一度事切れたように見せかけて」、息を吹き返し、「あっ、忘れていた。もう一つ言い残しておく事がある」と笑わせる場面だが、座長、深い感動に包まれている観客の雰囲気を察してか(割れるような拍手を聞いて)「今日はこのまま死んじゃおう」と思ったに違いない。「喜劇的な死」の場面は割愛されて終わった。まさに「舞台は水物」、その日の客筋に合わせて芝居をする、その典型を観る思いであった。三日目の舞台、外題は「月とすっぽん」とのこと、可能な限り来場したいと思いつつ、帰路についた次第である。

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2023-10-04

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「春木の女」は大衆演劇の最高傑作》

【鹿島順一劇団】(平成20年3月公演・小岩湯宴ランド)
 芝居の外題は、昼の部「春木の女」、夜の部「仲乗り新三」。いずれも特選狂言、特に「春木の女」は「鹿島順一劇団十八番の内」と銘打っている。さもありなん、この芝居は、これまで私が観た大衆演劇の中でも「最高傑作」といっていい舞台であった。
春木の浜の漁師夫妻(夫・梅乃枝健、妻とら・鹿島順一)には二人の娘がいた。姉(お崎・春日舞子)、妹(お妙・三代目虎順)である。お崎は利発、男勝りな気性で働き者だが、お妙は育ち遅れが目立ち、歩き始めたのが四歳、言葉遣いもまだたどたどしい。はじめは寛容だった村人たちも、今では後ろ指を指したり、白い眼でひそひそ話をするようになっていた。妻・とらは、そんなお妙が不憫でならず「猫かわいがり」、反対にお崎には冷たく「当たり散らす」。しかし、お崎は「じっと堪え」、とらの言い出す無理難題に黙々と従う毎日であった。舞台は一景、ある時、浜で村の若者たち(春大吉、金太郎、赤胴誠、春夏ゆうき、生田春美)が祭り太鼓の稽古をしていると、そこに京都の人形問屋(京や・大手)の次男坊(清三郎・蛇々丸)が「魚釣り」にやってきた。兄(慎太郎・花道あきら)から「暖簾分け」をする時期になり、嫁取りの見合いをさせられ、その煩わしさから逃げてきたのだ。いささかノイローゼ気味で、言葉にも力が入らない。そのなよなよした風情で「釣り場所」を若者(春大吉)に尋ねる「やりとり」が絶品であった。清三郎が退場、そこへお妙が登場、「おとう」(父・梅乃枝健)を迎えに来たのだ。しかし父は先刻、風向きを読んで、「これから時化になる。海へ近寄るのは危ないぞ」と若者たちに警告、帰宅していた。若者たち、「おとうか、おとうならあっちにいるぜ」と言って、お妙を騙す。通り過ぎようとするお妙の前に立ちふさがった。お妙「そこ、のけ」と言うと「裸になったら通したるわ」とからかう。「裸になったら寒い」「寒くないから脱げ」と押し問答しているところに、姉・お崎登場、「あんたたち、何してるねん。お妙のこといじめたらどついたる」とたしなめる。「いや、あんたが、おとら婆さんにこき使われて可哀想と思ったから、ちょっと、からかってみただけや」と弁解するところに、とら登場。「なんや、お前たち、また寄ってたかって、お妙をいじめていたんやな」、すかさずお妙が訴える。「あんな、おかやん、おねやんがうちの頭どつくねん」「なんやて、お崎がぶった?こら、お崎、なんてことするんや!」、「いえ、私は・・・」と絶句するお崎。あっけにとられる若者たち。とら「はよ、貝採りに浜へ行かんかい」と睨みつける。「今日、海は時化る。浜になんか近寄らんほうがええって、あんたんとこのおとやんが言ってたぜ」と抗する若者に、「フン、そんなことぬかしおったか、あの宿六が。意気地がないから、いつまでたっても貧乏暮らしをせなあかん」。直後に猫なで声で「お妙や、こんなアホな連中の中にいると、こっちまでアホになってしまう。はよ帰ろう」と、お妙と共に退場。その途端、浜の方から大きな声、「おおい、誰やら海に落ちたぞ・・・。手を貸してくれ・・・」一同、びっくり。尻込みする若者たちを叱咤して、お崎は浜に駆けだした。やがて、先ほどの清三郎、若者たちに背負われて登場。釣りの最中、波にさらわれたが、命だけはとりとめた。息を吹き返して「ここは地獄か、極楽か?」見上げると、そこにはお崎がすっくと立っていた。「わてを助けてくれたんは、あんたはんでっか?」、「みんなで一緒に助けたんや」、いつのまにか、舞台は清三郎とお崎の二人きり。会話を交わす内に、清三郎の心は決まった。「あんたはんは、素晴らしいお人や。わての女房になってもらえへんやろか」「あほらしい、身分が違います」全く取り合わないお崎、それでも清三郎はあきらめない、約束の証に自分の「守り札」を無理矢理、手渡して退場した。「守り札」をしげしげと見つめるお崎、しかし「こんなもの持ってたら、またおかやんに何言われるかわからへん、ややこしゅうならんうちに・・・」と言いながら、背負い籠に投げ入れたが、実は道の上、知ってか知らずか、さわやかに退場した。一部始終を見ていた風情のとらとお妙、再登場。お妙が拾い上げた「守り札」を手にして破顔一笑のとら、「しめしめ、どうやら、お妙に幸せが舞い込んできたようだ・・・」とつぶやく。そして「お妙や、これは大事なものだから、大切になおして(しまって)おきなはれ」
 舞台は二景、三月後(夏祭り当日)のことである。祭りだというのに、お崎は相変わらず「働きづめ」、とらから言われた用事を全部済ましたつもりだったが、油の買い物を忘れていた。とらにどやしつけられて、そそくさと退場する。そこへ、来客。「押し売り」だろうと無愛想に応対していたとら、京都の大店・京やの長男・慎太郎だとわかると態度が一変した。「これは、これは、京都で一、二を争う大店の旦那はんでっか、ようこそおいで下さいました」「はい、慎太郎と申します」「ああ、あの石原さんでっか」「いえ、石原ちがいます、京やでおます」あいさつが終わり、「今から三月前、京都から来た若者が海に落ちて溺れていたところを助けてくれた娘さんを探しているのですが、御存知ないでしょうか?」「ええ、ええ、よーく知っていますよ。それは、私の娘で『お妙!』と申します」、違う違う、お妙ではないという素振りの夫を「床を叩いて」制する。驚いた慎太郎に向かって「いえね、フナムシがはい上がって来たんですよ」。慎太郎、下座の夫に注目し、「あちらのお方はどなたはんでいらっしゃいますか」とら「ああ、あれでっか。あれはわての、連れ合いです」「へええ・・・。では、この家の御主人でっか?」「ええ、まあ、よそではそういうことになりましょうな。でも家は女尊男卑ですから、私がが主人です」あきれる慎太郎。でも気を取り直して「そうでしたか、実はその若者とは私の弟。今日はその御礼に伺ったわけです。それに、もう一つ、お願いがあるのですが・・・」。待ってましたという表情のとら。「弟がその娘さんに一目惚れして、嫁にほしい」というのです。「はいはい、大店の暖簾わけしたお嫁さんになれるなんて、願ってもないこと、よろしくおたの申します」「そうですか、それはよかった。では、その娘さんに会わせていただけますでしょうか」一瞬、躊躇するとら、しかし意を決してお妙を呼び寄せる。「さあ、粗相のないように御挨拶しなさい」。何も知らずに平伏している慎太郎の背後に立ったまま挨拶するお妙。「コンニチワ」という大きな声に、慎太郎は顔を上げ、様子を一目見て仰天した。「えっ?・・・・・・」思わず出た言葉「これ、人間でっか?」とら、少なからず衝撃を受けたが、平然と「まあ、あんたさんも冗談がきつい。人形屋さんでいつも人形ばかり見ているから、『人間でっか』などというお褒めの言葉がでたんでしょう」と言い放つ。慎太郎、「わかりました。疑うわけではありませんが、弟は約束の証に『守り札』を渡したと言っております。それを見せていただけますでしょうか」「ええ、ええ、いいですとも。これお妙、あの大事なものを見せてさしあげなさい」お妙、大切にしまっておいた「守り札」を取り出し、慎太郎に手渡す。なるほど、本物に間違いない。動揺をかくせない慎太郎「たしかに、弟の『守り札』です。御主人、疑うわけではありませんが、ここに弟を呼んで確かめてもよろしいでしょうか」またも、躊躇するおとら、しかし、またも平然と「ええ、ええ、かまいませんとも。でも会ったのは三月前、その時とは少しばっかり、様子が変わっているかもしれませんよ」大急ぎで弟を呼びに行く慎太郎。なよなよと登場する清三郎に向かって「おい、清三郎、おまえだいじょうぶか?よりによってあんな・・・」「どういうことでっか。美しい娘さんだったでしょ?」「おまえ、一度、眼医者に行った方がいい」「なにを言っているのやら・・・」要領を得ぬまま二人は家内へ、清三郎いよいよ対面の場となった。憧れの人を前に、緊張のためか、感激のためか、相手の顔をよく見ようともせず、お妙を抱き寄せる。しかし、「・・・?」様子が違う。あらためてお妙の顔を直視して、驚き飛び退いた。「違う!違う!」あの時の娘とは似ても似つかぬ顔、形。 
そこへ、お崎が買い物から帰ってきた。一目見て、清三郎が狂喜する。「兄さん、私を助けてくれたのは、この娘さんです!」畜生!もう少しでうまくいったのに!と悔しがるとら。「あいつは家の使用人。私の娘ではありません」何が起きているのか、とんと解せぬ様子のお崎。子細をのみこめた慎太郎、今度は高飛車に出た。「わかりました。この家の人たちは、みんなで私たちを騙そうとしています。助けていただいた御礼はいたします。でも、嫁取りの話はなかったことにして下さい。これで失礼いたします」清三郎をせき立てるように立ち去った。がっくりするとら、それでも夫とお崎に当たり散らす。「間の悪いときに帰ってきやがって!せっかくお妙が『幸せ』をつかめるというのに、お前たちは邪魔ばかりしくさる。もうお崎の顔なんか、見とうもない!どうせ、岬で拾ってきた子やないか!あんた!拾ってきた場所に捨てて来なはれ!」その言葉に夫は激高した。「何だと!もう許さん!お前は決して言ってはならぬことをほざいたな。お崎が『捨て子』だなんて!それを言わないことは、オレとお前の固い約束ではなかったんか!」いつのまにか、お妙の姿はなく、夫婦とお崎、三人の愁嘆場(修羅場)となった。
 とらに殴りかかろうとする父親を必死に止めるお崎。「おとうちゃん、おかあちゃんを殴るのだけは止めて。わたしはおかあちゃんをうらんでいない。これまで大きくしてくれて心からありがたいと思っている。もし、おとうちゃんがおかあちゃんをなぐったら、世間の人はどう思う?私がおかあちゃんをうらんで、おとうちゃんに殴らせていることになるじゃないの。だから、お願いだからおかあちゃんを殴ることだけは止めてちょうだい!」と懇願する。じっと、聞いているとら。思わずお崎の顔を見ようとするが、再び背を向ける。あきれた夫、「これだけ言ってもわからない。見下げ果てた奴だ。お崎、おとうちゃんは決心したぞ。おまえと一緒にこの家を出て行く。さあ、二人で出ていこうなあ」表情は晴れ晴れとしていた。最後にお崎「おかあちゃん、私たち家を出て行くけど、身体を大事に長生きしてね。お妙にお婿さんもらって『幸せ』になってね。これまで、本当にありがとう」と、別れの言葉。とら、石のように黙って動かない。
 そこへ、慎太郎、清三郎の兄弟、再登場。「途中まで帰りかけましたが、清三郎がぜひあの娘さんに会いたいというので戻ってきました。今、聞いていれば、娘さんを捨てるとのこと、どうでっしゃろ、その娘さん、京やで拾わせてもろうてもよろしゅうおまっしゃろか」父「いいですとも、いいですとも。京やさんい拾ってもらえるんやったら・・・。よろしゅうおたの申します」「では、おとうさんも一緒に拾いましょ」 
 そのやりとりを聞いていたおとら、ついに口を開いた。その長ゼリフは一話の「人情噺」。
要するに、夫婦は子宝に恵まれず寂しい思いをしていたが、ある日、夫が岬に捨てられていた女児を拾ってきた。夫婦は天からの授かり物としてわが子のように育てた。発育も人並み以上で、申し分ない。五年経ったとき、思いもよらず実子が宿った。喜びも倍増、姉妹仲良く、健やかな成長を期待したが、なぜか妹は育ちそびれ、私は不幸のどん底に。こんな妹がいるかぎり、姉は幸せになれない。この家と縁を切って「家出でも、してくれれば」と思い、わざと冷たく意地悪な仕打ちを重ねてきたが、姉はますます尽くしてくれる。妹は妹で発育が滞る。そんな繰り返しの中で、私の心には「鬼」が棲みついてしまった。ああ、恐ろしい!でも、でも今気がつきました。妹のことばかり考えたのは、私の間違い、姉が幸せになれないのに、妹だけ幸せになれるわけがないということがわかったのです。
そして慎太郎に言う。「貧乏暮らしはしていても、我が家はもと網元。我が家の娘として京やさんに嫁がせたいと思います」
 姉に言う。「これまでのこと、許しておくれ。決してお前が憎かったわけじゃあないんだよ」
夫に言う。「ごめんなさい。これからは男尊女卑、あなたのために仕えます」
かくて大団円となるはずだったが、突如、舞台に表れたのは「花嫁衣装」を身につけたお妙の艶姿(?)、一同「ずっこけたまま」大笑いのうちに閉幕となった。
 この「ずっこけ」が、「春木の女」の眼目(主題)であることは間違いない。お妙は、何のために登場したのだろうか。自分の「嫁入り」を確信しているのか、姉の「嫁入り」を寿いでいるのか、それは観客の判断に任せるという「演出」であろう。いずれにせよ、「育ちそびれた」人も「かけがえのない」一員であり、その人と共に、どのように生き、どのように「幸せ」を追求すればよいか、という私たちの課題が、「義理」(理論)ではなく「人情」(愛)の視点から問いかけられていることはたしかである。観客の多くが涙を流していたが、その涙で、どのような心が洗われたのだろうか。
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2023-10-03

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「人生花舞台」は珠玉の絵巻物》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「人生花舞台」。この劇団、この演目の見聞は3回目、今回の配役は大幅に様変わりした。元・歌舞伎役者(老爺)の主役が、座長・鹿島順一から蛇々丸へ、清水の次郎長が花道あきらから座長へ、一家子分の大政が蛇々丸から花道あきらへ、というように。その結果、これまでとは「全く違った趣き」の景色・風情が現出する。この劇団の芝居は、同じ演目であっても、その時、その場所、その空気、その客筋などによって「千変万化」することが特長である。言い換えれば、芝居の出来・不出来は「一期一会」、その日の「客との呼吸」によって決まることを、座長は熟知しており、またその思惑を座員全員が「心得」、つねに「最高の舞台」を作り出そうと「真摯」「懸命」な努力を重ねているということが、この劇団の「素晴らしさ」であり「実力」なのである。
 今回の舞台、主役・蛇々丸は、座長・鹿島順一の「舞台姿」を誠実に「なぞり」ながら、彼独自の「個性」も輝かせている。春大吉の「花形役者ぶり」にも、いっそうの磨きがかかり、「父子の再会」シーンが鮮やかな「絵巻物」のように観てとれた。加えて、その仲をとりもった清水次郎長(座長・鹿島順一)の風格・貫禄は「天下一品」、この芝居に「もうひとりの主役」が登場してしまう、という雰囲気であった。
 舞踊ショー幕開けの組舞踊「忠臣蔵」は、圧巻。「刃傷松の廊下」は、歌唱・鹿島順一、浅野内匠頭・三代目虎順、吉良上野介・蛇々丸、「浅野内匠頭切腹」は、春大吉、「立花左近」は、左近・鹿島順一、大石内蔵助・花道あきら、「俵星玄蕃」は三代目虎順、杉野十兵次・春大吉という役柄で、申し分ない。とりわけ、「刃傷松の廊下」の歌唱・鹿島順一は、元祖・真山一郎よりも「数段上」の実力、多くの観客は「鮒め、鮒め、鮒侍め!カッ、カッ、カッ、ペッ・・・」と罵倒する台詞の時まで、歌い手が誰かに気づかなかったのではないだろうか。欲を言えば「俵星玄蕃」の三代目虎順、その「心情表現」において、まだスーパー兄弟・南條影虎には及ばない。でも、つねに全身全霊で芸道に励む彼のこと、いつかは必ず「追いつき、追い超すだろう」ことを確信する。1月公演も前半を終了、ようやくこの劇団の「客席づくり」が軌道に乗ってきたようだ。開幕前のアナウンスで「拍手」、開幕で拍手、座長をはじめ各座員の登場で拍手、退場で拍手・・・、というように「客との呼吸」が「一致」しはじめた。浅草木馬館で「劇団竜之助」の座長・大川竜之助は、自らが先頭に立ってその「盛り上げ係」に徹していたが、この劇団は、「何もしない」。公演を重ねることによって、いわゆる「御贔屓筋」が「選別」され、「目利きの客」だけで「客席」が埋まるようになるのではないか。客筋は「量よりも質」、そのことが「舞台」を充実させる唯一の道であることを、この劇団は知っている。送迎バス運転手の話。「わざわざ、新潟から来られたお客さんがいるんですよ、どうしても鹿島劇団を観たいんですって。新潟にも劇場があるはずなのにねえ・・・」客席最前列で拍手と花(御祝儀)を贈り続けた、そのお客さんの話。「とうとう来てしまいました。新潟は大雪です。いつも体の調子がよくないんですが、この劇団の舞台を観ると『元気』がでるんです。ありがたいことです」。



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2023-10-02

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「長ドス仁義」の演技は自然体》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越三光ホテル・小江戸座)
 芝居の外題は、昼が「月の浜町河岸」、夜は「長ドス仁義」、いずれも大衆演劇の定番だが、この劇団が演じると、大衆演劇のレベルを遙かに超えてしまう。一般に「時代人情劇」などと呼ばれる芝居だが、まさにその「人情」が、役者の内面から「じわじわと」「滲み出てくる」ところに特長がある。それぞれの役者の個性が、「役どころ」(登場人物の性格)にぴったりはまり、舞台の随所随所で「蛍火」のように光り輝いている。夜の部の開演前、特別席の男性客(70歳代)三人が話している。「今日は、大入りはむずかしいね」「ウン」「大入りでないと役者さんもはりきらないだろう」「この前の劇団は32回も大入りを出したぜ」「なんせ、川越の客は目が肥えているから、半端な劇団じゃ無理だろう」「同じ芝居を2回は観ないもんなあ・・・」私は、この三人がどの程度「目が肥えているのか」興味津々であった。「長ドス仁義」の幕が開き、春日舞子、春大吉、登場、さらに、花道あきら、座長が登場して、三人の視線は舞台に釘付けになる。舞台は二景、蛇々丸、虎順、梅乃枝健、金太郎、赤胴誠(新人)も登場し、花道あきらとの「絡み」から目が離せない。いよいよ三景、蛇々丸と舞子の「絡み」、あきらの「愁嘆場」に涙する。そして終幕、見事、かわいい子分の仇を討ち終えた座長の「艶姿」に拍手の手を止めない。明るくなった客席で、一言、「よかったね」「ウン、うまい!」後は言葉がつながらなかった。「劇団」の実力は「集客能力」に比例しない。「いいものはいい」のである。
 私は、他の劇団が演じる、同じ外題(内容)の芝居を何度も観ている。しかし、どこかが違う。何かが違う。それは、「型に秘められた心情表現の鮮やかさ」とでも言えようか。「型どおり」の演技の中に、それを演じている役者の「個性」が見え隠れしているところが「違う」のだと思う。この劇団の役者は(新人も含めて)、自分の「個性」(長所・短所)を知っている。「分をわきまえた」演技、「相手の個性を生かそうとする」演技に徹しようとしている。それが、「のびのびとした」「個性的で」「自信に満ちた」芸風を培っているのではないか。「人情劇」といえば、藤山寛美、美里英二、大川龍昇など「型」を全面に押し出す演技が定法だが、それを「自然体」で超えようとしているところに「鹿島順一劇団」の素晴らしさがあるのだ、と私は思う。
 舞踊ショー、鹿島順一の至芸・「桂春団治」を観られたことは幸運であった。

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2023-10-01

幕間閑話・「鹿島順一劇団」の《魅力》

「鹿島順一劇団」の《魅力》とは何だろうか。ひと言で言えば、「レンゲソウ」の魅力とでも言えようか。俗に「やはり野に置け蓮華草」と言われるように、「大衆演劇」の《本分》をわきまえている、その《奥ゆかしさ》がたまらない魅力なのである。ある劇場での一コマ、舞台がはねてからの客席での会話。客「素晴らしかった。あなたほどの実力があれば、テレビに出られるでしょ?」座長・三代目鹿島順一(当時は三代目虎順・17歳)「いえ、ボクたちは大衆演劇の役者ですから、テレビには出ません。安い料金で、一人でも多くのお客様に観ていただくのがモットーです。そのために『全身全霊』で頑張ります」。おっしゃる通り。「大衆演劇」の本質は、まず第一に「廉価な入場料」なのである。私が初めて「大衆演劇」を見聞したのは、今から30余年前(昭和47年)、東京・千住の「寿劇場」であったが、当時の入場料は100円前後、それで「前狂言」「歌謡ショー」「切狂言」「舞踊ショー」の魅力を3時間余り、十二分に堪能できたのだから。客筋といえば、地域の老人がほとんどで、客席はまばら、中には寝転がって(音曲を聴いているだけの)老爺・老婆連中も見受けられたほどである。今では、大劇場が常打ち(?)となった、あの「梅澤武生劇団」ですら、当時は、そのような「侘びしい舞台」で場数を踏んでいたのであったが・・・、爾来幾星霜、大きな変遷を遂げたとはいえ、「廉価な入場料」は斯界の伝統として脈々と受け継がれている。平成22年6月、三代目虎順は、三代目鹿島順一を襲名、18歳で座長となったが、その披露公演(大阪・浪花クラブ)でも「廉価な入場料金」(通常料金・1300円)は変わらなかった。まさに「見上げた根性」である。劇団の責任者・甲斐文太(前座長・二代目鹿島順一)が座長時代の口上で、よく口にしていた言葉、「うちの劇団は『地味』です。そのうえ貧乏ひま無し、劇団名は、別に『劇団火の車』とも申します」。文字通り「襤褸は着てても心の錦」、どんな花よりも綺麗な舞台を作り続けているのである。私は、平成19年11月以来、足かけ4年に亘って、この劇団の舞台を見聞してきたが、「日にち毎日」の観客数は(平均すると)20人~30人程度であろうか、お世辞にも「人気劇団」とは言えない。だがしかし、である。「鹿島順一劇団」の面々は、観客数の多寡など歯牙にも掛けない。つねに「全身全霊」で舞台を務める、その姿は感動的であり、また、たまらない《魅力》なのである。三代目鹿島順一が虎順時代に口上でいわく、「今日は20人ものお客様に観ていただきました。ありがたいことでございます」。大衆演劇の「大衆」(観客)は、なぜか「客の入り具合」で、劇団の良し悪しを評価しているようだが、私は違う。落ち着いた、静かな雰囲気の中で、ゆっくりと舞台の景色を堪能できる方が、どれだけ楽しいか。あえて「大入りにしない」こと、それも劇団の「実力」(懐の深さ)のうちだと確信している。さて、肝腎の「舞台模様」だが、「鹿島順一劇団」の芝居は、天下一品である。俗に「十八番」というが、「浜松情話」「春木の女」「噂の女」「大岡政談・命の架け橋」「男の盃・三浦屋孫次郎の最後」「雪の信濃路・忠治御用旅」、「仇討ち絵巻・女装男子」「長ドス仁義」「大江戸裏話・三人芝居」「新月桂川」「月とすっぽん」「心模様」「会津の小鉄」「マリア観音」「悲恋夫婦橋」「越中山中母恋鴉」「里恋峠」「源太時雨」(以上十八番)、その他に「悲恋流れ星」「アヒルの子」「幻八九三」「孝心五月雨笠」「木曽節三度笠」「花の喧嘩状」「上州百両首・月夜の一文銭」「明治六年」「恋の辻占」「仲乗り新三」「浮世人情比べ」「人生花舞台」「関取千両幟」・・・等々といった「名舞台」が「目白押し」である。しかも、その芝居の、配役(「主役」「脇役」「ちょい役」「その他大勢」)は、変幻自在に入れ替わる。「主役はあくまで座長」といったこだわりとは無縁、それぞれの「個性」にあわせて「適材適所」に役者が配される。そのことによって、役者一人一人は、舞台の中で(たとえ、「その他大勢」「ちょい役」であっても)「なくてはならない存在」に変化(へんげ)してしまう。結果、役者の「個性」に磨きがかけられ、彼らの魅力は倍増する。筋書は単純、何の変哲もない定番の芝居であっても、「鹿島順一劇団」の舞台は、つねに輝いている。たとえば「噂の女」、たとえば「越中山中母恋鴉」、たとえば「春木の女」、たとえば「悲恋流れ星」等々、私は、他の劇団の舞台を見聞しているが、その出来栄えは「一味も二味も違っていた」のである。その違いとは、役者の光り具合、また役者相互の「呼吸」(間)の素晴らしさではないか、と私は思う。「鹿島順一劇団」の舞台には、隙がない。役者一人一人が寸分違わぬ「呼吸」によって、演技を展開する。その「呼吸」こそが、技の巧拙を払拭してしまうのだ。拙い技は、拙いなりに「個性」として魅力を発揮するのである。責任者・甲斐文太は、座長時代、口上でいわく「役者は、未経験者(素人)の方が伸びます。色に染まっていると、かえって育てにくいものです」おっしゃる通り、その劇団の芝居は、その劇団の「呼吸」(チームワーク)で作り上げるものだからである。事実、春日舞子、梅之枝健の初舞台は19歳、花道あきらは20歳すぎ、春夏悠生は18歳?、赤胴誠、壬剣天音は15歳、幼紅葉は13歳であり、いずれも出自は「役者の家系」ではなかった(未経験者・素人)に違いない。にもかかわらず、寸分違わぬ呼吸で演技を展開できるのは、まさに責任者・甲斐文太の指導力(演出力)の賜物であろう。事実、この3年間に遂げた、赤胴誠、春夏悠生、幼紅葉ら、若手・新人の「変化(へんげ)」(成長)振りには、目を見張るものがあった。そんなわけで、「鹿島順一劇団」の《魅力》の真髄は、まず、何を措いても「芝居の素晴らしさ」にある、と私は思う。さらに言えば、役者のチームワークに加えて、「音響効果」(効果音・BGMの選曲)も、お見事、その一つ一つを詳説することはできないが、「春木の女」の浜辺に流れる大漁節?、「仲乗り新三」の木曽節、「月とすっぽん」の会津磐梯山、「仇討ち絵巻・女装男子」の弁天小僧菊之助・・・等々、その音曲を耳にしただけで、舞台模様が彷彿とするのである。芝居にせよ、舞踊・歌謡ショーにせよ、「音響」の美しさは一つの「決め手」であろう。化粧、衣装は「視覚」の美、音響、音曲は「聴覚」の美、いずれも舞台に「不可欠」な「小道具」だが、ややもすると「聴覚」の美は軽視されがち、とりわけ歌謡・舞踊ショーでの「音響」は、なぜか(多くの劇団で)、マックス・ボリュームで耳をつんざくほどの騒々しさが目立つ。「鹿島順一劇団」の「音響」は(劇場にもよるが)おおむね「ほどよく」調整されている。その中で展開される、組舞踊、個人舞踊、歌唱の数々は、まさに《至芸の宝庫》といった有様で、たいそう魅力的である。組舞踊では、伝統的な「筏流し」、座長(面踊り)中心の「お祭りマンボ」を初め、ラストショーの「忠臣蔵」(歌・甲斐文太)「人生劇場」「花の幡随院」「珍島物語」、個人舞踊では、三代目鹿島順一の「忠義ざくら」「蟹工船」(歌・甲斐文太)「大利根無情」、甲斐文太の「弥太郎笠」「冬牡丹」「安宅の松風」「浪花しぐれ『桂春団治』」「ど阿呆浪花華」「河内おとこ節」、春日舞子の「ああいい女」(歌・甲斐文太)「深川」「芸道一代」、花道あきらの「ある女の詩」・・・等々、珠玉の「名品」が綺羅星の如く居並んでいる。加えて、責任者・甲斐文太の歌唱は、プロ歌手以上の《魅力》を発揮する。レパートリーは広く、「すきま風」「冬牡丹」「男の人生」「明日の詩」、「北の蛍」「恋あざみ」「よさこい慕情」「大阪レイン」「無法松の一生」「蟹工船」「瞼の母」「カスマプゲ」「釜山港へ帰れ」「ああいい女」「刃傷松の廊下」「酒よ」「雪国」「男はつらいよ」・・・等々、数え上げればきりがないが、その歌声の一つ一つは、しっかりと私の心中に刻み込まれて、消えることがないのである。なるほど、舞踊にせよ歌唱にせよ、ショーとしての「派手さ」はない。今様の「洋舞」も少ない。しかし、その(一見、侘しげな)「地味さ」の中に、じわじわと沁みこんでくる、伝統的な大衆芸能のエキス(魅力)が隠されていることは間違いない。
さて、(結びに)「鹿島順一劇団」、極め付きの《魅力》とは何だろうか。これまで述べてきた、芝居の「名舞台」、舞踊・歌謡ショー、「至芸」の数々はすべて「幻(まぼろし)」、「仕掛け花火に似た命」、「みんな儚い水の泡沫」で終わる、という《魅力》である。多くの劇団が、舞台模様(歌声)を、CD、VHS、DVDなどに記録・保存・販売しようとしている中で、責任者・甲斐文太は、そのことには全く「無頓着」、周囲からの勧めにも一切応じない(?)かに見える。結果、「鹿島順一劇団」の舞台は、直接、劇場に赴いて鑑賞するほかはない。見事だと思う。あっぱれだと思う。なぜなら、芝居も、舞踊も、歌唱も、本来、すべてが「観客」との「呼吸」で仕上げられる、その場限りの(共同)「作品」に他ならず、それを記録・保存することなどできよう筈がないからである。CD、VHS、DVDに残された音声、映像などは、その「抜け殻」「絞りかす」に過ぎない、といった、文字通りの「滅びの美学」、それこそが「鹿島順一劇団」、極め付きの《魅力》ではないだろうか、と私は思う。(2011.7.4)
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(2008/06/25)
加川明

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2023-09-17

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「男の盃・孫次郎最後」は横綱・三役級》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越三光ホテル・小江戸座)                                          芝居の外題は、昼の部「賀の祝」、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」。昼は「大入り」だったが、座長はそのことを「口上」では触れずじまい、歌謡ステージの際に「追加」する始末、だが私はそうした姿勢に共感する。劇団の「実力」と「集客能力」は比例しない。「大入りでないと役者はやる気を出さないだろう」と危惧する客を多く見かけるが、そんなことはない。「実力」のある劇団ほど、少ない客を大切にするからである。昨年、佐倉湯パラダイスで観た「見海堂駿劇団」はたった8人の観客を前にして、「権左と助十」の名舞台を演じていた。その後、「大入り」の舞台(「意地悪ばあさん」)も観たが、客の騒々しさに負け、盛り上がりに欠けていた感じがする。関係者には申し訳ないが、私は「大入りだから頑張る」という劇団に魅力を感じない。「今日も大入りを頂きました」などと、その回数を自慢したり、反対に客の少ないことを愚痴る劇団も見受けられるが、そんな劇団に限って「実力不足」が目立つような気がする。大切なことは、今、目の前にいる客のために「全力を尽くす」ことではないだろうか。そんなわけで、「大入り」を忘れていた座長・鹿島順一の姿勢に私は共感し、拍手を贈りたい。
 さて、芝居の出来栄えは昼。夜ともに申し分なかったが、特に、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」は素晴らしかった。実を言えば、私は先日(2月15日)、この芝居と全く同じ内容の舞台を浅草木馬館で見聞していた。外題は「笹川乱れ笠」、劇団は「劇団武る」(座長・三条すすむ)。寸分違わぬ筋書で、私の感想は以下の通りである。「本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分ないのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある『楽しい』舞台を観たいのだ。
 たしかに、「鹿島順一劇団」・「男の盃・孫次郎の最後」にも「笑い」はない。しかし、役者一人一人の「実力」「意気込み」「ひたむきさ」、相互のチームワークにおいて「全く違う」印象をもった。まさに「役者が違う」のである。この芝居の主役は、外題にもある通り、三浦屋孫次郎(花道あきら)だが、それを支える飯岡一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「演技力」が決め手になる。自分自身を「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム、しかし孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチシズムが「混然一体」となって、何ともいえない「男の魅力」を醸し出す。この用心棒の存在がなければ、芝居の眼目(男の友情・「盃」)は半減・消失してしまうのだ。「劇団武る」で、孫次郎を演じたのは座長(三条すすむ)、用心棒を演じたのは副座長(藤千乃丞)であった。台本に対する「解釈の違い」が、出来栄えの「差」に大きく影響していると思われる。もし、その配役が逆であっったら、どのような結果になったかわからない。全く同じ筋書の芝居でありながら、「鹿島順一劇団」は「横綱・三役級」、「劇団武る」は「関脇・前頭級」であることを、あらためて確認できた次第である。
 夜の舞踊ショー・ラストの「美幸の阿波踊り」、梅乃枝健の舞踊は、「水を得た魚」のようで「絶品」、群舞の中でひときわ目立っていた。今後、「おけさ」「音頭」風の「明るく」「軽妙な」舞踊を数多く披露してもらいたい。

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2023-09-07

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「源太しぐれ」の舞台模様》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年8月公演・四日市ユラックス〉
客席は左半分が団体客(大型バス3台分)で埋められ、フリーの客は右半分に40人程度であったろうか、芝居が始まっても、左半分(特に後部)の喧噪は収まらなかった。その状況を見るやいなや、すかさず従業員の一人(男性)が「お静かにおねがいします」という立て札を持って提示する、といった趣向はたいそう効果的で、おもわず(心中で)「快哉」を叫んでしまった。この方法は、中央競馬のパドックでは日常化しているが、まさか劇場の客席でお目にかかれるとは思わなかった。その粋な計らいに心底から拍手を送りたい。さて、芝居の外題は「源太しぐれ」。この芝居を私は何度も見聞しているが、決して「飽きさせない」のが「鹿島順一劇団」の真骨頂である。従来の配役は、主役・時雨の源太に春大吉、敵役親分に蛇々丸、盲目の浪人に三代目鹿島虎順(現・三代目鹿島順一)、その女房に春日舞子、二代目座長(現・甲斐文太)は「その他大勢」(子分)の切られ役といったあたりが「定番」であった。当時の、二代目座長・鹿島順一、口上でいわく「私の一番好きな芝居は『源太しぐれ』です。なんと言っても私の出番は最後だけ・・・、ちょっと出て切られてしまえばいいんですから」。しかし、今日の舞台ではそうはいかなかった。配役は、主役・時雨の源太に座長・三代目鹿島順一、敵役親分に甲斐文太、盲目の浪人に花道あきら、その女房に春夏悠生といった案配で、それはそれまた「ひと味違った」景色を描出する。私には、甲斐文太の心中が想像できる。「本当はこの敵役親分はやりたくない。なぜって、切られるときに《派手な踊り》を披露しなければならないから・・・、もうしんどいよ。できれば、花道あきらにやってもらいたいのに・・・。ここが責任者のつらいところか」一方、主役の三代目・鹿島順一、「水を得た魚」のように、源太を演じまくる、見せ所は三つ、その一は盲目の浪人が女房に冷たくあしらわれ、投げ銭をされながら「人は落ち目になりたくないもの」と嘆く様を「再演する」場面、その二は、浪人の赤児を殺めようと身構えたが、屈託のない笑顔を見て「改心」する真面、その三は、浪人を助けた後立ち返り、「怪談」もどきで親分を脅かす場面、いずれも申し分なかったが、欲を言えば、その一の「メリハリ」、その三の「演出」が課題であろうか。その一では浪人や女房の「形態模写」が不十分、その三では、声を殺した「口跡」の工夫がほしかった。今後ますますの充実・発展を期待したい。舞踊ショー幕開けの組舞踊「筏流し」は、名品、甲斐文太の個人舞踊「白鷺の城」、歌唱「夢街道」を見聞できたことは望外の幸せ、今日もまた大きな元気をいただいて帰路に就いた次第である。
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(2012/09/19)
山本譲二

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2023-09-05

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「木曽節三度笠」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(三代目鹿島順一)〈平成22年8月公演・大阪豊中劇場〉
芝居の外題は「木曽節三度笠」。私はこの狂言を1年半前(平成21年3月)、川崎大島劇場で見聞している。その時の感想は以下の通りであった。〈芝居の外題は「木曽節三度笠」。筋書は大衆演劇の定番、ある大店の兄(花道あきら)と弟(三代目虎順)が、使用人(?)の娘(生田春美)を争奪しあうというお話。実はこの弟、兄とは腹違いで、今は亡き大店の主人(兄の父)の後妻になった母(春日舞子)の連れ子であった。行き倒れ寸前の所を母子共、大店の主人に助けられ、今は兄弟で大店を継いでいる様子・・・。弟は娘と「相思相愛」だったが、兄が横恋慕、弟は母の進言に従って娘をあきらめる覚悟、でも娘は応じない。兄は強引にも娘と「逢瀬」を楽しもうとして、土地のヤクザ(親分・座長、子分・蛇々丸、春大吉、梅之枝健、春夏悠生、赤銅誠)にからまれた。その場に「偶然居合わせた」弟、兄・娘を守ろうとして子分の一人(たこの八・春夏悠生)を殺害、やむなく「旅に出る」。そして1年後(あるいは数年後)、ヤクザの「股旅姿」がすっかり板についた弟(実はナントカの喜太郎)が帰宅、土地のヤクザに脅されていた母、兄・娘を窮地から救い出して一件落着。「時代人情剣劇」と銘打ってはいるが、眼目は、亡き主人にお世話になった母子の「義理」と、親子の「情愛」を描いた「人情芝居」で、三代目虎順の「所作」「表情」が一段と「冴えわたってきた」ように感じる。「口跡」は、まだ単調、「力みすぎ」が目立つので、「力を抜いてメリハリをつけること」が課題である〉。さて、今日の舞台の出来栄えは?娘役が生田春美から春夏悠生に代わった、ヤクザの子分・蛇々丸が脱けた、という移り変わりはあったが、もともと春夏悠生は生田春美の先輩格、蛇々丸の「穴」は、春大吉が「難なく埋める」、加えて三代目虎順は今では座長を襲名、当時の課題であった「口跡の単調さ」「力みすぎ」は見事に克服されていた、といった按配で、1年半前とは比べものにならないほど「艶やかな」舞台に仕上がっていた、と私は思う。一番の見せ場は、土地のヤクザに娘(今では義兄の女房)を拉致されてパニック状態に陥った義兄たちを尻目に「お取り込み中のようではござんすが、あっしには関わりのないこと、これで失礼いたします」と立ち去ろうとする弟・喜太郎に向かって、母が差し出す義父の位牌、それを目にした瞬間、心中は動揺、日頃から「大恩あるお方のためなら、命を捨てても惜しくない」という母の教えを忠実に守ろうとする喜太郎の「風情」から、位牌に象徴された亡父の恩愛がひしひしと伝わってくるという趣きは「天下一品」であった。また、被害者意識丸出し、小心で身勝手な兄の「憎みきれない憎らしさ」は、この芝居の要、利己に走る人間の有様を見事に描出する花道あきらの「実力」も見逃せない。私たちの心に巣くう「煩悩の根源」を、さりげなく代弁しているからである。大詰めの見せ場は、娘を取り戻しにやって来た弟に向かって言い放つ土地の親分(甲斐文太)の一言、「おい喜太郎、お前はいったい何しにキタロウ!」。それを聞いて子分一同がずっこける。興が乗れば親分までもずっこけるといった趣向は「粋の極致」、悪が栄えたためしはないことを心底から納得できる場面なのである。今日もまた、心ウキウキ、快哉を叫んで帰路に就くことができたのであった。




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2023-09-01

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「大江戸裏話・三人芝居」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(平成20年9月公演・石和温泉・スパランドホテル内藤)
 芝居の外題は、昼の部「大江戸裏話・三人芝居」、夜の部「人生花舞台」。
私は、この劇団の全く同じ舞台をほぼ半年前(平成20年2月公演)、川越・小江戸座で見聞している。以下は、その時の感想である。

〈前者(「大江戸裏話・三人芝居」は、もう店じまいをしようとしていた、夜泣きうどんの老夫婦(爺・蛇々丸、婆・座長)のところへ、腹を空かした無一文の遊び人(虎順)がやってくる。うどんを三杯平ら上げた後、「実は一文無し、番屋へ突き出してくれ」という。驚いた老夫婦、それでも遊び人を一目見て「根っからの悪党ではない」ことを察する。屋台を家まで運んでくれと依頼、自宅に着くと酒まで馳走した。実をいえば、老夫婦には子どもがいない。爺が言う。「食い逃げさん、頼みがあるんだが・・・」「なんだい?」婆「お爺さん、ただという訳にはいかないでしょ」と言いながら、大金の入った甕を持ってくる。「それもそうだな、食い逃げさん、一両あげるから、頼みを聞いちゃあくれないか?」「えっ?一両?」今度は遊び人が驚いた。「一両もくれるんですかい?ええ、ええ、なんでもやりますよ」爺「実はな、私たち夫婦には子どもがいないんじゃ、そこでどうだろう。一言でいいから『お父っつあん』と呼んではくれないか?」「えっ?『お父っつあん』と呼ぶだけでいいんですかい?」「ああ、そうだ」「そんなことなら、お安い御用だ。じゃあ言いますよ」「・・・」「お父っつあん」「・・・、ああ、やっと『お父っつあん』と呼んでもらえた」感激する爺を見て、婆も頼む。「食い逃げさん、二両あげるから、この婆を『おっ母さん』と呼んではくれまいか?」小躍りする遊び人「ええ、ええ、お安い御用だ。それじゃあ言いますよ、いいですか」婆「・・・」「おっ母さん!」「・・・」婆も感激して言葉が出ない。つい調子に乗って爺が言う。「今度は、あんたを叱りたい。あたしが叱ったら『すまねえ、お父っつあん、もうしねえから勘弁してくんな』と謝ってはくれまいか。礼金は三両あげましょう」喜んで引き受ける遊び人、婆も四両出して叱りつけた。そして最後にとうとう爺が言い出す。「どうだろう、食い逃げさん、この甕のなかの金全部あげるから、私の言うとおり言ってはくれまいか」「・・・?」「『お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち、いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ、オレがこうして帰ってきた以上、後のことは全部任せて、もう止めたらどうだい』ってね」指を折って懸命に憶えようとする遊び人「ずいぶん長いな。でも、だいじょうぶだ。・・・じゃあ、いいですか。言いますよ」瞑目し、耳をすます老夫婦。遊び人、思い入れたっぷりに「お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち二人いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ。・・・」の名台詞を披露する。かくて、大金はすべて甕ごと、遊び人のものとなった。大喜びの遊び人「ありがとうござんす、これで宿屋にも泊まれます。あっそうだ、さっきのうどん代、払います」と一両小判を爺に手渡した。「こんなにたくさん、おつりがありませんよ」「とんでもねえ、とっておいておくんなせい。それじゃあごめんなすって」意気揚々と花道へ・・・、しかし、なぜか足が前に進まない。家に残った老夫婦の話に聞き耳を立てる。爺「お婆さん、本当によかったね。どんなにたくさんのお金より、子どもを持った親の気持ちになれたことがうれしい。あの人がくれた一両で、またこつこつと暮らしていきましょう」遊び人、矢も楯もたまらず引き返し、哀願する。「さっきもらったこの金はあっしのもの。どう使ってもよろしいですよね」あっけにとられる老夫婦、顔をみあわせて訝しがり「・・・・?、はいはい、けっこうですよ」遊び人「・・・、この金、全部あげるから、おめえさんたちの子どもとして、この家に置いてください」と泣き崩れた。どこかで聞こえていた犬の遠吠えは「赤子の産声」に、そして舞台・客席を全体包み込むようなに、優しい「子守唄」で幕切れとなった。
 幕間口上の虎順の話。「一両って、今のお金にするとどれくらいだと思いますか。だいたい六万円くらいだそうです。一言『お父っつあん』で六万円ですからね、大変なことだと思います」その通り、老夫婦の全財産(数百万円)よりも「親子の絆」が大切という眼目が、見事なまでに結実化した舞台だった。
 後者は、「人生花舞台」、大衆演劇の定番で、私は、昨年「澤村謙之介劇団」の舞台を見聞している。主役の爺(座長)は、元歌舞伎役者、師匠の娘と駆け落ちし一子をもうけるが、妻子は連れ戻され、今は落ちぶれたその日暮らしの独り者、むさくるしい身なりで、清水一家に乗り込んできた。「親分と一勝負したい」と言う。次郎長親分(花道あきら)が訳を尋ねると、「掛川の芝居小屋で、二十年前に別れた一子が興行している。親子名乗りはできないが、せめて、幟の一本でも贈ってやりたい」事情を察した親分、清水での興行を企画、爺を「御贔屓筋」(網元)に仕立て上げた。興行は成功、打ち上げの席で爺と、一子・今は襲名披露を控えた花形役者(春大吉)は再会する。大きく成長した一子の姿に眼を細め、それとなく愛妻(一子の母)の消息をたずねる爺の風情は格別であった。  
 芝居のクライマックスは、次郎長親分に勧められて一子がひとたち舞う「艶姿」であろう。しかし、酷なようだが、今の春大吉には荷が重すぎた。爺の風情が格別であるだけに、「舞姿」は「珠玉」でなければならない。もし、一子・蛇々丸、代貸大政・春大吉という配役であったなら、また違った景色の舞台になったのではないだろうか。身勝手な蛇足を加えれば、前者(「大江戸裏話」の爺を梅乃枝健、後者の一子を蛇々丸という配役がベストであった、と私は思う。いずれにせよ、舞台は水物、爺のセリフ「役者の修業に終わりはない」という至言は、座長自ら座員に伝えたかったメッセージに違いない。それに応えようと日々精進する座員各位の努力は見せかけではない。その姿に私は脱帽し、今後ますますの充実・発展を祈念する〉

 「鹿島順一劇団」の舞台は、何度観ても飽きることがない。その時、その場所によって、全く違った風情・景色を醸し出すことができるからである。「大江戸裏話・三人芝居」の三代目・虎順(まもなく17歳)は、この半年の間に「たくましく」成長した。前回の「あどけない」「たよりない」風情は薄まり、「頼もしい」素振りが芽生えてきた。そこに、「遊び人」特有の「崩れた」表情が加われば、この役柄は完成ということになるだろう。そのためには、口跡の「強弱」を工夫し、「ふっとなげやりな」「ため息混じりの」セリフ回しができるようになるとよい。いずれにせよ、この役柄は、虎順のためにあるようなもの、さらなる精進を期待する。うどん屋の老夫婦(蛇々丸、座長)の「温かい」風情は、まさに「呼吸もピッタリ」で、〈その「温かさ」こそが「遊び人」の(功利的な)心を変える〉という芝居の眼目を、鮮やかに描き出していた。「三人芝居」とはいえ、冒頭で登場したうどん屋の客、二人(花道あきら、春大吉)の風情も「格別」、舞台を引き立てるためには、なくてはならない存在である。そのこと(端役の意味)を、理解し、「あっさりと」しかも「きっちりと」その役目を果たせる役者がいることが、この劇団の「実力」なのである。舞踊ショーに登場した、新人・赤銅誠(「箱根八里の半次郎」・唄・氷川きよし)の股旅姿、立ち姿の「変化」(成長)には驚嘆した。たった半年で、こんなに変わるものなのか。彼の変化は舞踊だけではない。役者を紹介する裏方アナウンスも、「立て板に水」のよう、堂に入ってきた。女優・生田真美、春夏悠生の舞姿も「基本に忠実」、上品な風情で、成長の跡が窺える。明日は千秋楽という舞台で、春日舞子は「裏方」に徹していたため、その艶姿を観ることができなかった。誠に残念だったが、新人連中の「たしかな成長」は、その穴を埋めるのに十分であった。終演間近、座長の話。「私が座長を務めるのも虎順が十八になるまで、あと1年くらいでしょう。それまで、どうか私の舞台姿を胸に刻み、眼に焼き付けておいてください」。その言葉は、人によっては「傲慢」と聞こえるかも知れない。しかし、私は無条件に納得する。彼は、自分の舞台姿、歌唱の歌声を、一切、記録に残そうとしない。なぜなら、今、この時、に「すべてを賭けている」からだ。言い換えれば、今、目の前にいる「お客様」を何よりも大切にしているからだ。客が観ていないとわかれば、早々に芝居を切り上げる、それが鹿島順一の「真骨頂」なのである。自分の姿をCDやビデオに残さない、だから「今の姿を観てください」と彼は言っているのである。まことに寂しい限りだが、「一期一会」とは、、まさにはそのこと、芸能の基礎・基本であることを銘記しなければならない。



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2023-08-31

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「忠治御用旅・雪の信濃路」は、まだ発展途上》

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【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年2月公演・大阪梅南座〉
芝居の外題は「忠治御用旅・雪の信濃路」。私はこの芝居を、今から3年余り前(平成20年12月)に行田温泉もさく座で見聞している。当時の感想は以下の通りであった。〈赤城の山を追われた国定忠治(座長・鹿島順一)が、雪の信濃路を逃げていく。あまりの寒さに、思わず立ち寄った一件の居酒屋、そこの亭主はかつての子分(春大吉)、その女房(春日舞子)の兄(蛇々丸)は十手持ち、忠治を捕縛する役目を負っていた。兄と対抗する女衒の十手持ち(花道あきら)、土地のごろつき(梅之枝健)女衒の子分たち(三代目・虎順、赤銅誠)が必死に忠治を追いかけるが、「貫禄」が違う。その筋書き・台本通りに、座長・鹿島順一の舞台姿は「日本一」、一つ一つの所作、口跡は「珠玉」の「至芸」、とりわけ、御用旅の疲れにやつれた風情が、一子分との出会いで一変、しかしその子分が女房持ちと知るやいなや、すぐさま立ち去ろうとする「侠気」、ごろつき殺しの疑いをかけれれた子分の窮地を救うために「百姓姿」(三枚目)に豹変する「洒脱」、さらには、もう逃げ切れぬとさとったとき、兄の十手持ちの前に両手を差し出す「諦念」の風情を「ものの見事に」描出できるのである。加えて、子分、その女房、その兄との「絡み合い」は、心に染み渡る「人情芝居」そのもの、剣劇と人情劇(時には喜劇も)を同時に楽しむことができる「逸品」であった。十手持ちの蛇々丸が忠治の座長を「それとなく」「逃げのびさせる」やりとりは、「勧進帳」の「富樫」にも似て、大衆演劇の「至宝」と評しても過言ではない、と私は思う〉。さて、今日の舞台、配役は大きく様変わりして、国定忠治に座長・三代目鹿島順一、居酒屋の亭主に花道あきら、その女房に幼紅葉、女房の兄に甲斐文太、女衒の十手持ちに梅之枝健、その子分に壬剣天音、春日舞子、土地のごろつきに赤胴誠という面々であった。舞台模様の有為転変は「世の常」とは言いながら、その出来映えは(残念にも)「前回」には及ばなかった。蛇々丸に変わった甲斐文太の風情が「出色」であることは当然、老優・梅之枝健の健闘にも不満はなかったが、三代目鹿島順一は「貫禄不足」、花道あきらは「若さ不足」、幼紅葉は「艶不足」、赤胴誠は「汚れ不足」、春日舞子は「役不足」といった按配で、名舞台にしあげるまでには、多くの課題が山積している、と私は思う。例えば、三代目鹿島順一、登場しただけで「国定忠治」を窺わせる風情(姿・形・身のこなし)が、まだ感じられない。雪の信濃路を逃げ回り、ようやく暖を得られた、「憔悴と安堵」が入り交じった表情をどのように描出するか、居酒屋の亭主(かつての子分)に女房がいるとわかった瞬間、その場を立ち去ろうとする「侠気」(潔さ)、「三枚目」の百姓姿が、泣く子も黙る(本来の)「長脇差し」(国定忠治)に一変する「凄み」等々、見せ場、見所をどのように演出するか。そのお手本は、父・甲斐文太の舞台姿、本人の口上によれば「先生の国定忠治は、僕の目に焼き付いています」とのこと、さればこそ、いつの日か必ず、(父を超えた)「恩返し」の舞台を拝見できるであろう、と私は確信している。蛇足を加えれば、居酒屋の女房が幼紅葉なら、亭主は赤胴誠、女衒の十手持ちに花道あきら、土地のごろつきに梅之枝健といった配役の方が自然ではないだろうか、などと余計なことを考えてしまった。今日の舞台は、まだまだ「発展途上」、将来を楽しみに帰路に就いたのであった。



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2023-08-30

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「明治六年」・座長、若手座員の「転形期」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年4月公演・座三和スタジオ〉
芝居の外題は「明治六年」。江戸から明治へと時代が移りゆく中で、その流れに翻弄される武家三人の物語である。一人目は、緒形新之丞(座長・三代目鹿島順一)、年は若いが、新しい波に乗りきれず、未だに髷を結い腰には刀を差している。二人目は、金貸しの嘉助(甲斐文太)。徳川方の武家に生まれたが、十五年前、官軍との戦いで父は討ち死に、母も二人の子ども(嘉助とその妹)を残して自害した。以後、嘉助は町人に転身、今では東京屈指の金持ちに成り上がっている。三人目は「ぽんた」という半玉芸者(春夏悠生)。苦界に身を沈めているが、どこか品のある風情が漂っている。酔客に絡まれていたところ助けられた縁で、新之丞を慕っている。この三人に遊郭(?)相模屋の亭主(梅乃枝健)とその女房(幼紅葉)、売れっ子の看板芸者・仇吉(春日舞子)、相模屋の板前(花道あきら)も加わって、「明治六年」の景色がいっそう鮮やかに浮き彫りされるという趣向であった。筋書は単純。相思相愛の新之丞とぽん太の間に、敵役の嘉助が割って入り、金の力で仲を裂こう(自分の女にしよう)としたが、「実は」、そのぽん太こそ、生別していた妹であったという因縁話である。嘉助は、我欲の塊で生きてきたことを反省、新之丞とぽん太を夫婦にさせようとするのだが・・・。事情を知らない新之丞、嘉助に一太刀浴びせ、止めに入ったぽん太まで手にかけてしまう。この芝居、相模屋夫婦は金に目がくらみ、新之丞を消そうとして返り討ち、生き残ったのは板前と看板芸者・仇吉だけ、という何とも凄惨な結末で閉幕となったが、その眼目は「悔恨」、悔やんでも悔やみきれない人間模様の描出にあることは間違いない。空気は「悲劇調」だが、最年長の梅之枝健と最年少の幼紅葉が「夫婦役」、しかもコミカルな悪役コンビといった演出(配役の妙)も添えられて、たいそう見応えのある仕上がりとなっていた。欲を言えば、新之丞とぽん太の「純愛」描出が「今一歩」というところか。時代の流れに乗りきれないニヒルな若者新之丞、その一途さと優しさに焦がれる武家出身のお嬢様・ぽん太といった風情(例えば市川雷蔵と藤村志保、例えば三河家桃太郎と三河家諒)が漂えば、申し分ないのだが・・・。とは言え、今、劇団は新座長、若手座員を中心に「舞台作りの転形期」、日々の精進によって、「必ずや名舞台を完成させてくれるだろう」ことを夢に見つつ帰路についた次第である。



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2023-08-29

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「長ドス仁義」、新人・幼紅葉の「成長」振り》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一」〈平成23年4月公演・座三和スタジオ〉                             芝居の外題は「長ドス仁義」。赤穂の親分(三代目鹿島順一)が姐さん(春日舞子)、妹(幼紅葉)、三下(花道あきら)を連れだっての道中記である。親分より一足先に立ち寄った伊勢路の茶店で、三下が。吉良の親分(甲斐文太)に因縁をつけられ、一家の「守り刀」を取り上げられてしまう。「返してもらいたければ親分を連れてこい」と言われて、すごすごと(先行した)姐さんの宿にたどりつく。「腕づくでも取り換えそうとしたが、茶店の親爺(三代目鹿島順一・二役)に『ここは伊勢、神聖な土地を汚したら親分にもお咎めがくる』と諭され諦めた」とのこと、姐さん「いいよ、いいよ、親分がきっと取り返すから」と、その場は収まったのだが・・・。吉良の親分、なぜか気が変わって、一行の宿まで押しかけた。「気が変わった。あの三下の首を持ってこい。さすりゃあ、刀を返してやる」と言いながら姐さんの額を傷つける。次の間で、様子を窺っていた三下、激高して飛び出そうとしたが、姐さん、妹に止められて辛抱の極み、絶望の態で飲めない酒まであおる始末、挙げ句の果てに「姐さん、きょうこう限り、盃を水にしておくんなさい!」姐さん、あきれて「すきなようにおし!」と立ち去った。妹、必死にとりなして「何をバカなことを!お前自分で何をしているのかわかっているの!早く姉さんに謝りなさい」「ほっといてください!」と言いながら、逆上したか、脇差しを抜いて妹に斬りかかる。両者もみあううちに、三下、脇差しで自分の腹を突く。仰天する妹、そして姐さんも・・・。三下、苦しい息の中から「勘弁しておくんなさい。私が意気地がないばっかりに、あの刀を取られてしまいました。どうか私の首と引き替えに取り返して・・・」と言い残して息絶えた。母と恋人への旅土産(薬袋・かんざし)を託された妹と姐さんが泣き崩れているところに、赤穂の親分が駆けつける。「・・・一足遅かったか、必ず仇は討つ!」。大詰めは、三下の首を胸に抱いて、吉良の親分との立ち回り、奪い返した「守り刀」で仇討ち成就、吉良の親分が絶命して幕となった。私がこの演目を見聞するのは3回目、しかし、赤穂の親分、茶店の親爺、二役が甲斐文太から三代目鹿島順一へ、吉良の親分が蛇々丸から甲斐文太へ、三下の朋輩・春大吉が、赤穂親分の妹・幼紅葉へと、配役は大幅に様変わりし、別の芝居を見るようであった。主演三下役は今まで通り花道あきらであったが、これまで以上に「人の良さ」「やさしさ」「温かさ」の風情が増し、いっそうの「せつなさ」が浮き彫りされる結果となった。さすがは「鹿島順一劇団」、座員の減少をものともせずに、「全身全霊」(一同のチームワーク)で鮮やかな舞台を演出する。わずか十三歳の新人・紅葉が新設の登場人物(親分の妹役)に挑戦、春大吉の「穴」を埋めるどころか、それ以上の景色を「いとも自然に」描出していたことに私は驚嘆する。加えて、三代目鹿島順一、これまでの(蛇々丸の)子分役から一転して、茶店の親爺(老け役)赤穂親分の二役に挑戦、父・甲斐文太の背中(至芸)を追いかける。超えるまでには「相当」の時間がかかるとはいえ、その一歩が確実に踏み出されたことを寿ぎたい。
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2023-08-22

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「月とすっぽん」》

【鹿島順一劇団】(平成20年3月公演・小岩湯宴ランド)
芝居の外題は「月とすっぽん」。登場人物は「すっぽん」の兄・平太郎(座長)と「月」の弟(三代目虎順)、「すっぽん」の下女・おなべ(春日舞子)と「月」のお嬢さん(生田春美?)という取り合わせ。病弱な親分(花道あきら)は、子分のうち、律儀で素直な弟をたいそう気に入っており、自分の娘を嫁がせたうえ、跡目を譲ろうとした。しかし、弟は辞退する。「まだ兄貴が嫁をもらっていないのに・・・。ましてお嬢さんなど・・・。身分が違います」人のよさそうな親分「心配はいらねえ、お前の兄貴には俺がよく言って聞かせる、娘が誰よりもお前を気に入っているんだから、この話をうけてくれまいか」度重なる説得に、「それなら・・」と弟も応じた。大喜びの娘、その手を取って弟も欣然と退場。そこへ、ほろ酔い機嫌の兄、ふらふらと登場。「おりいって親分に話がある」と言う。親分が応じると「もうこのへんで身を固めたい。親分のお嬢さんを嫁にいただきたい」びっくりする親分、「そうだったのか!だが平太郎よ、お前は一舟乗り遅れたぜ」「どういうこってす?」「娘は、さっきお前の弟に嫁がせることに決めてしまったんだ!」「なんですって?私とお嬢さんとは、とっくの昔に夫婦約束をしていたんですよ!」「本当か?それはいつのことだ」「忘れもしねえ、お嬢さんが三つ、あっしが花も恥じらう十の時でござんす!」あきれる親分。「バカを言うな、そんな話にのれるもんか」娘の代わりにいい女を見つけてやるからあきらめろと説得。平太郎「どこの女ですか?小岩ですか、川越ですか?それとも柏ですか」親分、花道あきらになって(役から現実に戻って)笑いが止まらない。平太郎、「わかりました。盃を水にしてください。親子の縁もこれっきり・・・」待て!と留めると思いきや、意外にも「おお、そうか、それでいいだろう。お前との盃は水にしてやる」拍子抜けして、落胆のまま平太郎退場。後へ来たのが対立する親分(春大吉)とその一党(蛇々丸、梅乃枝健、金太郎、赤銅誠)、「縄張りをよこせ」と迫る。断る親分を惨殺、一味は、その娘まで連れ去った。その様子を見て驚いた「すっぽん」のおなべ、平太郎に知らせようと一目散に退場。
二景は平太郎宅。跡目相続とお嬢さんとの結婚、その吉報を知らせようと弟は、兄・平太郎を待つ。まもなく、平太郎、落胆を通り越し、ふて腐れの風情で登場。吉報を報告する弟に、そっけない。「兄貴、祝ってくれねえのか?」という弟の問いかけに、「あたりめえだ!後から生まれてきたくせに、俺の大事なお嬢さんを横取りしやがって!勝手にするがいい」と、ふて腐れる。弟「兄貴、どうして祝ってくれねえんだ?まだガキの頃、俺が川でおぼれそうになったとき、カゼをひいているのに、そのうえカナヅチなのに、俺を助けようと飛び込んでくれたじゃあないか、あのときのやさしい兄貴はどこへいっちまったんだ」じっと瞑目して聞いていた平太郎、「そうだったよな、俺も大人げなかった。おめでとうよ」と優しい言葉を投げかけたが、それは芝居。「なんでえ、照明や裏方まで味方につけるなんて卑怯だぞ。舞台を暗くして、悲しそうな音楽をかけ、泣き落とそうとしたって騙されねえ。だれが何と言おうと、お前とお嬢さんが夫婦になるなんて、俺はがまんできない」「そういわずに兄貴・・・」と言い合っている最中に、突然、楽屋裏でバタンと大きな音(大道具が倒れたに違いない)、平太郎(一瞬、座長に返って)、楽屋裏を覗いたまま10秒間沈黙、舞台、客席は凍りついたように静まりかえった。そして、つぶやくように話し出す。「客が騒ぐのはがまんできるが(そういえば前景で、頓狂な声で騒ぎ、従業員に注意された客がいたのも事実であった)、楽屋裏が芝居を邪魔するとは、許せねえ・・・」このアドリブこそ座長・鹿島順一の真骨頂なのである。舞台で役者を演じながらも、つねに座員の動静、客席の雰囲気に気を配り、責任者としての苦労を重ねているからこそ吐いた「つぶやき」(本音)ではないだろうか。「大丈夫か?誰も怪我はしていないか?」という心配が、手に取るように私にはわかった。さらにまた、その10秒間沈黙の間、凍りついたように「固まった」(ストップモーション)弟役の三代目・虎順も「さすが」の一語に尽きる。突然生じたハプニングにどう対応すればよいか、「とまどう」のではなく、じっと(父であり師でもある)座長の「出(方)」を待ち続ける、弟子(子)の姿に私は感動した。「下手なアドリブ」でその間を取り繕うことはできるかも知れない。しかし、師の前で、弟子がそれをすることは(たとえ親子であっても)絶対に「許されない」のである。そうした不文律が徹底していることが、この劇団の真髄なのだ、と私は思う。
座長のアドリブが客の笑いを誘い、舞台は本筋に戻る。息を切らし、あわてて飛び込んでくるおなべ、「大変だ!親分が殺された。お嬢さんも、敵方の親分に連れ去られた!」「何だって?」仰天する弟。「兄貴!お嬢さんを助け出す。親分の敵も討つ。力を貸してくれ」しかし、平太郎は応じない。「どうとでも、勝手にするがいいや。俺はとうに親分との盃は水にしている。お前ひとりで助けにいけ、俺は関係ない!」とふて腐れる。「そうか、わかったよ、もう兄貴には頼まねえ」、弟は「押っ取り刀」で、単身、敵地に駆けだして行く。それを見ていたおなべ、「平さん、何してるんだ、早く助けに行かないか!」
「俺は関係ない」「関係ないことがあるもんか。お世話になった親分の敵を討つのは当たり前、兄として弟のために命をはってこそ『男』じゃないか。見損なったよ。あんたは『男』じゃない」「何だと?おれは『男』だ。じゃあ、助けに行けば『男』になれるのか?」「ああ、なれるともさ!」「よーし、助けに行くぞ」「そうこなくっちゃ!だからあたしは、平さんに惚れてんだ。およばずながら、このおなべも助太刀するよ!」「よしてくれ、足手まといだ」「邪魔になってもためにはならない」という絶妙なやりとりが、楽しかった。
 かくて、敵地に乗り込んだ、平太郎とおなべ、孤軍奮闘する弟に近づき「助っ人するぞ!後は任せろ」「兄貴、すまねえ」しかし、相手は多勢、一瞬、背中を見せた平太郎に敵の親分が斬りかかる。「危ない!」とっさに平太郎を守ろうとしたおなべ、肩口から大きく切り込まれた。それに気づいた平太郎、おなべを助けようとして自分も脇腹を刺される。
弟の登場でどうにか敵を討ち果たすことはできたが、舞台は暗転、愁嘆場の景色となった。
深手を負った平太郎、おなべを抱き寄せ「やっぱり、すっぽんにはすっぽん、俺にはお前がお似合いだあ」「だから言っただろう、あたしたちは『割れ鍋に閉じ蓋だって』・・・」「ちげえねえや」「平ちゃん、どうせ死ぬんなら、ぱっと明るく死のうよ。あの歌、唄っておくれよ」「いいともさ。エイヤアー、会津磐梯山は・・・宝の山よ」「笹に黄金がええまた成り下がる」苦しい息の中で、でも楽しそうに唄いながら、ふらふらと踊る「すっぽん二人」(絶品の相舞踊)、生まれたときは別々でも「死ぬときは一緒」、至上の幸せを手にした風情の臨終に、「月二人」(弟とお嬢さん)が合掌する、浮世絵かと見紛う艶やかな場面で、終幕となった。この劇団に数ある「名舞台」の中でも「屈指の出来映え」だったといえるだろう。
 舞踊ショー、座長の佐々木小次郎、「物干し竿」(長刀)を一瞬に抜き放つ「離れ業」は、まさに「至芸」、感嘆に値する。ラストショー、「のれん太鼓」(群舞)では新人・赤胴誠、舞踊の初舞台(?)、彼を見守る座長・座員一同の「暖かい眼差し」が、えもいわれぬ景色を作りだしていた。 
 あらためて、この劇団の「隙のない舞台」「客に対する誠実さ」が感じられ、深い感銘を受けた次第である。
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2023-08-14

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「源太時雨」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成22年8月公演・大阪豊中劇場〉
芝居の外題は「源太時雨」。かつての座長、二代目鹿島順一(現・甲斐文太)は、座員それぞれの「個性」を見抜き、それを磨き際だたせる采配に長けていた。この狂言での主役は春大吉、脇役に三代目虎順、敵役に蛇々丸を配し、自分は「ほんのちょい役」に回っていたが、虎順が三代目座長・鹿島順一を襲名、屈指の名優・蛇々丸が退団とあって、その配役を大幅に変更せざるを得なかった。結果、主役・源太に三代目鹿島順一、脇役・盲目の浪人に春大吉、敵役親分に甲斐文太、と相成ったのである。筋書は単純。行き倒れていた盲目の浪人夫妻(夫・春大吉、妻・春夏悠生)を助けた土地の親分(甲斐文太)、それは見せかけの善意に過ぎず、浪人の妻と「間男」する魂胆は見え見えだったが、この妻もまた妻で品行不良の不貞の極み、さっさと相手を親分にのりかえて夫と乳飲み子を邪魔者扱い、乳をもらいに来た夫に「投げ銭」をして追い返す。加えて、親分、この夫を暗殺しようと、一家の遊び人・時雨の源太に指示。源太、「金のためなら何でもします」と請け合ったが、土壇場で「改心」、浪人の「間男成敗」に加担する、というお話である。芝居の見どころは、①親分・不貞妻に「投げ銭」され、見えぬ目で金をまさぐりながら「人は落ち目になりたくないもの・・・」と嘆じる哀れな風情、②その風情をノーテンキな源太が「再現」する滑稽さ、③土壇場で赤子の笑顔に出会い、思わず「改心」する源太の清々しさ、④源太演出の怪談話に震え上がる親分の小心ぶり、⑤浪人の目が快癒、晴れて間男成敗を果たす痛快さ、等など、数え上げればきりがない。今日の舞台、大幅な配役変更にもかかわらず、それぞれの役者がそれぞれの見どころを、いとも鮮やかに描出していた、と私は思う。とりわけ三代目鹿島順一演じる時雨の源太が、浪人ともども乳飲み子まで切り捨てよう太刀を振り上げたその時、赤子の泣き声が笑い声に変化、一瞬見つめ合う赤子と源太、次第に源太の表情も柔和な笑顔に変化する。悪から善への「改心」を、表情と所作だけで描出した座長の「実力」は努力・精進の賜物であり、脱帽する他はなかった。加えて、新人(だった)春夏悠生の「不貞ぶり」「悪女ぶり」も板に付き、舞台模様をより一層際だたせていたことは、立派である。あらためてこの劇団の素晴らしさを満喫、大きな元気を頂いて帰路に就いた次第である。
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2023-08-10

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「仇討ち絵巻・女装男子」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成22年8月公演・大阪豊中劇場〉
芝居の外題は「仇討ち絵巻・女装男子」。私はこの狂言を1年4ヵ月前(平成21年5月)に、九十九里太陽の里で見聞している。以下は、その時の感想である。〈芝居の外題は、「仇討ち絵巻・女装男子」。開幕前のアナウンスは座長の声で「主演・三代目鹿島虎順、共演・《他》でおおくりいたします」だと・・・。何?「共演《他》」だって?通常なら、「共演・花道あきら、春日舞子・・・。」などと言うはずなのだが・・・?そうか、どうせ観客は宴会の最中、詳しく紹介したところで「聞く耳」をもっていない、言うだけ無駄だと端折ったか?などと思いを巡らしているうちに開幕。その景色を観て驚いた。いつもの配役とは一変、これまで敵役だった花道あきらが・謀殺される大名役、白装束で切腹を強要される羽目に・・・。加えて、その憎々しげな敵役を演じるのが、なんと座長・鹿島順一とは恐れ入った。「これはおもしろくなりそうだ」と思う間に、早くも観客の視線は舞台に釘付けとなる。筋書きは単純、秋月藩内の勢力争いで謀殺された大名(花道あきら)の遺児兄妹(三代目虎順・春夏悠生)が、めでたく仇討ちをするまでの紆余曲折を、「弁天小僧菊之助」もどきの「絵巻物」に仕上げようとする趣向で、見せ場はまさに三代目虎順の「女装」が「男子」に《変化(へんげ)する》一瞬、これまでは虎順と花道あきらの「絡み」だったが、今日は虎順と座長の「絡み合い」、どのような景色が現出するか、待ちこがれる次第であった。だがしかし、「見せ場」はそれだけではなかった。遺児兄妹の補佐役が、これまでの家老職(座長)に変わって、今回は腰元(春日舞子)。亡き主君を思い、その遺児たちを支える「三枚目」風の役どころを、春日舞子は見事に「演じきった」と思う。加えて芸妓となった妹と相思相愛の町人・伊丹屋新吉(蛇々丸)の「色男」振り、敵役の部下侍(春大吉、赤胴誠)のコミカルな表情・所作、芸妓置屋のお父さん(梅之枝健)の侠気、妹・朋輩(生田晴美)の可憐さ等々・・・。絵巻物の「名場面」は枚挙にいとまがないほどであった。
なるほど、「舞台の見事さ」に圧倒されたか、客筋が当たったか(今日の団体客は、飲食をしなかった)、客席は「水を打ったように」集中する。いよいよ「女装男子」変化(へんげ))の場面、若手の芸妓が見事「若様」に変身して、仇討ち絵巻は大団円となった。その「変化ぶり」は回を追うごとに充実しているが、欲を言えば「女から男への」一瞬をを際だたせるための演出、芸妓の「表情」が、まず「男」(の形相・寄り目でもよい)に変わり、敵役を睨み付ける、呆気にとられる敵役との「瞬時のにらみ合い」、その後、「声を落とした」(野太い)男声での「決めぜりふ」という段取りが完成したら・・・、などと身勝手な「夢想」を広げてしまった。
さすがは「鹿島順一劇団」、どんなに不利な条件下であっても、「やることはやる」、しかも一つの芝居を、いかようにも「変化」(へんげ)させて創出できる、その「実力」に脱帽する他はなかった〉。さて、今回の配役は、名優・甲斐文太(前座長・二代目鹿島順一)が、冒頭で謀殺される大名、色男・伊丹屋新吉の二役、他は「変わりなし」であった。前回同様、今回も「見せ場」は至る所に散りばめられていたが、その一は、女装男子に扮した三代目座長・鹿島順一、当初から「自分は男である」ことを仄めかす表情、所作を取り入れていた。置屋に尋ねてきた腰元(春日舞子)と対面する「一瞬」、敵役大名と連れだって退場する際の「舌だし」等など、その風情が「格別」に決まっていた、と私は思う。その二は、腰元・春日舞子と伊丹屋新吉・甲斐文太の「絡み」。腰元、新吉をしげしげと見つめていわく「そちらの方は、どちら様?」「はい、伊丹屋新吉と申します」。「まあ、イタンダ新吉さん」「いえ、イタンダではございません。イタミヤ!でございます」「そうですか、二代目鹿島順一といえば昔は、それはそれはいい男だったのに・・・」「いえ、今でもイタンデはおりません」といったやりとりが、ことの他、私には「楽しく」感じられた。その三は、敵役大名が「女装男子」と退場後、部下・春大吉と赤胴誠が引っ込む間面、誠いわく「ねえ、お手々とって!」、待ってました!、拍手喝采のうちに退場となる舞台模様は貴重である。その四は「弁天小僧菊之助」の俗曲にのせて展開する「舞踊風立ち回り」、その艶やかな景色は「絵巻物」然として、私の心中にいつまでも残るだろう。あらためて「名舞台をありがとう」と感謝しつつ帰路に就いた次第である。
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2023-08-06

劇団素描「鹿島順一劇団」・《芝居「大岡政談・命の架け橋」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成22年8月公演・大阪豊中劇場〉                              6月に三代目虎順が18歳で鹿島順一を襲名(於・浪速クラブ)、7月は四日市ユラックスで順調に滑り出したように見えたが、8月、早くも試練の時がやって来た。劇団屈指の実力者・蛇々丸が「諸般の事情により」退団したからである。そのことが吉とでるか、凶とでるか。とはいえ私は観客、無責任な傍観者に過ぎない。文字通りの責任者・甲斐文太の采配やいかに?、といった面白半分の気分でやって来た。なるほど、観客は20名弱、一見「凋落傾向」のようにも思われがちだが、「真実」はさにあらず、この劇団の「実力」は半端ではないことを心底から確信したのであった。芝居の外題は「大岡政談・命の架け橋」。江戸牢内の火事で一時解放された重罪人(春大吉)が、十手持ちの親分(甲斐文太)の温情(三日日切りの約束)で、盲目の母(春日舞子)と対面、しかし仇敵の親分(花道あきら)の悪計で手傷を負い、約束を果たせそうもない。それを知った盲目の母、息子の脇差しで腹を突く。息子仰天して「オレへの面当てか!?・・・」母「可愛い子どものためならば何で命が惜しかろう。ワシのことが気がかりで立てんのじゃ。そんな弱気でどうする!早く江戸に戻って恩人の情けに報いるのじゃ・・・」といった愁嘆場の景色・風情は、まさに「無形文化財」。最後の力を振り絞って唱える母のお題目(「南無妙法蓮華経」)の念力によってか、法華太鼓の鳴り響く中、めでたく重罪人は江戸帰還、という筋書だが、今回の舞台、ことのほか春大吉の演技に「凄さ」が増してきたように感じる。加えて、座長・鹿島順一は父・甲斐文太と役割を交代、出番の少ない大岡越前守を演じた。その見せ所は、舞台に立つだけで「絵になる」存在感、仇役の親分を「ダマレ、カキナベ!」と一喝する場面だが、今日はその第一歩、それを精一杯、忠実にこなす姿に、私の涙は止まらなかった。「三代目、お見事!」、それでいいのだ。蛇々丸の「穴」は埋められる。これまで仇敵親分の子分で棒を振っていたが、今日は代わって赤胴誠、その所作は寸分違わず「蛇々丸」然、あとは「表情」「眼光の鋭さ」が加われば言うことなし、といった出来栄えであった。やはり「鹿島劇団」は日本一、その実力は「不滅」なのである。
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2023-07-24

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「アヒルの子」、名文句の謎》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年4月公演・東洋健康センターえびす座〉                                                                       東北新幹線郡山駅からバスで20分、磐越西線喜久田駅(無人駅)から徒歩15分のところに東洋健康センターはある。インターネットの情報では、やたらと劇場の「悪口」が書かれていたが、「聞くと見るとでは大違い」。数ある健康センターの中でも、浴室の広さ、泉質のよさ、仮眠室の追加提供等々、ぬくもりと、きめの細かなサービスにおいては、屈指の施設だ、と私は思った。もっとも、鹿島劇団は、観客への「癒し」・「元気」のプレゼントにおいては屈指の実力の持ち主、この劇団が行くところ、行くところの施設・劇場には、つねにそうした「至福の空気」が漂うことは間違いない。劇場の案内では「人気劇団初登場!!」と宣伝されていたが、鹿島劇団を「人気劇団」と評す「小屋主」の目は高い。地元常連客の評価「今日は土曜日、いつもなら大入りだが、なにせ初めての劇団だから、それは無理か・・・」。鹿島劇団の「人気」とは「数」ではない。今日も、秋田から「元気」をもらいに「駆けつけてきた」御贔屓がいるではないか。強いて言うなら、「お客様のために、あえて《大入り》を目指さない」とでも言おうか、「ゆとりのあるスペースの中で、楽しんでいただきたい」とでも言おうか、いずれにせよ、観客の「数」にかかわりなく、つねに「超一級の舞台」を目指すことがこの劇団の特長なのである。
 芝居の外題は「アヒルの子」、社会人情喜劇と銘打った演目で、登場人物は下請け会社員の夫婦(夫・鹿島順一、妻・春日舞子)と娘・君子(生田春美)、その家の間借り人夫婦(夫・蛇々丸、妻・春夏悠生)、電気点検に訪れる電電公社社員とおぼしき若者(鹿島虎順)、親会社の社長(花道あきら)という面々(配役)。この人たちが繰り広げる「ドタバタ騒動」が、なんとも「ほほえましく」「愛らしく」、そして「滑稽」なのである。以前の舞台では、娘・君子を三代目虎順、間借り人の妻を春大吉、電気点検の若者を金太郎が演じていたが、それはそれ、今度は今度というような具合で、本来の女役を生田春美、春夏悠生という「新人女優」が(懸命に)演じたことで、「より自然な」景色・風情を描出することができたのではないか、と私は思う。だが、何と言ってもこの芝居の魅力は、座長・鹿島順一と蛇々丸の「絡み」、温厚・お人好しを絵に描いたような会社員が、人一倍ヤキモチ焼きの間借り人に、妻の「不貞」を示唆される場面は「永久保存」に値する出来栄えであった。なかでも《およそ人間の子どもというものは、母親の胎内に宿ってより、十月十日の満ちくる潮ともろともに、オサンタイラノヒモトケテ、「オギャー」と生まれてくるのが、これすなわち人間の子ども、七月児(ナナツキゴ)は育っても八月児(ヤツキゴ)は育たーん!!》という「名文句」を絶叫する蛇々丸の風情は天下一品、抱腹絶倒間違いなしの「至芸」と言えよう。その他、間借り人の妻が追い出される場面、娘・君子が「おじちゃん!」といって帰宅する場面、社長の手紙を読み終わって夫(座長)が憤る場面等々、「絵になる情景」を挙げればきりがない。要するに眼目は「生みの親より育ての親」、きわめて単純な(何の代わり映えのしない)筋書なのに、これほどまでに見事な舞台を作り出せるのは、役者それぞれの「演技力」「チームワーク」の賜物というほかはない。その「演技力」の源が、座長・鹿島順一の生育史にあることは当然至極、彼ほど「育ての親のありがたさ」を実感・肝銘している役者はいないかもしれない。加えて素晴らしいことは、蛇々丸を筆頭に座員の面々が(裏方、照明係にいたるまで)、座長の「演技力」に心酔、各自の「実力」として「吸収」「結実化」しつつあるという点であろう。ところで、件の名文句にあった「オサンタイラノヒモトケテ」とは、どのような意味だろうか、その謎もまた、この芝居の魅力なのだ・・・・。 
 歌謡・舞踊ショーで唄った、座長の「瞼の母」(作詞・坂口ふみ緒 作曲・沢しげと)は「日本一」、島津亜弥、杉良太郎、中村美津子らの作物を軽く凌いでしまう。理由は簡単、三十過ぎても母を恋しがる「甘ったれな」ヤクザの心情・風情に「最も近い」のが、旅役者・鹿島順一、番場の忠太郎への「共感度」が違うのである。そのことは、2コーラス目台詞の最後「逢いたくなったら、俺ァ瞼をつむるんだ」などと、原作通りには吐かないことからも明らかである。「瞼をつむる」?、間違いではないかもしれない、とはいえ、通常なら(ヤクザなら)「瞼を閉じる」「目をつむる」と言う方が自然、そこで鹿島順一の台詞は以下のように改竄されていた。《逢いたくなったら、俺ァ目をつむろうよ・・・》蓋し名言、脱帽する他はない。
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2023-07-16

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「花の喧嘩状」は、座長「敵役」で新春スタート》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年正月公演・つくば湯ーワールド〉                                                        昨日に引き続き、午後1時から、つくば湯ーワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。この劇場は「初お目見え」とあって、客の反応がどのようなものか、それがどのように変化していくか、を見たいと思い来場してしまう。今日も、客席は「大入り」、芝居の外題は「花の喧嘩状」。筋書きは大衆演劇の定番、二代目(主役・花道あきら)が男修行の旅に出ている留守をねらって、その親分(梅之枝健)を闇討ちする敵役の浅草大五郎(座長・鹿島順一)、とどめを刺そうとしたが、代貸(春日舞子)と子分(三代目虎順)の登場であきらめる。親分、いまわの際に、苦しい息の中で「仇討ちをあせってはいけない、二代目が帰るまで待つように・・・」と言い残して他界した。親分の遺言を忠実に守りながら二代目の帰宅を待ち続ける代貸と子分二人。浅草大五郎の「いやがらせ」がエスカレートし始めたとき、やっと男修行を終えた二代目が帰宅。しかし、待っていたのは親分の位牌、代貸、子分だけ、二代目、悲嘆にくれたが、「親分をやられて、敵討ちをしないお前らは情ない、俺は再び旅に出る」といって立ち去る。残された代貸と子分、「そういうことなら、やるしかない!」と、浅草一家に殴り込みをかけた。大五郎、「待ってました」と返り討ちにしようとしたが、どこからともなく現れた二代目に突き飛ばされ、座敷からころがり落ちて一言。「チキショー!最後にちょっと出てきて、良い役取りやがって・・・。今日はまだ正月二日だというのに、昨日も悪役、今日も敵役。それもこれもみんな座員のため、座長はみずから貧乏くじを引いてるんだ。温かい思いやりに感謝しろ!どこの劇団だって、三が日は座長が主役を張るもんだ・・・」と愚痴って、笑わせる。二代目、代貸、子分の仇討ちは成功、座長「新年、キラレマシテ、おめでとうございます」と言いながら退場。二日目にしては、客席の「反応」も「まずまず」というところで、私自身は一安心できた次第である。開幕後、客席後方で「私語」が目立ち、それを止めさせようと、客同士の「小競り合い」(言い争い)があったが、それは吉兆、舞台に集中したいと思う客の反応として、今後が期待できる。
 今回の公演、座長の「歌唱」の方から先に「人気」が出たように感じる。歌謡ショーでは「冬牡丹」(梅之枝健の「舞踊」入り)と「無法松の一生」を用意したが、アンコールの声に応えてもう一曲披露した。めったにないことである。なるほど、この劇場では、芝居は昼の部1回だけ、舞踊(歌謡)ショーは昼・夜2回、座長の歌唱をバックに各座員が「とっておきの舞踊」を披露することも悪くない、と思った。
 帰りの送迎バス(つくば駅行き)がどこから出るのかわからず、路線バス(関東鉄道)で土浦に向かおうと停留所(気象台前)に向かった。時刻表を見ると17時26分発がある。その時刻まで30分、時刻後20分待ったがバスは来ない。暗がりの中で、よくよく停留所の看板を見ると、何かがぶら下がっている。なんと正月三が日は時刻表どおりではなく「特別運行」する旨が書いてある。やむなく、湯ワールドまで立ち戻り、18時20分発の送迎バスで帰路についた。
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2023-01-08

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《「新版・会津の小鉄」・三代目虎順の課題》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉                                        荒川沖からの送迎車乗客は初老の女性一人。運転手に話しかける。「柏も、小岩も、佐倉も、みんなそこそこの劇団なのに、オタクは今月、貧乏くじ引いたわよね。まあ三日までは、そこそこ入るだろうけど、後はどうだか・・・。役者がいないもんね。座長も年取ってるし・・・。」私は、正直「この婆あ、殺したろか」と思い、「そんなら、見なけりゃいいじゃねえか!スッコンデロ!」と心の中で叫びつつ送迎車を降りた。劇場は1時間前から大入り満員。やっとのことで座席を確保したが、ここは公演中も「飲み食い自由」で食事の注文も受け付ける。舞台に集中できなくなるのでは?と、いやな予感がしたが、それは取り越し苦労、芝居「会津の小鉄」の開幕と同時に、「水を打ったように」静かになった。この演目は、「鹿島順一劇団」の「至宝」ともいえる十八番、今回は、はまり役・花道あきらに替わって三代目虎順が主役を務めた。「若き日の」会津の小鉄と副題にもあるように、十七歳・虎順の「舞台姿」には申し分ない。実母・春日舞子を「恋女房」に見立てた「絡み」も悪くない。課題はただ一つ、実父・座長の敵役・名張屋新蔵が「惚れ込んだ」その「侠気」をどこまで描出できるかどうか、三景・宮本むさくるし(蛇々丸)、佐々木こじき(春大吉)や新蔵の娘お京(春夏悠生)との「絡み」、四景・新蔵との「立ち回り」などでは、花道あきらの「風情」には及ばない。まだ、口跡が「絶叫調」で単調、死んだ恋女房を思い出しながら、ある時は「抑えて」、「自分に向かって言い聞かせるような」語調が欲しい。今後の成長に期待したい。二景・お吉のセリフ「私の首を手土産に、男になっておくんなさい」が聞けずに閉幕になったのは残念、また京極幸枝若の「節劇」は、お吉自刃後の方が「絵になった」のでは・・・。いずれにせよ、今回も「新版・会津の小鉄」、つねに前を向き、新しい舞台作りを目指す「劇団」のひたむきな姿勢に脱帽する。帰りの送迎車での客の話。「来月は『美鳳』。きっと、大騒ぎだよね。今月の劇団は、どおってことなかっぺ」ええい、黙れ、黙れ!迎えの時の客といい、送りの時の客といい、眉毛の下に付いているのは銀紙か、なるほど、「鹿島順一劇団」は人気がない。理由は簡単、座長自身、客の「人気」など歯牙にもかけぬ舞台生活を送ってきたのだから。「人気」など、何の役にも立たない。これまで何度「地獄」をみてきたことか。いっときの「人気」が何になるか。大切なのは「実力」だ、「実力」さえ磨いておけば必ず認めてくれる「お客様」がいる、そのことを誰にもまして熟知しているからこそ、「客に媚びる」ことをしないのだ。いざとなれば、誰も助けてくれないことを彼は知っている。自分の「実力」だけが頼り、ということを痛感している。「舞台を降り、化粧を落とせば五分と五分、役者も客もあったもんじゃあない」といった気概が座長・鹿島順一の真骨頂といえるだろう。さればこそ、その気概が彼の舞台姿をより一層「艶やか」にするのだ、と私は思う。「どおってことなかっぺ」とほざいた客が、いつかは必ず「おそれいりやした」と脱帽するであろうことを「夢見つつ」(確信しつつ)帰路についた。

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2023-01-07

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「男の盃・三浦屋孫次郎」と劇団の「うり」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
午後1時から、つくば湯ワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居の外題は「男の盃・三浦屋孫次郎」。笹川繁蔵(春大吉)を暗殺(しかし、正面からの一騎打ち)した旅鴉・三浦屋孫次郎(花道あきら・好演)と飯岡助五郎一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「友情物語」で、「男の盃」を取り交わし、共に「あい果てる」という筋書 きだが、開幕から閉幕まで「寸分の隙もない、一糸乱れぬ舞台」の連続で、それぞれの役者が「適材適所」に「えもいわねぬ」風情を醸し出していた。ビデオに収録、「永久保存」に値する出来映えであったが、座長の頭の中には「そんな野暮なこと」「みっともないこと」を行うつもりは微塵もない。芝居の出来不出来は「時の運」、「今日が駄目でも明日があるさ」といった「はかなさ」「いさぎよさ」を感じるのは、私ばかりであろうか。
 さて、この芝居についてはすでに見聞済み、当時の感想は以下の通りであった。
〈芝居の出来栄えは昼・夜ともに申し分なかったが、特に、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」は素晴らしかった。実を言えば、私は先日(2月15日)、この芝居と全く同じ内容の舞台を浅草木馬館で見聞していた。外題は「笹川乱れ笠」、劇団は「劇団武る」(座長・三条すすむ)。寸分違わぬ筋書で、私の感想は以下の通りである。「本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分ないのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある『楽しい』舞台を観たいのだ」。
 たしかに、「鹿島順一劇団」・「男の盃・孫次郎の最後」にも「笑い」はない。しかし、役者一人一人の「実力」「意気込み」「ひたむきさ」、相互のチームワークにおいて「全く違う」印象をもった。まさに「役者が違う」のである。この芝居の主役は、外題にもある通り、三浦屋孫次郎(花道あきら)だが、それを支える飯岡一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「演技力」が決め手になる。自分自身を「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム、しかし孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチシズムが「混然一体」となって、何ともいえない「男の魅力」を醸し出す。この用心棒の存在がなければ、芝居の眼目(男の友情・「盃」)は半減・消失してしまうのだ。「劇団武る」で、孫次郎を演じたのは座長(三条すすむ)、用心棒を演じたのは副座長(藤千乃丞)であった。台本に対する「解釈の違い」が、出来栄えの「差」に大きく影響していると思われる。もし、その配役が逆であっったら、どのような結果になったかわからない。全く同じ筋書の芝居でありながら、「鹿島順一劇団」は「横綱・三役級」、「劇団武る」は「関脇・前頭級」であることを、あらためて確認できた次第である〉
 当時、座長演じる用心棒について、〈「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム」〉、〈孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチズム〉と評したが、今日の舞台を見聞して、そのニヒリズムの根源をよく理解できた。つまり、この浪人、武家社会の「しがらみ」の中で、最愛の女を失い、その時の「地獄絵」が脳裡に焼き付いて、かた時も離れることがなかったのだ。座長の芝居は「いい加減」、その時の気分によって、セリフが「長く」なったり「短く」なったりする。(客が聞いていないと思えば、さっさと省略する)おそらく前回は、そこらあたりを「端折った」に違いない。それでも、浪人のニヒリズム、ロマンチズムは見事に「描出」されていた。それこそが、鹿島順一の「実力」に他ならないと、私は思う。今回、口上での座長の話。「うちの座員が、お客様に尋ねられたそうです。『おたくの劇団の《うりもの》は何ですか?』その座員が言うのです。『座長、うちの劇団の《うりもの》は何ですか?』私は答えに窮しました。みんな《うりもの》であるような、ないような・・・、強いて言えば、劇団ですから「劇」、「芝居」ということになるでしょうねえ・・・。でも、特に《うり》ということは考えていません。役者だってそうです。みんなが《花形》、みんなが《主役》だと思っています。なかには《ガタガタ》《花クソ》もいますけど・・・」
 私見によれば、「鹿島順一劇団」の《うり》は、①座長の実力(かっこよさ)、②座員の呼吸(チームワーク)、③舞台景色の「鮮やかさ」(豪華さとは無縁の艶やかさ)、④(垢抜けた)音曲・音響効果の技術、⑤幕切れ風情の「見事さ」、⑥「立ち役」舞踊の「多彩さ」等々、数え上げればきりがない。中でも、一番わかりやすく、誰もが納得できる《うり》は、「音響効果」、特に「音量調節」の「確かさ」であろう。私にとって防音用耳栓は、大衆演劇観劇の「必需品」だが、唯一、この劇団だけが裸耳(耳栓不要)で見聞できるのである。
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2023-01-06

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《「六十一 賀の祝」・千秋楽前日の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「六十一・賀の祝」。還暦を迎える父(座長・鹿島順一)とその息子たち(兄・花道あきら、弟・春大吉)の物語である。兄は、父の羽振りのよかった時期に物心ついたので、好条件の教育を受けられたが、弟は父の凋落時に生まれ、養育を大工の棟梁に任せられる始末、未だにうだつが上がらない。その結果、兄は弟を「あざけり」「そしる」、弟は兄を「うらみ」「あらがう」という関係に・・・。その様子を周知している父、二人がそうなったのも「みんな自分の責任」と弟に謝り、還暦の祝に招待した。兄にしてみれば、せっかくの、めでたい席を弟に汚されたくないという思い、祝の当日、はち合わせるやいなや、怒鳴る、殴るの兄弟げんか・・・。仲裁にかけつけた父、たまらず、二人の腕を手拭いで「固結び」、「もしほどいたら、二人とも勘当だ!よーく、頭を冷やして考えろ」と言い残し退場。残された、兄と弟。しばらくは「反発しあっていたが」、双方が、水を飲む、厠へ行く、飯を食べる、窒息しそうになる「相手」と「付き合わざるを得ない」うちに、次第に、幼かった頃の「兄弟愛」が蘇り、「仲良く家業を分担しよう」ということで、めでたし、めでたし。兄弟の嫁は、新人女優・春夏悠生、生田春美が担当、舞台に花を添えていた。
 1月公演も明日で千秋楽、どうやらこの劇場での観客動員数は(団体客を除き)、昼60人、夜30人というところで終わりそうである。しかし、その90人は、心底この劇団の「支持者」であることは間違いない。当所「初見え」の劇場でよく頑張った、と私は思う。とりわけ、三代目虎順を筆頭に、赤胴誠、春夏悠生、生田春美らの「若手」の成長が著しかった。今日の舞踊ショー、父・鹿島順一の歌声をバックに踊った、虎順「瞼の母」の舞台は、劇団の目玉として磨き上げてもらいたい。歌声は、間違いなく「日本一」、舞姿の風情は、年格好からいって、まず蛇々丸あたりが「お手本」を示すべきかも。赤胴誠の「箱根八里の半次郎」は、デビュー当時の氷川きよしとイメージが重なり、その「初々しさ」において格別の舞台であった。春夏悠生、生田春美の「おきゃん」もそうだが、舞踊における「若手」の「立ち姿」が「絵になっている」ところが素晴らしい。その集中力・緊張感を「組舞踊」の「大勢」の中でも発揮できるようになれば、三代目虎順に「一歩ずつ」近づくことができるだろう。。



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2023-01-05

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「紺屋高尾」、舞踊・女形大会、歌唱「瞼の母」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年3月公演・小岩湯宴ランド〉
 昼の部、芝居の外題は「紺屋高尾」、舞踊ショーは「女形大会」、夜の部、芝居の外題は「忠治御用旅」、舞踊ショーは「人生劇場」、いずれも特選狂言と銘打っていた。観客は「大入り」、以前「どこまでもつか?」とほざいていた客も顔を見せていたが、「友也(紫鳳)だって、これくらいは集められる。ここに出入りできないなんて、組合のやり方がおかしい」などと「八つ当たり」する始末。騒然とした雰囲気の中だったが、かえって座員の気持ちは引き締まり、舞台は今まで以上の「出来映え」であった。
「紺屋高尾」の夜鷹・鼻欠けおかつ(蛇々丸)は「絶品」で、三条すすむと「肩を並べている」。特に、セリフの出番がないときの、何気ない「所作」が魅力的で、客の視線を独占してしまう。この役は、「鼻欠け」という奇異感を超えた「あわれさ」「可愛らしさ」を漂わせることができるかどうか、が見所だが、十分にその魅力を堪能できる舞台であった。「女形大会」、座長の話では、めったにやらない(やろうと思ってもできない)演目とのこと、化粧・着付けを支援する、専門の「裏方」がいないためだ。今日は、春日舞子が「裏方」に徹したのだろう。普段見られない、蛇々丸、梅乃枝健の「女形」を観られたことは幸運であった。蛇々丸の「舞姿」は格調高く、「地味」に徹していたことが素晴らしい。「妖艶さ」を追求しないのは、「男優としてのプライドが許さない」(客に媚びを売らない)というモットーからか・・・。梅乃枝健の「女形」は、春日舞子と見紛うほど、「さすが」「お見事」の一語に尽きる。柏(昨年11月)、川越(2月)、小岩(3月)と通い続けて、ようやく二人の「女形」を目にすることができ、大いに満足した。
 夜の部、歌謡ショーで唄った座長・鹿島順一の「瞼の母」は、「天下一品」。彼の「歌唱」の中でも、抜群の「出来栄え」であった。番場の忠太郎は、ヤクザとしてはまだ「若輩」、どこかに「たよりなさ」「甘え」を引きずっている風情が不可欠だが、その「青さ」をもののみごとに描出する、座長の「実力」は半端ではない。「こんなヤクザに誰がしたんでぃ・・・」という心情が、言葉面だけでなく「全身」を通して伝わってくる。他日、どこかで聞いた座長の話。「私の歌をCDしないか、というお話がありましたが、私は歌手ではありません。役者風情の歌など余興(時間つなぎ)にすぎません。おそれおおいことだとお断りしました」。その「謙虚さ」こそが、彼の「実力」を支えていることは間違いないだろう。
とはいえ、鹿島順一の「芝居」「舞踊」「歌唱」が、その日その日の「舞台」だけで、仕掛け花火のように消失してしまうことは、何とも残念なことではある。
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2023-01-04

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「源太しぐれ」、座長「ちょい役」の意味》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉    芝居の外題は「源太時雨」。配役は、主役の源太・春大吉、その親分・蛇々丸、盲目の浪人・三代目虎順、その妻・春夏悠生という顔ぶれであったが、肝腎の座長・鹿島順一は悪役の親分(蛇々丸)に「おい、野郎ども! やっちまえ!」と呼ばれて、幕切れ直前に登場する、「野郎ども」(その他大勢の「ちょい役」)に甘んじる。ここらあたりが、この劇団の「実力」というものであろう。どこの劇団でも、座長が「その他大勢」の「ちょい役」ですませられるところはない。わずかに、「春陽座」の初代座長・澤村新吾が「ちょい役」に回ることがあるくらいである。「鹿島順一劇団」の実力は、座長が「ちょい役」に回っても、その他の座員だけで「十分に見応えのある」舞台を作り出せる点にあるのだ。「みんなが花形」「みんなが主役」「芝居はみんなで作るもの」といった理念にもとづいて、それが言葉だけでなく、いつでもどこでも「具現化」できることが素晴らしいのである。筋書は、大衆演劇の定番、行き倒れになった盲目の浪人とその妻、二人の間にできた乳飲み子を救ったのは土地の親分、しかし、それは形ばかりで、実はその妻と密通、ひそかに浪人を「消してしまおう」というもくろみ。恰好の人物として白羽の矢をたてられたのが、子分の「源太」、五両の礼金で「仕事」を請け負った。出かけようとすると浪人の妻が言う、「あの、赤ん坊も一緒に殺っておくんなさい」。「えっ?何ですって」と耳を疑う源太、しかし「子ども料金もいただけるなら・・・」と同意する。かくて、眼なし地蔵の前、源太の「盲目浪人・父子殺しの場」が現出するはずであったが、赤子の「火の付くような泣き声」に押されて、どうしても太刀が下ろせない。その泣き声は「チャンを、殺らないで!」(武家風に言うなら、「お父上をお助けください!)というように聞こえた、という。その「感性」こそが、この芝居の眼目に他ならないが、若手・春大吉の「所作」「表情」は、源太の「改心」を見事に描出していた、と思う。源太は浪人父子に五両まで手渡して解放、野良犬を斬り捨てて、刀の証拠作り、親分からさらに五両せしめる「したたかさ」、刀と着物を返せという親分に「怪談話」をでっちあげて「震え上がらせる」ドタバタ場面が「絵」になっていた。悪役が「途端に三枚目化する」蛇々丸の「至芸」は、相変わらずの出来栄え、しかも今回は妻・春夏悠生の風情に「変化」が出てきた。「冷酷」さのなかに「悔恨」の雰囲気を醸し出せれば申し分ないのだが・・・。
盲目浪人の目が明き、源太とともに、めでたく「間男成敗」の場面で、この「勧善懲悪」劇(秀作)は終幕となったが、ふりかえってみれば、春大吉、三代目虎順、蛇々丸、春夏悠生の四人だけで十二分の「舞台作り」ができてしまった、背後には座長、春日舞子、花道あきら、梅之枝健といった「そうそうたるメンバー」が控えているにもかかわらず、という点が「ものすごい」(この劇団の実力のすごさ)、と私は思う。
 舞踊ショーに登場した新人、赤胴誠、春夏悠生、生田春美の「成長」「変化」にも、目を見張るものがある。何よりも、舞台での「立ち姿」、「所作」一つ一つの「基礎・基本」が身につきつつある点が、たのもしい。「形は形」なのだが、「形だけでない形」(形に込められた気持ち)を学ぶことが、今後の課題だと思われる。彼らは、まさに「発展途上」、ますますの「成長」「変化」「おお化け」が楽しみである。



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2023-01-03

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《千秋楽は「人生花舞台」で夢芝居》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年2月公演・水戸ラドン温泉〉 2月公演の千秋楽、芝居の外題は「人生花舞台」であった。先月(1月公演・つくば湯ーワールド)とは違って、旧版どおり、元歌舞伎役者(老爺)・座長、清水の次郎長・花道あきら、一家子分大政・蛇々丸という配役だったが、水戸の舞台の最後を飾るためには「座長が主役」、なるほど、「立つ鳥は後を濁さない」という劇団(座長)の誠実さに脱帽する。花道あきらの次郎長、座長に比べて「貫禄は落ちる」が、彼独特の「人情味」(温かさ)の風情が魅力的、加えて、三代目・虎順の「三五郎」、蛇々丸の大政が舞台の景色を引き立てる。中でも、主人公・老爺(元歌舞伎役者)が次郎長に「昔話」を披露する場面(座長の長ゼリフ)で、一家子分役の、虎順、赤銅誠、梅之枝健、蛇々丸らが「凍りついたように固まって」座長の話に耳を傾ける様子は、圧巻。座長はいつも言う。「芝居で大切なのは『間』(呼吸)です。長ゼリフは意外に簡単。自分のペースでしゃべればいいのだから・・・。だいたいねえ、その(主役の長ゼリフの)時、他の役者は誰も聞いてなんかいませんよ、ひどいときには居眠りしている奴らだっているんですから・・・。」通常の劇団ならおっしゃるとおり、でも座長、あなたの劇団は違います。大先輩の梅之枝健を筆頭に、すべての座員があなたの「芸」を学ぼうと、必死に修行しているのです。その姿に、私たち観客は感動するのです。その姿から私たちは「元気がもらえる」のです。さてこの芝居、座長の相手は花形役者役の春大吉。この1年間で、一つ一つの「所作」「表情」に「見違えるような進歩」が感じ取れる。まず第一に、老爺自身が歌舞伎の実力者、その実力者(鹿島順一)が「惚れ惚れ」するような「芸」とはどのようなものであろうか。その姿を「具現化」することが春大吉の使命なのである。彼は「よく精進した」と、私は思う。花形役者の「色香」は十分、課題(目指すべき目標)は、坂東玉三郎の「品格」であろう。この演目を「鹿島順一劇団」の十八番として確立するためには、いつでも、どこでも、誰でもが、この花形役者役に挑戦できるという「からくり」を設けてみてはどうか。いわば、座長・鹿島順一が指南役、一人前の「登竜門」として、花道あきら、蛇々丸、虎順、赤銅誠が「次々に」花形役を演じる(試み)ができたなら・・・、本当の「夢芝居」と言えるのではないだろうか。



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2023-01-02

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《水戸ラドン温泉で「関東公演」大団円》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年2月公演・水戸ラドン温泉〉                                       我孫子発10時27分快速水戸行き電車で、水戸ラドン温泉に向かう。大衆演劇「鹿島順一劇団」2月公演の初日を観るためである。1月公演は「つくば湯ーワールド」、茨城県民の中にも30~50人程度の「贔屓筋」ができたようだが、なにせ「美鳳」だの「新演美座」だの、無骨・野暮天な芸風がもてはやされる土地柄、「長居は無用」を決め込んで、早々に「帰阪」されることを祈念する。座長の口上によれば、関東公演は3月まで、心底より「御苦労様」と労いたい。
 さて、実を言えばこの私、昨年12月中旬から「闘病生活」を続けている。これまでの病歴は、①無症候性脳梗塞、②前立腺炎・前立腺肥大であったが、新たに、③慢性皮膚炎(湿疹又は汗腺炎)が加わった。症状は、胸前、背中、肩、腕、太股などが「ただひたすら痒い」ということである。「痛い」「息苦しい」といった症状に比べれば「まだまし」といえるが、それにしても「イライラする」「集中できない」という点では、かなりしんどい。これまでに3度、医師を替えたが、いっこうに改善されないのは何故だろうか。第一の医者は高名だが高齢(おそらく80歳代)で、耳が遠い。こちらの話を看護師が通訳する始末だが、これまでの処方ではピタリと(薬を使い終わる前に)と治癒していた。だが、今回はいっこうに改善しない。そこで第二の医師、東京下町の診療所、彼もまた高齢だが耳は聞こえる。「冬場になると湿疹がでます。いつもは薬を塗ると治るのですが、今回はよくなりません」というと、患部を一見して「ああ、慢性湿疹ですね。注意点は二つ、汗をかかないこと、患部を掻かないこと。薬を出しますから、薄く塗ってください」ということであった。脇で初老の看護師がしきりに論評する。「そんなに厚着してたら、汗をかかない方がおかしい。さあ、脱いだ、脱いだ、あんたまだ若いんだから・・・」、なるほど、体が汗ばんだときに痒みがひどくなる。的確な助言に恐れ入り、薬を頂戴して帰路についたが、その量たるや微々たるもの、三日もすればまた通院しなければならない。塗布してみたが痒みはとれない。そこで第三の医者登場、大学付属の総合病院皮膚科、今度は30歳代とおぼしき女医で一見たよりななかったが、患部を触ったり、皮膚片を顕微鏡で覗いたりという方法で「汗腺炎」という診断であった。以後2週間以上、服薬、塗布治療を続けているが、症状に大きな変化はない。一番効いたように感じたのは、「つくば湯ーワールド」の天然温泉であったが、これから行く「水戸ラドン温泉」の効能はいかがなものか・・・。
 水戸駅北口から路線バス(大洗方面行き)に乗って、栗崎で下車。徒歩1分で「水戸ラドン温泉」に到着。入館料は525円とべらぼうに安い。日曜日と会って客が殺到し、浴室のロッカーに空きがなく「しばらくお待ち下さい」とのこと、「先に、芝居を観ます」といって劇場(レストランシアター)に赴いたが、その異様な光景に仰天した。収容人数500人とは聞いていたが、その舞台の大きいこと、広いこと・・・。通常の劇場の3倍は優にあるだろう。客席は二人掛けのテーブルが(小学校の机のように)すべて舞台と正対している。その座席が、な、な、なんと満席。私が最も愛好する「鹿島順一劇団」が500人の観客を前に公演するなんて、夢のような話。しかも、芝居の外題は、劇団屈指の十八番「春木の女」とあっては、感激の極み、私の涙は留まることを知らなかった。「育ちそびれた人をバカにしてはいけない」「白い目で見てはいけない」といった「人権尊重」を眼目にした芝居を「初日」にもってくるなんて、だからこそ、私は鹿島順一が好きなんだ。この座長は「本気で仕事をしている」。ここは関東、さだめし「忠治御用旅」「会津の小鉄」など「武張った」演目からスタートすれば評判があがるだろうと思うのに、あえて関西を舞台とした人情劇で勝負を賭けるなんて、その「気っ風」のよさに感動する。
公演初日の「春木の女」、出来栄えは「永久保存版」、500人といった大人数の中でも、役者と役者、役者と観客の呼吸はピッタリ、最後列で突然なり出した、携帯電話の呼び出し音が舞台の座長にまで聞こえていようとは・・・。咄嗟に「あんたたちがだらしないから、携帯電話まで鳴り出しちゃったじゃないの!」といったアドリブで対応する座長の機転が、何とも可笑しく、場を盛り上げる。梅の枝健、春日舞子、蛇々丸、三代目虎順、花道あきら、それぞれが「精一杯」の役割を果たして、大団円となった。
 この劇団の関東公演は、平成19年11年に始まり、ほぼ1年3カ月、来月の川崎大島劇場で終わるそうだが、今月の舞台は「大劇場」、双六で言えば、まさに「上がり」といった景色である。おそらく、「鹿島順一劇団」、最高の舞台が「水戸ラドン温泉」で終わるだろう。私自身もまた、ここらあたりで「大衆演劇三昧」を「上がり」にするような時がきたようである。

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2023-01-01

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「会津の小鉄」は抜群の出来栄え》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越・三光ホテル「小江戸座})                  芝居の外題は、昼の部「会津の小鉄」(主演・花道あきら)、夜の部「一羽の鴉」(主演・蛇々丸)。昨年11月、柏健康センターみのりの湯で、初めて「鹿島順一劇団」を観たとき、「目を空いたまま」盲目の役を演じることができる、たいそう達者な女優がいるのに、また、所作と表情だけで「笑い」をとれる、たいそう達者な男優がいるのに、全体としては「観客との呼吸が合わず、盛り上がりに欠ける」という感想をもった。芝居の外題すら覚えていなかったが、今日の観劇で思い出した。そうだ、あの時の芝居は、まさに「会津の小鉄」だったのだ。今日の舞台は、あの時とは打って変わり、「天下一品」「至芸そのもの」という出来栄えであった。たった三月の間に、この劇団の「実力」が向上したわけではない。「劇団」本来の「実力」が今日は十二分に発揮できたのである。舞台は水物、観客との呼吸次第だということがわかった。この外題は、いわば大衆演劇の定番、どこの劇団でも十八番にしているが、今日の舞台を超える出来栄えは観たことがない。役者一人一人の「実力」はもとより、配役、舞台構成、照明効果、音響効果に「非の打ち所がない」のである。敵役の名張屋新蔵(座長)に満座の席で恥をかかされ、復讐しようと呼び出したまではよかったが、そこでも同行した兄弟分を返り討ちで亡くし、指まで詰めてすごすごと帰宅した高坂仙吉(花道あきら)、盲目の恋女房・お吉(春日舞子)には隠していたつもりが、すでにお見通しだった。「あたしはおまえさんの女房だよ。そんなこと知らずでどうするものかえ」「兄弟分まで殺されて、すごすごと帰ってくるなんて」と、責められる。仙吉「おれは、お前一人を残して逝くわけにはいかなかった」「あたしのことなら心配いらない。眼は不自由でも女一人、何としてでも生きていける」「そうか、じゃあ敵討ちに行ってもいいんだな」「こんなこともあろうかと、用意しておいたよ」と着せられる白装束。「ありがとよ、これで男の意地が通せる」勇んで出立しようとする仙吉を、「あっ、おまえさん待って」と呼びとめ「後に心が残ってはいけない。どうぞ存分にうらみを晴らしておくんなさい」と言いながら、お吉は自刃した。思いもよらぬ女房の死、だがもう、仙吉が失うものは何もなかった。「わかった。存分に働いて、すぐに後から逝くからな」一景は、愁嘆場(京極幸枝若口演の節劇は秀逸)で幕が下りた。
 二景は打って変わり、底抜けに明るい舞台、腹を減らした二匹の素浪人・宮本むさくるし(蛇々丸)、佐々木乞食(春大吉)、フラフラと登場。歌舞伎「もどき」の「三枚目」、京の町にやってきたが、仕事が見つからず無一文、朋輩の鼻まで「団子」に見える。そこへ、新蔵の娘・お京((三代目虎順)が通りかかった。「食い気より色気」、たちまち二人の浪人は「ものにしよう」とナンパする。危機一髪、お京を救ったのは、誰あろう、これから父・新蔵を討ちに向かう途中の仙吉だった。執拗に絡みかかる素浪人、「おのれ、手は見せぬぞ」と「型どおり(歌舞伎調)」の口跡に、「手は見えてるよ」、「みどもの太刀筋をかわしおったな」「そんな太刀筋、誰でもかわせるよ、何ごちゃごちゃ言ってんだ!早く失せろ!」と現代風にいなす仙吉、そのやりとりが実におもしろい。峰打ちを食らわして二人を退散させると、舞台に残ったのは仙吉とお京。「助けてくれと頼んだ覚えはない。お礼は言わないよ」と突っ張るお京に、「気の強え娘だ。おまえさん名前は?」「あたし?あたしは、京都一円を取り仕切る名張屋新蔵の娘・お京と言うのさ!」そうだったのか、では、あの憎っくき仇の娘か、まあいいや、先を急ごう、二人は連れだって、名張屋一家へと向かう。
三景は、新蔵宅。娘の帰りが遅いのを心配する新蔵。子分を迎えにやらせようとしたとき、お京が帰ってきた。「今、京の町は危険がいっぱい、娘のひとり歩きは物騒だ。・・・・」くどくどと説教を始める新蔵に、「お父っつあん、もう終わり?」、馬耳東風のお京。「あのね、悪いお侍に絡まれたの」「そら、言わんこっちゃねえ。お前にもしものことがあったら、死んだおっ母さんに申し開きできねえ・・・・」「お父っつあん、もう終わり?でもね、私を助けてくれたお人がいたの」「そうかそうか、で、その人はどこのお方だ」「知らない!」「なんだ、お前、助けてくれたお方の名前を聞かないできたのか、それじゃあお礼もできないじゃないか」「そんな心配いらないわ、今、そこに来ているもの」「それを早く言わないか、早く家の中にお通ししろ」
 かくて、仙吉は仇敵・新蔵と対面する。「どこのお方か存じませんが、このたびは娘の危ないところをお助けいただき、ありがとうがござんした」丁重に礼を言う新蔵に向かって、「やい新蔵、よくもオレに恥をかかせやがったな!今日は兄弟分の仇を討ちに来たんだ」と仙吉は宣言する。「なあんだ、お前は仙吉か。返り討ちに遭う前に消え失せろ!」「そうはいかねえ。お前に渡すものがあるんだ」「ふうん、手土産持参とは感心なやつだ」仙吉が渡した「手土産」とは、恋女房・お吉の生首、驚愕する新蔵、しかし「おまえの女房にしては出来過ぎ、相手になってやろう」、抜刀して立ち上がる。「望むところだ、覚悟しやがれ!」情感溢れる法華太鼓をバックに、たちまち始まる立ち回りは、小道具の脇差しが本身と見間違うほどの真剣勝負、見事な殺陣であった。わずかに仙吉のドスが優り、新蔵は深手を負う。子分達は黙っていない。「野郎!ゆるさねえぞ」といきり立つのを静かに制し、新蔵は言った。「もし、仙吉さん。勝負はついた。オレの負けだ。それにしても、お前はいい男だなあ・・・」「何だと?」荒い息の中から新蔵の長ゼリフ。要するに、妻に先立たれ、自分も労咳、一人娘の行く末を案じて「婿」を探したが、どれをとっても「帯に短し襷に長し」で見つからない、そんなとき、白羽の矢が立ったのは仙吉だった、しかし、仙吉はすでに所帯持ち、「婿」にはできない腹いせに、万座(花会)の席で 恥をかかせた次第、馬鹿な親だと嗤ってくれ、お前からもらった小指、兄弟分の亡骸は大切に回向しているつもりだ、という話。座長・鹿島順一の長ゼリフは、それだけで一話の「人情噺」、すべてを察した仙吉に、名刀「小鉄」と一家の行く末を託し、亡妻のもとに旅立つ新蔵、それを支える仙吉、お京、子分たち、どの劇団の舞台でも観ることができない「至芸」(会津小鉄誕生秘話)であった、と私は思う。ただ単に「意地の張り合い」「格好良さ」を形で見せるのではなく、底に流れる「人情」に注目し、それを役者のキャラクターに合わせて表現しようとする「演出」が、群を抜いているのである。
舞踊ショーでは、三代目・虎順の「蟹工船」「忠義桜」は絶品。南條影虎の女形舞踊「夢千代日記」を追い越せれば、若手ナンバーワンになる日も遠くない。
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2022-12-31

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「幻八九三」・赤胴誠の試練》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年2月公演・みかわ温泉海遊亭〉
第一部・芝居の外題は「幻八九三」。この演目は、新人・赤胴誠の出世狂言。私は去年の10月、ジョイフル福井でその舞台を見聞している。以下はその時の感想である。〈芝居の外題は「幻八九三」(まぼろしヤクザ)。雌伏三年、いよいよ新人・赤胴誠の「出番」がやってきた。これまで舞踊ショーの裏方(アナウンス)、個人舞踊、芝居での「ちょい役」で修業を積んできた赤胴誠が、初めて「出番」の多い、準主役をつとめるチャンスが巡って来たのである。筋書は単純、兄・伊三郎(座長・三代目鹿島順一)のようなヤクザに憧れている弟の伊之吉(赤胴誠)が、こともあろうに、兄とは敵同士の権助親分(春大吉)に入門を申し込む。「オレは日本一、強いヤクザになりてえんだ!」という一心で、親父(甲斐文太)や幼友達(幼紅葉)の忠告なんぞは「馬耳東風」と聞き流す。権助親分、はじめは取り合わなかったが、あまりにしつこくつきまとうので、「それなら十両もってこい。身内にしてやるぞ」。伊之吉、小躍りして自宅に跳び帰り、「親父、十両くれ。これから権助親分の身内にしてもらうんだ」、あきれかえる親父を尻目に十両ないかと家捜しをする始末、親父「そんな金があるはずもねえ」と高をくくっていたが、あにはからんや、伊之吉、亡母の仏前から十両持ち出してきた。そういえば、先刻、兄の伊三郎が旅から帰り、仏壇に手をあわせに行ったのだった。さだめし、兄が手向けた供え物に相違ない。「渡すわけにはいかない」と、必死に揉み合う親父と伊之吉。だが、どうみても「すばしっこさ」では伊之吉に分がある。十両手にして玄関を飛び出そうとしたとき、なぜか十手持ちの女親分(春日舞子)、颯爽と登場、たちまち伊之吉をねじ伏せて十両を取り戻す。「いててて、なんだ、この女、おぼえていやがれ!」と、捨て台詞をはいたまま、伊之助は権助親分のもとへ・・・。兄・伊三郎と女親分は旅の道中で顔見知り、気心が通じ合ったかどうかは不明だが、それとなく兄に「肩入れ」しようとする気配が感じられてはいたのだが・・・。権助親分のもとへ駆けつけた伊之吉、「十両持ってきたか」「それが、駄目でした」「どうして?」「十両は見つけましたが、へんな女に取り上げられちゃって」とかなんとか言っているところに、兄・伊三郎登場。権助親分「よくも帰ってきやがったな。身内の仇だ、生かしちゃおけねえ」、三人がかりで斬りかかるが、腕は数段伊三郎が上、たちまち返り討ちに・・・。その様子を見ていた伊之吉、「やっぱり、兄貴は強ええ!。兄貴の身内になりてえな」。新三郎「いいだろう、二人で一家をかまえよう」。だがしかし、そうは問屋が卸さない。なぜか再び十手持ちの女親分登場。「一家をかまえるなんてとんでもない。伊三郎!捕縛するから覚悟しろ」。かくてタイマンの勝負となったが、今度は女親分の腕が数段上、たちまちお縄をかけられて「おーい、伊之吉、助けてくれ、オレはまだ死にたくない・・・」と泣き出した。その姿の格好悪いこと、惨めなこと。伊之助、ハッと我に返り「なんでえ、なんでえ、あの姿。イヤだ、イヤだ。もうヤクザなんてなりたくねえ!」と叫んで号泣する。実を言えばこの話、伊之助にまっとうな人生を送らせようとして打った、伊三郎と女親分の「芝居」だったに違いない。私が驚嘆したのは、弟・伊之助こと赤胴誠の成長(変化)である。俗に、役者の条件は「イチ声、二振り、サン姿」というが、いずれをとっても難が無い。未熟な役者ほど、声(口跡・セリフ)だけで芝居を演じようとするものだが、今日の赤胴誠、「振り」も「姿」も初々しく、その場その場の「心情」がストレートに伝わってくる。例えば、親父に向かって「十両くれ!」とあっけらかんにせがむ「青さ」、十手持ち親分を「なんだ、この女」と見くびる「軽さ」、兄・伊三郎の立ち回りを、へっぴり腰で応援する「熱さ」、一転、捕縛された兄貴の惨めな姿に号泣する「純粋さ」等々、未熟で頼りない若衆の風情を「そのまま」舞台模様に描出できたことは、素晴らしいの一言に尽きる。雌伏三年、師匠・甲斐文太、諸先輩の「声・振り・姿」を見続けてきた研鑽の賜物であることを、私は確信した。甲斐文太は「今日の出来は30点」と評していたが、なによりも、他の役者にはない「誠らしさ」(個性)が芽生えていることはたしかであり、そのことを大切にすれば貴重な戦力になるであろう。客の心の中に入り込み、その心棒を自在に揺さぶることができるのは、役者の「個性」を措いて他にないからである。
 芝居の格、筋書としては「月並み」な狂言であっても、舞台の随所随所に役者の「個性」が輝き、客の感動を呼び起こす。それが「鹿島劇団」の奥義だが、今や新人・赤胴誠も、それに向かって「たしかな一歩」を踏み出したことを祝いたい〉。さて、今日の舞台の出来栄えや如何に?今回の配役は、大幅に変わった。伊之助・赤胴誠、伊三郎・三代目座長・鹿島順一、朋輩の娘・幼紅葉はそのままだが、敵役・権助親分は花道あきら、その子分に春日舞子、伊之助の親父に梅之枝健、十手持ち親分に責任者・甲斐文太という陣容で、舞台の景色はがらりと変わってきた。なるほど、前回に比べて、今回の配役の方が真っ当だが、赤胴誠にとっては一つの試練とでも言えようか、相手役(親父・十手持ち親分)の貫禄がありすぎて、やや押され気味の風情であった。この芝居の見どころは二つ、一に伊之助と親父のコミカルな「絡み」、二に伊三郎と十手持ち親分の爽快な「腹芸」だと私は思うが、甲斐文太が親父役から親分役に回ったことにより、当然のことながら後者の見どころが際だってくる。赤胴誠はもう師匠・甲斐文太の「胸を借りる」ことはできない。大ベテラン・梅之枝健を相手に、自力でその個性・初々しさを発揮しなければならなくなったのだ。「前回とは勝手が違う」と思ったかどうかは不明だが、およそ役者たるもの、どんな場面、どんな相手であっても、臨機応変に「見せ場」を演出する努力が必要である。たとえば、今日の舞台。兄・伊三郎が敵役子分を一人ずつ切り倒す立ち回りの場面、その様子をへっぴり腰で応援、一人倒すたびに拳を挙げて狂喜する伊之助の姿が不可欠、まさに「本日未熟者」の典型を描出しなければならない。観客は、その姿の残像があればこそ、大詰め、日本一強かったはずの兄貴が「助けてくれ、オレはまだ死にたくねえ・・・」と泣き出す無様な姿を見て落胆、一転して「なんでえ、なんでえ、あの姿。イヤだ、イヤだ。もうヤクザなんてなりたくねえ!」と叫んで号泣する伊之吉に共感することができるのである。という観点からみると、今日の赤胴誠は「やや淡白」であり過ぎたか・・・。いずれにせよ、舞台は水物、役者の修業に終わりはない。「たしかな一歩」を踏み出した赤胴誠の試練は、これからである。



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2022-12-30

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「アヒルの子」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年2月公演・大阪梅南座〉
芝居の外題は「アヒルの子」。三代目鹿島順一が座長を襲名後、これまで劇団を支えてきた蛇々丸、春大吉といった名脇役が脱けたことによって、少なからず、その(国宝級の)「舞台模様」は変化せざるを得なかった。中でも「アヒルの子」には、蛇々丸の存在が欠かせない。当分の間、この演目は上演不可能ではないだろうか、などと私は勝手に思っていたのだが、とんでもない。今日の舞台を観て、あらためてこの劇団の「実力」を思い知った(二度惚れした)のである。ちなみに、私がこの演目を最後に観たのは、今からほぼ3年前(平成21年4月)、福島郡山(東洋健康センターえびす座)であった。以下は当時の感想である。〈芝居の外題は「アヒルの子」、社会人情喜劇と銘打った筋書で、登場人物は下請け会社員の夫婦(夫・鹿島順一、妻・春日舞子)と娘・君子(生田春美)、その家の間借り人夫婦(夫・蛇々丸、妻・春夏悠生)、電気点検に訪れる電電公社社員とおぼしき若者(鹿島虎順)、親会社の社長(花道あきら)という面々(配役)。この人たちが繰り広げる「ドタバタ騒動」が、なんとも「ほほえましく」「愛らしく」、そして「滑稽」なのである。以前の舞台では、娘・君子を三代目虎順、間借り人の妻を春大吉、電気点検の若者を金太郎が演じていたが、それはそれ、今度は今度というような具合で、本来の女役を生田春美、春夏悠生という「新人女優」が(懸命に)演じたことで、「より自然な」景色・風情を描出することができたのではないか、と私は思う。だが、何と言ってもこの芝居の魅力は、座長・鹿島順一と蛇々丸の「絡み」、温厚・お人好しを絵に描いたような会社員が、人一倍ヤキモチ焼きの間借り人に、妻の「不貞」を示唆される場面は「永久保存」に値する出来栄えであった。なかでも《およそ人間の子どもというものは、母親の胎内に宿ってより、十月十日の満ちくる潮ともろともに、オサンタイラノヒモトケテ、「オギャー」と生まれてくるのが、これすなわち人間の子ども、七月児(ナナツキゴ)は育っても八月児(ヤツキゴ)は育たーん!!》という「名文句」を絶叫する蛇々丸の風情は天下一品、抱腹絶倒間違いなしの「至芸」と言えよう。その他、間借り人の妻が追い出される場面、娘・君子が「おじちゃん!」といって帰宅する場面、社長の手紙を読み終わって夫(座長)が憤る場面等々、「絵になる情景」を挙げればきりがない。要するに眼目は「生みの親より育ての親」、きわめて単純な(何の代わり映えのしない)筋書なのに、これほどまでに見事な舞台を作り出せるのは、役者それぞれの「演技力」「チームワーク」の賜物というほかはない。その「演技力」の源が、座長・鹿島順一の生育史にあることは当然至極、彼ほど「育ての親のありがたさ」を実感・肝銘している役者はいないかもしれない。加えて素晴らしいことは、蛇々丸を筆頭に座員の面々が(裏方、照明係にいたるまで)、座長の「演技力」に心酔、各自の「実力」として「吸収」「結実化」しつつあるという点であろう。ところで、件の名文句にあった「オサンタイラノヒモトケテ」とは、どのような意味だろうか、その謎もまた、この芝居の魅力なのだ・・・・〉。さて、今日の配役は、間借り人の夫が蛇々丸から三代目鹿島順一に、電電公社社員(今回は関西電力社員)の鹿島虎順が赤胴誠に、アヒルの子・君子が生田春美から幼紅葉に、それぞれ変わっていたが、結果はベスト、魅力も倍増して、前回・前々回よりも「数段上」の出来映えであった、と私は思う。蛇々丸の夫役は、どこかエキセントリック(偏執狂的)な風情が「売り」であったが、三代目鹿島順一は、あくまでオーソドックス、真っ向勝負の「ヤキモチ」風情が際だっていた。「新婚ホヤホヤ」なら当然といった(清純な)空気が漂い、それが、下請け会社員夫婦と社長の不穏な「しがらみ」を浄化する。蛇々丸は、役者としては「男盛り」の三十代、三代目鹿島順一はまだ二十歳の「若造」、タバコを(会社員・甲斐文太から)借りながら、(したたかに)2本耳に挟む仕種も、どこかぎこちなかったとはいえ、さればこそ、その初々しさが(私には)たまらなく魅力的であった。さらにまた、十八年間も夫をだまし続けた「おかあちゃん」役の春日舞子と「社長」役の花道あきらの(無言の)「絡み」は、一段と鮮やか、それにアヒルの子・君子の可憐さ、「おんどり」役・甲斐文太が醸し出す絶品のユーモアとペーソス、(頓狂な)電力会社員に扮した赤胴誠、(艶やかな)新妻役・春夏悠生の風情も添えられて、劇団員一人一人が、文字通り「適材適所」で描出する名舞台に仕上がっていた。お見事!、さて、お次は・・・、「春木の女」「噂の女」「命の賭け橋」「新橋情話」等々と、身勝手な期待を胸に抱きながら、帰路に就いた次第である。
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2022-12-29

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「悲恋流れ星」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成24年2月公演・大阪梅南座〉
芝居の外題は「悲恋流れ星」。生まれつき顔半分に疵のあるヤクザ・弁太郎(座長・三代目鹿島順一)の悲恋物語である。もともと「若い女に相手にされるはずもない」と諦めていた弁太郎が、ひょんなことから、盲目の娘・お花(春夏悠生)を助け、同居生活を始めることになった。お花の目は治療すれば治るとのこと、弁太郎はお花の目を何とか治してやりたいと思い、土木作業に従事する。そんな優しさにお花は惹かれ、「兄さん、顔が見たいの」と弁太郎に懇願、「今は、まだ無理だ。目が治ったらな」「今、すぐ見たいの。私は手で触れば見える。兄さん、顔を触らせて」、「そんなこと言ったって・・・」と弁太郎が困惑しているところに、弟分(赤胴誠)がやって来た。「ちょうどいい、おめえ、あの娘に顔を触らせてやってくれ。ただし、娘には絶対触るな、声も出すな(唖になれ)」と言い含めて、お花のもとに連れていく。弟分、何が何だかわからぬままに、お花に顔を触らせた。お花「やっぱり私の思ったとおり、兄さんの顔はキレイ!心のキレイな人は顔もキレイだとおっ母さんが言っていた」。その場は何とか繕ったが、弟分もお花に惹かれた様子・・・。以後、弟分は「唖のおじさん」になりすまして、お花に近づき始めたか・・・。気がつけば、自分もお花に惹かれている。こともあろうに弟分と「恋のさや当て」になろうとは・・・。やがて名医(春日舞子)の治療が効をを奏し、お花はめでたく開眼したのだが、その時は弁太郎と弟分が「対決」の真っ最中・・・。そこへ、かねてからお花をつけ狙っていた、仇役・まむしの大五郎(甲斐文太)、用心棒(花道あきら)も登場、「こっちを片付ける方が先だ」と大五郎を退治したが、腕は用心棒の方が上、あえなく弁太郎は深手を負ってしまった。弟分の助力で、何とか用心棒を仕留めたところに、お花が駆け込んでくる。「兄さん、私の目が開いたの!」欣然として、弟分の懐に飛び込んだ。それを見た弁太郎、瞬時に「唖のおじさん」に変身する。お花、倒れ込んだ弁太郎の顔を見て驚いた。「あの、おじさんがこんな顔だったなんて!」。舞台は大詰め、弁太郎(心と傷の痛みをこらえながら)、お花と弟分の幸せを「手真似」で祈る。文字通り「断末魔」、こらえきれずに声が出てしまった。「二人とも、幸せになれよ」、その声を聞いたお花の表情は(兄さんは、あなただったの!?・・・と)一変、うなだれたまま慟哭する弟分に抱かれて、弁太郎は絶命する、舞台は、一瞬「凍りついた」ような景色を残して閉幕となった。三代目鹿島順一、赤胴誠、春夏悠生ら、若手陣の「呼吸」がピタリと合って、見事な出来映えであった、と私は思う。この芝居の眼目は「愛別離苦」、弁太郎曰く、「人間は誰を好きになってもいいんだよな。愛することは自由だよな」、その通りだが、まさに「愛したときから苦しみがはじまる」のだ。お花の目を治したい、でも、お花の目が開いて自分を見たとき、今まで通り「お嫁さんになりたい」と言ってくれるだろうか。まして、飲み分けの兄弟分は恋敵、焦燥と嫉妬、悔恨の入り交じった心象風景を、三代目鹿島順一(と弟弟子の赤胴誠は)いとも鮮やかに描出する。それを観て、「悲恋流れ星」の流れ星とは、昇天した弁太郎の「魂」に他ならないことを、私は心底から納得したのであった。舞踊ショーで魅せた、三代目鹿島順一の「忠義ざくら」、甲斐文太の歌声で舞う幼紅葉の「細雪」は、いずれも出色、珠玉の名品を存分に堪能できたことも望外の幸せ、今日もまた、大きな感動を頂いて帰路に就いた次第である。
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2022-12-28

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「大江戸裏話・三人芝居」「人生花舞台」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越三光ホテル・小江戸座)
 芝居の外題は、昼の部「大江戸裏話・三人芝居」、夜の部「人生花舞台」。
前者は、もう店じまいをしようとしていた、夜泣きうどんの老夫婦(爺・蛇々丸、婆・座長)のところへ、腹を空かした無一文の遊び人(虎順)がやってくる。うどんを三杯平ら上げた後、「実は一文無し、番屋へ突き出してくれ」という。驚いた老夫婦、それでも遊び人を一目見て「根っからの悪党ではない」ことを察する。屋台を家まで運んでくれと依頼、自宅に着くと酒まで馳走した。実をいえば、老夫婦には子どもがいない。爺が言う。「食い逃げさん、頼みがあるんだが・・・」「なんだい?」婆「お爺さん、ただという訳にはいかないでしょ」と言いながら、大金の入った甕を持ってくる。「それもそうだな、食い逃げさん、一両あげるから、頼みを聞いちゃあくれないか?」「えっ?一両?」今度は遊び人が驚いた。「一両もくれるんですかい?ええ、ええ、なんでもやりますよ」爺「実はな、私たち夫婦には子どもがいないんじゃ、そこでどうだろう。一言でいいから『お父っつあん』と呼んではくれないか?」「えっ?『お父っつあん』と呼ぶだけでいいんですかい?」「ああ、そうだ」「そんなことなら、お安い御用だ。じゃあ言いますよ」「・・・」「お父っつあん」「・・・、ああ、やっと『お父っつあん』と呼んでもらえた」感激する爺を見て、婆も頼む。「食い逃げさん、二両あげるから、この婆を『おっ母さん』と呼んではくれまいか?」小躍りする遊び人「ええ、ええ、お安い御用だ。それじゃあ言いますよ、いいですか」婆「・・・」「おっ母さん!」「・・・」婆も感激して言葉が出ない。つい調子に乗って爺が言う。「今度は、あんたを叱りたい。あたしが叱ったら『すまねえ、お父っつあん、もうしねえから勘弁してくんな』と謝ってはくれまいか。礼金は三両あげましょう」喜んで引き受ける遊び人、婆も四両出して叱りつけた。そして最後にとうとう爺が言い出す。「どうだろう、食い逃げさん、この甕のなかの金全部あげるから、私の言うとおり言ってはくれまいか」「・・・?」「『お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち、いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ、オレがこうして帰ってきた以上、後のことは全部任せて、もう止めたらどうだい』ってね」指を折って懸命に憶えようとする遊び人「ずいぶん長いな。でも、だいじょうぶだ。・・・じゃあ、いいですか。言いますよ」瞑目し、耳をすます老夫婦。遊び人、思い入れたっぷりに「お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち二人いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ。・・・」の名台詞を披露する。かくて、大金はすべて甕ごと、遊び人のものとなった。大喜びの遊び人「ありがとうござんす、これで宿屋にも泊まれます。あっそうだ、さっきのうどん代、払います」と一両小判を爺に手渡した。「こんなにたくさん、おつりがありませんよ」「とんでもねえ、とっておいておくんなせい。それじゃあごめんなすって」意気揚々と花道へ・・・、しかし、なぜか足が前に進まない。家に残った老夫婦の話に聞き耳を立てる。爺「お婆さん、本当によかったね。どんなにたくさんのお金より、子どもを持った親の気持ちになれたことがうれしい。あの人がくれた一両で、またこつこつと暮らしていきましょう」遊び人、矢も楯もたまらず引き返し、哀願する。「さっきもらったこの金はあっしのもの。どう使ってもよろしいですよね」あっけにとられる老夫婦、顔をみあわせて訝しがり「・・・・?、はいはい、けっこうですよ」遊び人「・・・、この金、全部あげるから、おめえさんたちの子どもとして、この家に置いてください」と泣き崩れた。どこかで聞こえていた犬の遠吠えは「赤子の産声」に、そして舞台・客席を全体包み込むようなに、優しい「子守唄」で幕切れとなった。
 幕間口上の虎順の話。「一両って、今のお金にするとどれくらいだと思いますか。だいたい六万円くらいだそうです。一言『お父っつあん』で六万円ですからね、大変なことだと思います」その通り、老夫婦の全財産(数百万円)よりも「親子の絆」が大切という眼目が、見事なまでに結実化した舞台だった。
 後者は、「人生花舞台」、大衆演劇の定番で、私は、昨年「澤村謙之介劇団」の舞台を見聞している。主役の爺(座長)は、元歌舞伎役者、師匠の娘と駆け落ちし一子をもうけるが、妻子は連れ戻され、今は落ちぶれたその日暮らしの独り者、むさくるしい身なりで、清水一家に乗り込んできた。「親分と一勝負したい」と言う。次郎長親分(花道あきら)が訳を尋ねると、「掛川の芝居小屋で、二十年前に別れた一子が興行している。親子名乗りはできないが、せめて、幟の一本でも贈ってやりたい」事情を察した親分、清水での興行を企画、爺を「御贔屓筋」(網元)に仕立て上げた。興行は成功、打ち上げの席で爺と、一子・今は襲名披露を控えた花形役者(春大吉)は再会する。大きく成長した一子の姿に眼を細め、それとなく愛妻(一子の母)の消息をたずねる爺の風情は格別であった。  
 芝居のクライマックスは、次郎長親分に勧められて一子がひとたち舞う「艶姿」であろう。しかし、酷なようだが、今の春大吉には荷が重すぎた。爺の風情が格別であるだけに、「舞姿」は「珠玉」でなければならない。もし、一子・蛇々丸、代貸大政・春大吉という配役であったなら、また違った景色の舞台になったのではないだろうか。身勝手な蛇足を加えれば、前者(「大江戸裏話」の爺を梅乃枝健、後者の一子を蛇々丸という配役がベストであった、と私は思う。いずれにせよ、舞台は水物、爺のセリフ「役者の修業に終わりはない」という至言は、座長自ら座員に伝えたかったメッセージに違いない。それに応えようと日々精進する座員各位の努力は見せかけではない。その姿に私は脱帽し、今後ますますの充実・発展を祈念する。

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2022-12-27

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「喜劇・弁天小僧」の課題》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成24年2月公演・大阪梅南座〉
芝居の外題は「喜劇・弁天小僧」。筋書きは単純、「変態」の親分(甲斐文太)から娘(春夏悠生)と五十両をだまし取られた百姓(春日舞子)の話を聞いて、弁天小僧(三代目鹿島順一)が助太刀、見事に仇を討つという物語である。さて、演目には「喜劇」と銘打っているが、喜劇ほどむずかしいものはない、と私は思う。娘を拉致した子分ども(花道あきら、赤胴誠、壬剣天音、梅之枝健)が、「親分のものになれ」と一人一人口説く場面、それを舞台の袖で聞いていた親分が登場、子分どもと「絡み合う」あたりを「喜劇仕立て」にする魂胆(思惑)はわかるが、その時大切なことは、「変化」と「間」、笑いを誘う機知に富んだアドリブをどこまで続けられるか、突っ込みとボケの呼吸がピッタリと決まるかどうか、ということである。ともすれば「楽屋ネタ」「下ネタ」の繰り返しで冗長になり、客の方では「もういいよ」と食傷気味になりがちだが、今日の舞台も、残念ながら「その域」をでることはできなかった。わずかに百姓の老爺に扮した春日舞子が、子分どもに追い回されながら「受けないギャグばかり!」と嘆いた場面は光っていたが・・・。さて、主役の弁天小僧の風情や如何に?同じ演目で、私の印象に残っているのは「弁天小僧・温泉の一夜」の橘龍丸(「橘小竜丸劇団」)、「三島と弁天」の小泉ダイヤ(「たつみ演劇BOX」だが、その景色においては遜色ないものの、女形の「口跡」においては及ばなかった。役者の条件は「一声」「二振り(顔)」「三姿」、今後、「一声」の魅力(艶やかさ)をどのように描出するか、三代目鹿島順一の大きな課題ではないだろうか。それを克服できたとき、同時に「紺屋高尾」「仇討ち絵巻・女装男子」の舞台模様が、一段と輝きを増すことは間違いない、などと身勝手なことを考えつつ帰路に就いた次第である。
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(2005/05/29)
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2022-12-26

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《「人生花舞台」は、近江飛龍客演の「夢芝居」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成22年2月公演・奈良弁天座〉                                                   今日は「近江飛龍劇団」座長・近江飛龍がゲスト出演とあって、客席は満員、昼も夜もダブルの大入りとのこと、前売り券も売り切れという始末であった。私は1時間前に到着したが、劇場の周辺は閑散としていたので、まさかこんな事態になっているとは思いも寄らなかった。入場すると座席はすべて予約済み、最後方及び通路の補助席(パイプ椅子・丸椅子)が空いているだけだった。近江飛龍は座長・鹿島順一の甥(次姉・近江竜子の長男)で、今や関西の若手リーダーという存在、その実力は半端ではない。その彼が、実力日本一の「鹿島順一劇団」に出演とは、夢のような話。取るものもとりあえず、興味津々で駆けつけた次第である。劇場への途次、私は考えた。いったいどんな芝居をやるのだろうか。「新月桂川」なら最高の舞台になるだろう。「鹿島劇団」で不足しているのは若手女優、(「近江劇団」の「新月桂川」同様)桂川一家親分の娘役を近江飛龍が演じれば・・・、などと身勝手な期待をしていたが、結果は予想外。外題は「人生花舞台」であった。なるほど、プロはプロ、(私ごとき)素人とは発想が違う。主役・元役者の老爺に近江飛龍、清水の次郎長・鹿島順一、花形役者・(成田屋)駒三郎に鹿島虎順、清水一家大政・花道あきら、追分三五郎・蛇々丸、子分衆・梅の枝健、春大吉、滝裕二、といった配役で、文字通り「適材適所」の舞台であった。6月に三代目を襲名する鹿島虎順のために近江飛龍が「一役買った」夢芝居という趣向が窺われ妙に納得してしまったのだが・・・。さて、舞台の出来映えは?なるほど「鹿島劇団」と「近江劇団」の違いがはっきりと出た。「鹿島劇団」は「みんなが主役」、いつでもどこでも、それぞれがそれぞれに輝いているという景色だが、「近江劇団」は「主役は主役」、近江飛龍もしくは笑川美佳といった「実力者」の「一人芝居」(独壇場)が「見せ場」なのだということを、改めて思い知った次第である。古くは関東の大宮敏光、関西の藤山寛美、いずれも「主役抜きの舞台」は考えられない。それが当たり前なのだが・・・。主役・老爺(近江飛龍)の長台詞(一人舞台)に入る前、次郎長(鹿島順一)の一言、「おい、みんな。これから長くなりそうだから、膝を崩せ!」は何を意味するか。私には、「近江座長の《実力》を、とくと拝見(鑑賞)しようではないか」という余裕すら感じられた。それに応えて、近江飛龍、まさに「渾身の演技」(その表現力は至芸に値する)を展開、だが「一人浮いてしまった」ことも否めない。長台詞が終わって一言、「皆さん、退屈しませんでしたか?」というつぶやきは、鹿島劇団の面々に向けた、偽らざる「本音」(これでよかったのか?という不安)に違いない。この老爺役、私は鹿島順一、蛇々丸の舞台を見聞しているが、いずれも「引く演技」、そのことで次郎長や駒三郎を「立てる」景色になるのだが、近江飛龍は「押す演技」、その結果、周囲の風情が今一歩「際だたない」まま終幕を迎えたのではないか。いずれにせよ、「劇団」の「芸風」とは、このように異なるものなのかをまざまざと感じながら帰路についたのであった。
梅沢富美男 全曲集 2012梅沢富美男 全曲集 2012
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2022-12-25

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「恋の辻占」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年2月公演・みかわ温泉海遊亭〉
第一部・芝居の外題は「恋の辻占」。時代人情剣劇だが、そう単純な筋書ではない。主人公・宇太郎(三代目・鹿島順一)は、幼いときに母と死別、父とも生き別れになって股旅暮らしを続けていた。ある一家に草鞋を脱いだが、親分の娘・おみよ(春日舞子)に見初められ、長逗留しているところ、親分が闇討ちにあって殺された。その下手人は不明のまま、宇太郎とおみよは堅気になって所帯をもつ。一家の跡目は代貸し・時次郎(花道あきら)が継ぎ、縄張りの取り扱いは親分と兄弟分の伯父貴・勘兵衛(甲斐文太)に任されることになったが、その話がいっこうに進まない。時次郎が引き継ぎを怠っているためだ。業を煮やした勘兵衛は宇太郎夫婦が営む茶店にやってきた。「縄張りの話は、いったいどうなっているんだ」「そのことは時次郎さんに、まかせております。近いうちにたしかめておきましょう」「よろしくたのむぜ。ところで、なあ宇太よ。おめえは、死んだ兄貴の仇を討つきがあるのか」と、勘兵衛が本題を切り出した。今ではもう足を洗って堅気の暮らし、女房・おみよも「敵討ちなんてまっぴら、おまえさんにもしものことがあったら、生きてはゆけない」と言っている。宇太郎はそんな話に関わりたくなかったが、勘兵衛は執拗に煽りたてる。「お前だって、もとはヤクザ。親分の恩を忘れたわけではあるめえ。もし、証拠があって下手人が分かったら仇を討つか。まだ男の意地が残っているか」その一言で、宇太郎の義侠心が甦ったか、「たしかな証拠があるのなら、もちろん仇は討ちます!」「よしよし、それでなくっちゃ・・・」とほくそ笑みながら、勘兵衛は欣然と退場した。まもなく勘兵衛の使い(梅之枝健)が、証拠の品を届けに来る。見れば、時次郎の煙草入れ。宇太郎は、使いに「悪い冗談はよしておくんなさい。時次郎さんが下手人であるわけがない」。応じて、使い曰く「おめえさんは何にも知らねえんだ。時次郎とおみよさんは昔からいい仲、今でも時々会っているんだぜ」。その言葉を聞いて、宇太郎は冷静さを失った。止めるおみよを振り払い、病床の時次郎宅へ駆けつけると、問答無用で斬りかかる。時次郎は無抵抗、深手を負いながら「宇太さん、おめえは騙されている。下手人は勘兵衛だ。親分が闇討ちに遭った時、オレが相手と渡り合って一太刀浴びせたが逃げられた。そのときに失くしたのがこの煙草入れ、勘兵衛がそれを持っていたのなら、何よりの証拠ではないか」「なぜそれを今まで黙っていたんだ」「未練なようだが、オレは今でもおみよお嬢さんに惚れている。でもお嬢さんが惚れているのはおめえさんだ。おめえさんにもしものことがあれば、泣きを見るのはお嬢さん」「・・・・」宇太郎、絶句して立ち尽くす。そうか、親分の敵は勘兵衛か。すぐさま、勘兵衛を討ちに立ち去ろうとする宇太郎を、時次郎呼び止めて「待ってくれ。オレはもう長くない。早く止めを刺してくれ」「そんなことできるわけがない」「そうか、わかった!」、時次郎、最後の力を振り絞り、長ドスを腹に突き立てた。その一瞬、舞台の景色は凍りついたよう、泣く泣く止めを刺す宇太郎と、時次郎の舞台模様は、屏風絵のように鮮やかであった。だが、話はまだ終わらない。宇太郎、時次郎の亡骸に手を合わせ、勘兵衛のもとに駆けつける。「勘兵衛!よくも騙しやがったな。親分の敵だ、覚悟しろ!」一家子分衆との立ち回りも一段落、大詰めは宇太郎と勘兵衛の一騎打ちとなったが、しばらく渡り合ったかと思うと、意外にも勘兵衛、「待て、宇太!おめえはオレを討ってはならねえ」と自刃した。いつのまにか、そこに駆けつけたおみよと共に、呆然と立ち尽くす宇太郎・・・。勘兵衛、苦しい息の中で「この世は、因果応報。これが悪行の報いというものだ。おみよさん、オレの息が止まったら、これを宇太郎に渡しておくんなさい」と言うや否や、長ドスを首に突き刺した。「これ」とは何?おみよが確かめると、それは「お守り袋」、宇太郎が父親探しの証として肌身離さず胸に着けていた「お守り袋」と同じ仕様のものだったのだ。「おまえさん、勘兵衛さんはお父っあんだったんだよ!」「そんなはずはない」そんなことがあってなるものか、オレがこれまで探し続けたお父っつあんが、こんな野郎であっていいものか、といった戸惑い、悔しさ、情けなさ、空しさ、悲しさ、寂しさが「綯い交ぜ」になった風情を、三代目鹿島順一は、見事に描出していた。今はもう二人きりになってしまった宇太郎とおみよ、絶望的な愁嘆場で終幕となったが、さればこそ、両者の絆がいっそう固く結ばれたようにも感じられ、それかあらぬか、観客の大半が、老若男女を問わず、一様に目頭を押さえている景色が感動的であった。この芝居、「愛別離苦」を眼目とした時次郎とおみよの絡みと、「因果応報」を眼目とした勘兵衛と宇太郎の絡みが、錦のように織り込まれ、錯綜する「難曲」だが、それを斯界随一の「鹿島順一劇団」は、いとも鮮やかに演じ通した、と私は思う。就中、時次郎、勘兵衛が自刃する二つの場面は、まさに「死の美学」の極め付き、あくまでも潔く、さわやかな男たちの死に様は「世の無常」の象徴として、私の脳裏・胸裏に深く刻まれた次第である。
 第三部・舞踊ショー、甲斐文太の「安宅の松風」は、文字通り《国宝(無形文化財》級の出来栄え、それを鑑賞できたことは望外の幸せであった。
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2022-12-24

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「噂の女」》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越三光ホテル・小江戸座)
夜の部の芝居は「噂の女」。主演・春日舞子、共演・鹿島順一。配役は、「噂の女」(お千代)、その父(蛇々丸)、弟(花道あきら)、弟の嫁(春大吉)、嫁の父(梅乃枝健)、お千代の幼友達・まんちゃん(座長・鹿島順一)、村人A(三代目・虎順)、B(金太郎)、C(赤胴誠・新人)、D(生田あつみ)という面々である。時代は、明治以後、五百円が、今の百万円程度であった頃だろうか。ある村に、「噂の女」が帰ってくる。まんちゃんは「駅まで迎えに行こう」と、村人を誘うが、誰も応じない。「お千代は、十年前、村に来た旅役者と出奔し、その後、東京・浅草の淫売屋で女郎をしているというではないか。そんな不潔な女とは関わりたくない」と言う。まんちゃん「そんなことは関係ない。みんな同じこの村の仲間ではないか」村人「とんでもない。そんな女に関わるなら、お前は村八分だ」まんちゃん「村八分、結構!もともと、俺なんかは村では余計物、俺は一人でもお千代タンを迎えに行くぞ」、村人「勝手にしろ。お前はいくつになっても、足りんやっちゃ、この大馬鹿もの!」  
 やがて汽笛の響きと共に汽車が到着、まんちゃんはお千代の荷物を持って大喜び、一足先に、お千代の父宅に持参する。やがて、東京暮らしですっかり垢抜けたお千代も帰宅、父はお千代が好きだった「l揚げ豆腐」を買いに出て行った。後に残ったのは、まんちゃんとお千代の二人きり、まぶしい太陽でも見るようにまんちゃんが言う。「お千代タン、よう帰ってきてくれたなあ。オレ、ずうっと待っていたんだ」「どうして?」「だって、ずっと前から、オレ、お千代タンのこと好きだったんだもん。」「あんた、あたしが浅草でどんな商売しているか知ってるの?」「知ってるよ。男さんを喜ばす仕事だろ。みんなは、汚い、穢らわしいと言うけど、オレはそう思わない。お千代タンは、人を騙したり、傷つけたりしていない。人を喜ばす大切な仕事をしていると思うとる」「ほんとにそう思うの?」「ああ、本当だ。できれば、お千代タンと一緒に暮らしたいんだ、キーミーハ、コーコーローノ、ツーマダーカラ・・・」思わず絶句するお千代。よく見ると泣いている。「アンタ、泣イイテンノネ、オレまた何か、まずいこと言っちゃったんかな?」「そうじゃないのよ、嬉しくて涙が止まらないの」「フーン?」しばらく沈黙、意を決したようにお千代「まんちゃん!あたし、まんちゃんのお嫁さんになる!」動転するまんちゃん「何だって?今、なんて言った?」「あたし、まんちゃんのお嫁さんにしてくれる?」「そうか、オレのお嫁さんになってくれるんか。へーえ、言ってみるもんだなあ」かくて、二人の婚約は成立した。そうとなったら善は急げだ。こんな村などおさらばして、東京へ行こう。まんちゃんは小躍りして旅支度のため退場。そこへ父、帰宅、弟夫婦も野良仕事から戻ってきた。しかし、二人の表情は固い。土産を手渡そうとするお千代に弟は言い放つ。「姉ちゃん、何で帰ってきたのや。村の人たちはみんな言ってる。あんな穢らわしい女を村に入れることはできない。もし居続けるようなことがあったら村八分や。おれたち村八分になってしまうんや。姉ちゃん、それでもいいのか。はよう、この家から出て行ってくれ!」父が激高した。「お前、姉ちゃんに向かって何てことを言うんだ」弟も反駁。「隠居の身で大きな口たたくな。今はおれこそが、家の大黒柱、それに姉ちゃんは十年前、おれが病気で苦しんでいたとき、旅役者と駆け落ちしたんじゃないか!」「何だって、もういっぺん言ってみろ」「ああ何度でも言ってやる。姉ちゃんはおれたちを見捨てて、淫売女になり果てたんだ。そんな女をこの家に置いとくわけにはいかない」「よーし、お前がそこまで言うんなら、わしも黙っているわけにはいかない!」必死で止めようとするお千代を制して、父も言う。「おまえが病気の時、姉ちゃんが出て行ったのはなあ、お前が町の病院で治してもらうお金のためや。姉ちゃんは、自分の身を売ってお前の治療代を作ったんだぞ!、病気が治ったのは姉ちゃんのおかげ、それを今まで黙っていたのは、お前を心配させないためや」「・・・・」絶句する弟、「何だって!何で、今頃そんなこと言い出すんや。もう遅いわい」そこへ、弟嫁の父、登場。「やあ、お千代さん。よう帰ってきたなあ・・・。サチヨ(嫁)、もうお姉さんに御挨拶はすんだのか?」だが、その場の様子がおかしい。一同の沈痛な表情を見とって自分も沈痛になった。「やあ、困った、困った。実に困った」、「何が?」と問いかける弟に「実はな、ある人の借金の保証人になったばっかりに、五百円という大金を負わされてしまったんだ。何とかならないだろうか?」「えっ?五百円?そんなこと言われたって、見ての通りの貧乏暮らし、そんな金どこを探したってあるはずがない」弱気になる弟に、隠居の父がつっかかる。「お前、さっきなんてほざいた。この家の大黒柱じゃあなかったんか」やりとりを黙って聞いていたお千代が口を開いた。「おじさん。五百円でいいの?ここに持っているから、これを使って。これまで、身を粉にして貯めたお金よ。家に帰ってみんなの役に立てればと思って持ってきたの。私が使ったってどうせ『死に金』、おじさん達に役立ててもらえば『生きたお金』になるじゃないの」一同、呆然、弟夫婦は土下座して声が出ない。肩が小刻みに震えている。お千代、キッとして「もう、いいの。このまま浅草に帰るわ。また、あそこでもい一回、頑張って生きていこうと思います」、「待ってださい」と引き止める弟夫婦、その両手をやさしく握りながら、「あっ、そうだ!忘れていた。お父さん、あたし好きな人ができたの。あたしその人のお嫁さんになるの!」一同、驚愕。「えっ?誰の?」お千代、涼やかに、「まんちゃんよ!」すっかり、旅支度を整えたまんちゃん、踊るように再登場、舞台も客席も、笑顔の花が咲き乱れる。まんちゃん「まあ、そういうことで、お父上、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」弟嫁の父、そっとお千代に近づき「やあ、めでたい、めでたい、そういうことなら、これは私からのお祝いだ」さっきの五百円を手渡そうとする。「だって、おじさん!これは借金の返済に使うお金・・・」「なあに、心配ご無用。さっきの話は私の作り話、一芝居打ったのさ!」舞台に流れ出す、前川清の「噂の女」、まんちゃんとお千代、花道で颯爽と見得を切る。さっと振りかざした相合い傘の骨はボロボロ、破れガサがことのほか「絵」になる幕切れであった。「襤褸は着てても、心の錦、どんな花より綺麗だぜ、若いときゃ二度ない、どんとやれ、男なら、人のやれないことをやれ」、まんちゃんの心中を察して、私の心も洗われた。
 大衆演劇に共通する眼目は、「勧善懲悪」「義理人情」だが、もう一つ「人権尊重」という主題が秘められていることを見落としてはならない。「村八分」という差別観に敢然と立ち向った「まんちゃん」(余計者・与太郎)とお千代(賤業者)の行く末は?、それを決めるのは、他ならぬ私たち一人ひとりなのではないだろうか。
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2022-12-21

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「長ドス仁義」と役者の変化(へんげ)》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年3月公演・小岩湯宴ランド〉
芝居の外題は、昼の部「長ドス仁義」、夜の部「仇討ち絵巻・女装男子」。どちらの芝居も見聞済み、私は観客の反応の方に関心があったが、開幕と同時に大きな拍手、役者の退場時、また「見せ場」の随所で拍手が沸き上がる。特に、座長はじめ、どの役者の演技にも惹きつけられている様子が窺えた。「長ドス仁義」では、子分役の虎順が、主役・花道あきらに斬りかかったとき、一瞬、受けた刀身から火花が散ったかと思うほどの迫力に圧倒された。当初(昨年11月)、私は「座員寸評」を書いた(本ブログ・「劇団プロフィール」参照)が、今、読み返してみると、座員一人一人が確実に(私の期待通りに)「変化」(へんげ)しているように感じる。舞台を務める「自信」「意欲」「ひたむきさ」と「チームワーク」(総合力)が群を抜いている。花道あきらは、「力を抜く」ことによって、彼自身の「人間性」が浮き彫られ、「人情味」が倍増した。虎順の芝居もまた、南條影虎を抜き、恋川純と肩を並べようとしている。春大吉の「変化」も見事である。特に、「浜松情話」の娘役は、「身のこなし」ひとつで「心」を表現した「至芸」に他ならない。  
 今後、私が注目するのは、金太郎の「変化」である。彼は20歳で初舞台、およそ20年間舞台を務めた(かどうか詳細は不明だ)が、未だに「脇役」、遅々とした「変化」である。しかし、それこそが彼の「個性」であり、その「個性」が劇団の中で受け容れられ、必要とされているところが凄い。まさに、劇団の「実力」なのだ、と私は思う。
 新人女優だった香春香は、劇団との縁が切れたが、新たに3人の新人が入団した。彼らの活躍、「変化」に期待したい。

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2022-12-19

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「遊侠流れ笠」「関取千両幟」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年3月公演・小岩湯宴ランド〉
 芝居の外題は昼の部「遊侠流れ笠」、夜の部「関取千両幟」。「遊侠流れ笠」の主役は三代目虎順、病弱な親分(座長)の三下だが「うすのろ」のため、子分衆の中では半人前。しかし、窮地に陥った親分のために、本当に働いたのは「うすのろ」の三下だったという筋書。見せ場は、三下の「変身ぶり」だと思われるが、虎順の三下は「別人」になりすぎた。三年間の旅修業を終えたとはいえ、どこかに「うすのろ」時代の「面影」がほしい。「関取千両幟」は、大衆演劇の定番、座長の「関取」、蛇々丸の「新門辰五郎」が絶品で、抜群の出来栄えだった。芝居は、開幕直後の景色が肝腎、花道あきら、春日舞子の艶姿が効を奏したと思われる。
 舞踊ショーでは、昼の部、座長の「風雪流れ旅」、夜の部、座長の歌唱をバックに虎順が踊った「舞姿」が印象に残った。
 昼の部の幕間で耳にした客の話。「初めてのところだから、いつまでもつかしらね」「座長の歌はうまいよ、でも心がこもってないよね」「あたしたちは、毎日来ているんだから」
 小岩の客は「目が肥えている」とでもいいたげな様子だったが、「客に媚びる」劇団ばかり見ていると、そう感じるかも知れない。「人気」と「実力」は比例しない一例といえるだろう。

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2022-12-18

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居・春大吉の役割、舞踊ショーは至芸の「宝庫」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年3月公演・小岩湯宴ランド〉
芝居の外題は、昼の部「身代わり道中」、夜の部「心模様」。いずれの舞台も、すでに見聞済み。今日は、役者相互の「かかわり」(絡み合い)に注目して観た。まず、座長、誰と絡んでも面白い。次に春日舞子、誰と絡んでも面白い。つまり、どの役者も、座長、舞子との「絡み」(胸を借りる)によって、本来の「持ち味」が引き出されているのである。言い換えれば、座長、舞子が登場していない舞台、蛇々丸、花道あきら、春大吉、三代目虎順だけの舞台で、どれだけ客を惹きつけられるかが問われることになる。「身代わり道中」では、春大吉と虎順、「心模様」では蛇々丸と春大吉の「絡み」が中心、どちらにも登場するのが春大吉であるとすれば、彼の「役割」(責任)は大きい。虎順に対しては「胸を貸す」、蛇々丸に対しては「胸を借りる」(とはいえ役柄は年上、至難のことではあるが)演技が要求されるのである。「男はつらいよ」の主人公・フーテンの寅(渥美清)が、大先輩のおいちゃん(森川信)、おばちゃん(杉山とく子・テレビドラマ)、おふくろ(ミヤコ蝶々)の「胸を借りて」こそ、迫真の演技ができたことと同様に・・・。
役者の修業に終わりはない。懸命に精進している春大吉のこと、その「役割」を果たす日も遠くはないであろう。
次に、「舞踊ショー」の感想。「舞踊ショー」の眼目は、「歌謡絵巻」とでもいおうか、芝居では演じ切れなった「大衆のドラマ」(流行歌の世界)を、役者一人一人が文字通り「独り舞台」で演じるところにある。座長の舞踊(歌謡)は一級品で、特に、坂田三吉、桂春団冶、藤山寛美を踊り分ける「浪花花」、女形舞踊「おかじ」、「桂春団冶」、「俵星玄蕃」、歌唱の「北の蛍」「ああ、いい女」「無法松の一生」等々、至芸の数々を数え上げればきりがない。春日舞子の舞踊も同様、とりわけ「深川」「車屋さん」など芸者の風情は絶品、座長との相舞踊では光彩が倍増する。蛇々丸、「股旅者」「侍」「町人」等々、なんでも「器用」にこなすが、「勧進帳」「忠臣蔵」のような長編歌謡(浪曲)を踊らせたら天下一品、右に出る者はいないであろう。以下、花道あきら、春大吉、三代目虎順、梅乃枝健、いずれの舞踊も、他の劇団と比べて遜色ない。今後は、それぞれの役者が、「自分しかできない」舞踊を追求すべきだと思う。柏公演では、客のカラオケで踊る試みを取り入れたが、その企画は素晴らしい。客と一体になって舞台を作ろうとする姿勢は貴重である。三十年前、「梅澤武生劇団」が客の舞踊を舞台に取り入れたことがあった。その演目は「チャンチキおけさ」(三波春夫)、役者以上に踊りこなした姿は、今でも私の眼に焼き付いて離れない。聴いただけでは「どれだけのもん?」と思われる流行歌でも、舞踊が加わることによって、全く別の歌に「変身」してしまうのである。そのような舞台を、「鹿島劇団」にも期待する。客が選曲(歌唱)し、「御所望」の役者が踊る、というような企画が定着すれば、「舞踊ショー」の内容は、より魅力的なものになるだろう。柏では、見事に、虎順がその役割を果たした(「人生桜」)。その姿も、私の眼に焼き付いている。客は、鑑賞者であると同時に批評家でもある。役者の個性を当人以上に「見抜いている」。時には、客の「いいなり」になって自分を磨くこと、それも必要不可欠な「役者修業」ではないだろうか。どの「劇団」の「舞踊ショー」でも、鳥羽一郎、大月みやこ、林あさ美、堀内孝雄、吉幾三、島津亜矢、神野美伽、氷川きよし、天童よしみ等々、聴いただけでは「どれだけのもん?」と思われる流行歌で溢れている。それを「えっ?こんな名曲があったのか!」と感じるまでに「変身」させた舞踊には久しく出会わないが、虎順の「忠義桜」などを観てしまうと、「鹿島劇団」なら「やってくれるのではないか」と、秘かに期待しているのである。

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2022-12-17

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「情け川」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年3月公演・小岩湯宴ランド〉
芝居の外題は、昼の部「月夜の一文銭」、夜の部「情け川」。前者は、「勧善懲悪」を眼目としたスリ三人組の話、大衆演劇の定番。後者は、初めて見る人情喜劇(現代劇)、座長(婆さん役)の、博多弁が「立て板に水」、蛇々丸(大工)の東京弁との「対比」が面白かったが、話の中に出てくる「良子」が実際には登場しないので、物足りなかった。とはいえ、出来栄えは「水準」以上、昼夜「大入り」の客は「それなりに」満足したに違いない。舞踊ショーは、昼の部、座長の「花と龍」「瓦版売り」(忠臣蔵・清水一角と中山安兵衛の話)、夜の部「安宅の松風」(富樫・弁慶・義経の踊りわけ)は「至芸」そのもの、まことに幸運だった。昼の部の口上で、花道あきらが、「おかげさまで、今日は大入りを頂きました。今日は何か(ランドの催しが)あるんですか?」と客に尋ねていてが、客の入りなど「歯牙にもかけぬ」座長の姿勢が座員にも浸透している様子が窺え、さわやかな印象を受けた。また、座員の舞踊衣装も「相変わらず」(いつも目にする、お馴染みの代物)だが、「芸」そのものは着実に「変化」している。衣装の豪華さ、着物の多さを「目玉」にしている劇団が多い中で、まさに「劇団・火の車」だが、その不足を「芸」の力で補おうとする誠実な姿勢(襤褸は着てても心の錦)に脱帽したい。

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2022-12-16

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「木曽節三度笠」「心模様」・三代目虎順の課題》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年3月公演・川崎大島劇場〉                                       JR川崎駅から大師行きバスに乗り、追分停留所で下車、徒歩3分程度で「大島劇場」に着く。午後1時から大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。座長の話では3月で「関東公演」は終わり、ということだったので、4月からは地元(関西)に帰るのかと思いきや、「演劇グラフ」の公演予定を見ると「えびす座」(福島県)となっている。なるほど「関東公演」は終わりだが、またもや「東北公演」が始まるということではないか、ならいっそうのこと、青森、新潟を回って再び「東京」(浅草または十条)を目指せばよい。先月の水戸ラドン温泉と違って、大島劇場は小さな、小さな芝居小屋、50人も入れば桟敷が一杯になるような「狭さ」、これまで見聞した劇団の中では「橘小竜丸劇団」だけが「大入満員」であった。今日は、初日の日曜日、開場1時間前に到着したが、先客はまだ1人、どうなることやらと案じられたが、「産むが易し」、開幕前の客数は30人を超えていた。芝居の外題は「木曽節三度笠」。筋書は大衆演劇の定番、ある大店の兄(花道あきら)と弟(三代目虎順)が、使用人(?)の娘(生田春美)を争奪しあうというお話。実はこの弟、兄とは腹違いで、今は亡き大店の主人(兄の父)の後妻になった母(春日舞子)の連れ子であった。行き倒れ寸前の所を母子共、大店の主人に助けられ、今は兄弟で大店を継いでいる様子・・・。弟は娘と「相思相愛」だったが、兄が横恋慕、弟は母の進言に従って娘をあきらめる覚悟、でも娘は応じない。兄は強引にも娘と「逢瀬」を楽しもうとして、土地のヤクザ(親分・座長、子分・蛇々丸、春大吉、梅之枝健、春夏悠生、赤銅誠)にからまれた。その場に「偶然居合わせた」弟、兄・娘を守ろうとして子分の一人(たこの八・春夏悠生)を殺害、やむなく「旅に出る」。そして1年後(あるいは数年後)、ヤクザの「股旅姿」がすっかり板についた弟(実はナントカの喜太郎)が帰宅、土地のヤクザに脅されていた母、兄・娘を窮地から救い出して一件落着。「時代人情剣劇」と銘打ってはいるが、眼目は、亡き主人にお世話になった母子の「義理」と、親子の「情愛」を描いた「人情芝居」で、三代目虎順の「所作」「表情」が一段と「冴えわたってきた」ように感じる。「口跡」は、まだ単調、「力みすぎ」が目立つので、「力を抜いてメリハリをつけること」が課題である。
 夜の部も客数は30人、芝居の外題は「心模様」。蛇々丸の兄(医者)と前科者の弟(三代目虎順)が「絡む」、「近代(明治)人情喜劇」とでもいえようか。まさに、直情径行で純粋無垢な性格、それでいて「刑務所帰り」という「下品」な風情を、虎順が「初々しく」しかも「鮮やかに」「品よく」描出していたように思う。三代目虎順は、いずれは座長、そのための器(素質)は十分、その「芽生え」を感じさせる舞台ではあった。もう一つ、「口跡」の魅力が加われば、座長への道が早まるだろう。「鹿島劇団」の《売り》は、何と言っても「音響効果」、「見ての美しさ」同様に「聞いての美しさ」を追求していることである。役者は「顔かたち」を衣装・化粧で「飾る」ように、「自分の声」(口跡)も飾らなければならない。「いい声」「魅力的な声」もまた役者の「命」なのである。三代目虎順の「口跡」は、まだ単調、合格点をつけられるのは「春木の女」の「お妙」くらいか・・・。同世代の恋川純、橘龍丸には「水をあけられている」。「所作」「表情」同様に「口跡」の魅力を体得することが、虎順当面の課題だと、私は思う。

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2022-12-15

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《蛇々丸はいずこへ・・・》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年3月公演・川崎大島劇場〉                                  第一部ミニショーの幕が開いたが、皮切りは花道あきら、春大吉、三代目虎順の組舞踊、次は座長、次は梅之枝健・・・、いつまで待っても蛇々丸が登場しない。私は「いやな予感」がした。蛇々丸が脱けた?いや、いや、そんなはずはない。彼は、座長の右腕、若手のリーダー、虎順の後見として「なくてはならない存在」であるはずだ。だが、待てよ。そういえば、ここは川崎。昨年、金太郎が脱けたのも当地ではなかったか?そんなことに気をとられて、心底から舞台を楽しめない。役者の姿・表情に「異変」はない。いつも以上の出来映えなのに、一抹の「寂しさ」「不安」を感じてしまうのは私ばかりであろうか。
 芝居の外題は「花の喧嘩状」、なるほど蛇々丸がいなくても足りる演目であり、座長の敵役、虎順の直向きな風情がいっそう冴え渡るのに、「蛇々丸が脱けた。・・・なぜ?」という思いが間断なくわき起こり、「とてもじゃないけど」舞台に集中できなかった、というのが偽らざる感想である。今日はよい、今はよい。でも「アヒルの子は?」「三人芝居は?」「春木の女は?」「会津の小鉄は?」蛇々丸「抜き」の舞台など考えられないではないか。
 第三部歌謡舞踊ショー、座長を筆頭に「全身全霊」を込めた舞台に不足はない。とりわけ、座長の舞踊「花と竜」、歌唱「蟹工船」「恋あざみ」を見聞できたことは望外の幸せであった。でも、でも・・・なのである。蛇々丸が登場しなければ、他の座員が輝かない。蛇々丸の存在が、他の役者の「芸」を引き立てている、蛇々丸の「穴」は蛇々丸しか埋めることはできない、ということを思い知らされた。そのことは他の誰に対してもいえることであり、要するに、この劇団の座員一人一人は「全員が、お互いを必要としている」「お互いがお互いの芸を響き合わせてている」、まさに「交響劇」の担い手に他ならないのである。
 蛇々丸はいずこへ・・・?、絶望的な(泣き出したい)気分で帰宅。だがしかし、である。彼のホームページを閲覧して狂喜・安堵した。なんと今日から兄弟(近江新之助)の劇団の応援に「松山劇場」に「車で」出張だったとか・・・。よかった、よかった。大衆演劇界の至宝「鹿島順一劇団」は、(当分?)健在であることは確かなようである。

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2022-12-13

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「浮世人情比べ」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年6月公演・大井川娯楽センター〉
芝居の外題は「浮世人情比べ」。この演目は、近年、まったく上演することがなかったので、いわば「初演」と変わらない由、座員一同はすこぶる緊張気味とのことであったが、その出来栄えは、まさに「極上品」、また一つ「鹿島順一劇団」の「十八番」が増えた感がある。筋書きは、大衆演劇の「定番」で、他の劇団も数多く舞台に乗せているが、その出来栄えにおいては、他の追随を許さない、見事な舞台模様であった、と私は思う。京都・大原の山中で炭焼きを営んでいる兄・末松(座長・三代目鹿島順一)とその妹・お花(幼紅葉)の物語である。お花が自宅の玄関先で縫い物をしていると、京都で指折りの大店・エリショウの若旦那・庄太郎(甲斐文太)と手代・菊次郎(赤胴誠)がやってくる。山中で道に迷い、疲れ果てた若旦那が「水が飲みたい、あの家で調達するように」と、菊次郎に言いつけた。この若旦那、見るからに「バカ旦那」然とした風情で、わがままで世間知らず、手代を「道具」のように酷使する。手代も手代で、こき使われながらちゃっかりと「先に水をのんでしまう」したたかな風情が可愛らしく、なんとも魅力的な舞台姿であった。まさに、師匠と愛弟子が「五分に渡り合う」、その「絡み具合」が絶妙で、入門当時の赤胴誠を知っている私は、涙が止まらなかった。彼にとって今は「正念場」、かつては蛇々丸?、春大吉?、藤千之丞?(誰でもよい)、大先輩が演じていたであろう「大役」に果敢に挑戦する、その意欲、気概が、観る人(私)を感動させるのである。菊次郎は、玄関先のお花を見て「一目ぼれ」、だがそのことはおくびにも出さず、遅ればせながらもお花を見初めた庄太郎のために、「仲人役」を甘受する。その初々しく健気な景色は、「赤胴ならでは」(キョトンとした純情らしさ)の空気を醸し出す。また、この場の冒頭では、炭屋の使用人に扮した名脇役・梅之枝健が(チョイ役のお手本を見せるかのように)滝裕二を(仕入れに)引き連れて登場、ここが「京都・大原三千院界隈」であるという空気を漂わせる。また、滝裕二が「ことの他」(鄙にも稀な)お花(の様子)に関心を寄せている風情も鮮やかで、そのことでお花の可憐な姿がより際立つという趣向が心憎い。さらには、兄・末松の「実直な」男ぶりもお見事、通常なら「老け役」で対応するところだが、三代目鹿島順一、その初々しさに「渋さ」も加わって、文字通り「惚れ惚れするような」舞台姿であった。大詰めは、大店エリショーの大広間であろうか、冒頭で、番頭(?)役・花道あきらが、丁稚・見習い(?)の新人・壬剣天音に、座布団の敷き方を伝授しながら、若旦那の行状に呆れ果てている様子が面白かった。一見「なげやり」のような場面だが、実は、その「絡み」を通して、先輩の花道あきらが、新人の壬剣天音に、それとなく舞台での立ち位置、歩き方、姿勢、科白回し・・・等などを指導しているのだろう。少しでも「場数を踏ませようとする」楽屋うちの温かい配慮が感じられて頼もしかった。続いて庄太郎の母親・おきん(春日舞子)登場、女中(春夏悠生)の尻を追い回しながら出てくる「バカ息子」に困惑しながらも、目を細めて眺めている「親バカ」振りが堂に入っていた。庄太郎は公家のマネをして白塗りの化粧、袴は足を通さずに穿く、といった「ていたらく」であったが、おきんは、かいがいしく介助する。「よくできた、おまえはホントにお利口さんだね」という言い種が、今様のモンスターペアレント張りで、たいそうおもしろかった。待つほどに、炭焼きの末松登場、ひととおりの挨拶の後、いよいよ、花嫁役のお花、登場。大店の母子、固唾を呑んで待ち受けたが、その大きくバランスを欠いた「歩様」に、びっくり仰天、とたんに「縁談は破談」となった。「それでは話が違う」と激高する末松、あわてて菊次郎が飛び出し、「お待ち下さい、若旦さん、どうかお花はんをお嫁に・・・」と懇願するが、おきんいわく「何をいってるのや、庄太郎は世間知らず、手代のお前が、よく調べもせずに話を進めるから、こんなに話がややこしくなるんや。お前は、いわば「仲人」、石橋を叩いて渡らなければならん時に・・・」。菊次郎、庄太郎に向かっていわく「若旦さん、あの時、『ぜひ話をつけろ』と仰ったやおまへんか」と迫るが、庄太郎、文字通り「バカ旦那」然としていわく、「何をいうのや、お前はナマコ・・・」おきん「違う違う、ナコウドや」「え?なんやて」「ナ!、コ!、ウ!、ド!」と口移しする。その様子に、菊次郎、いや赤銅誠、顔が上げられない。体裁は「泣いて」いるのだが、心は「笑いを懸命に堪えている)。かまわず庄太郎、「そうやナ・コ・ウ・ドや、いいか、お前はワリバシを叩いて渡らなあかん・・・」おきん制して「違う、違う、イシバシや!」「そうや、イシバシの穴に落っこちるんや・・・」といった、母・子(実は夫婦の舞子・文太)の「絡み」は抱腹絶倒の連続で、客席は大笑い、菊次郎は最後まで顔を上げられなかった。大店の切り盛りを一手に引き受け、息子に対しては「溺愛の極地」、他人に対しては「胴欲極まりない」といった(金持ちならではの)風情の描出は、まさに春日舞子の独壇場であった。かくて、菊次郎はその場で即刻クビ、うつむいたまま、静かに前掛けをはずして、丁寧にたたむ姿が、ことのほか「絵」になっていた。一方、その様子を観ている末松とお花、全くの無表情で「冷たい視線」を送るだけ、その見事なコントラストに、私は身震いするほどの感動を覚えた。片方では、大爆笑の喜劇が演じられ、片方では「コケにされた」兄妹の「悲劇が展開する。妹のお花、庄太郎に向かっていわく「若旦那様、私のような者を(一時でも)気に入ってくださってうれしゅうございました。お花は淋しく大原に帰ります。秋になり、奥山で鹿の鳴く声が聞こえましたら、私の泣き声だと思ってくださいねえ・・・」と泣き伏す。客席からは、割れるような拍手。庄太郎、瞬時、その心に打たれたかの気配もあったが、「否、否!」と頭を振って応じない。「さあ、こんなところに何時までもいられない、大原に帰ろう」とする末松に向かって、菊次郎、渾身の一声、「待って下さい、お兄さん!」「何だって?あんたにお兄さんと呼ばれる筋合いはない」と突っぱねたが、「お兄さんにお願いがあります、どうかお花はんを私のお嫁にしてください!」と言い放った。菊次郎は(今度は本当に)泣いている。その眼、涙を見て末松は、心底から納得、お花も承知とあって、この(貧乏人同士の)「縁談」は成立した。庄太郎とおきん、その様子を見て「嘲笑」する。「菊次郎もバカなやつだ。あんな娘を嫁にするなんて」「ホントにそうだ、そうだ」。末松、「では三人で大原に(走って)帰ろう。お祝いだ。菊次郎さん、お花の手をとってください。ここら当たりをぐるっと回って帰りましょう」。お花立ちあがって、菊次郎が手をとる。おそるおそる歩き出した二人、だが、その様子を見て、庄太郎とおきん「・・・・?、・・・・?」、今度は言葉を失った。お花の歩き方に何の異状もなかったのである。あわてて、「待ってください、お花さんはどこも悪くないようだが・・・」と呼びとめるおきんに向かって、末松いわく「あたりめえだ、お花の仕事は、都で花を売り歩く『大原女』さ。人を見た目で判断するようなおまえさんたちに、大事な妹をやれるもんか!どうやら金持ちと貧乏人の『人情比べ』は、あっしたちに分があったようですね」。その「決めぜりふ」を残して颯爽と花道に消える三代目・鹿島順一の姿は「天下一品」であった。大店の若旦那、その母親は、あっけにとられたまま、あえない閉幕となったが、観客の多くが「涙していた」ことを、私は見逃さない。芝居の景色は「時代人情喜劇」と銘打ってはいるが、眼目はあくまでも「弱者への共感」、炭焼きの兄妹、手代・菊次郎の「舞台姿」が、一際「絵になっていた」からであろう。閉幕後の喫煙室、白髪の常連いわく「やあ、座長は素晴らしい。あの若さでこんな芝居ができるなんて・・・。歌舞伎役者だって及ばない。これから年数を重ねれば、親父以上の役者になることは間違いネエズラヨ」。おっしゃるとおり、座長はもちろん素晴らしかった。加えて、赤胴誠も素晴らしかった。幼紅葉も素晴らしかった。滝裕二も素晴らしかった。春夏悠生も素晴らしかった。壬生天音も素晴らしかった。それを支えているのが、甲斐文太、春日舞子、梅之枝健、花道あきらの「実力」に他ならないことをあらためて確認、今日もまた大きな元気をいただいて帰路に就いた次第である。
【追記】舞踊ショーで、新人・壬剣天音(15歳)の初舞台を観た。演目は「雨の田原坂」(作詞・野村俊夫、作曲・古賀政男)、この名曲をデビュー作に選んだことは申し分ない。歌手は市丸(気高く)?、それとも神楽坂はん子(情感豊かに)?、いずれでもよい。敗色の濃い戦場で、必死に闘う「散るも覚悟の美少年」の姿が彷彿とする。天候は「雨」、場所は「坂」「城山」、登場するのは「傷ついた友」そして「馬」、右手に血刀を持ち、髪は乱れているが、口を一文字に結んだ美少年の姿を、どのように描出するか・・・。演奏時間は3分余り、その中に渾身の血を込めて、「西南の役」という歴史ドラマ(の一コマ)を創り出せるかどうか。御贔屓筋の話では「回を増す毎に上達して、涙が止まらない」とのこと、立派だと思う。
今日の舞台、視線がしっかりと定まっているところがよかった。基本通りの「振り付け」を忠実に守り、稽古・精進を重ねれば、おのずと「姿」「形」が「絵になってくる」(腰が決まってくる)ことは間違いないだろう。折り紙にたとえれば、まだ「奴さん」レベルだが、その「折り目」がキチッとしていることに好感がもてた。師・三代目鹿島順一の舞踊「忠義ざくら」は「国宝」レベル、その舞姿を目指して、この作物を極めていただきたい。
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