META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 脱「テレビ」宣言
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2023-02-26

検証・珠玉のコマーシャル

 テレビ番組、とりわけコマーシャルには醜悪な画像が満ちあふれている。コマーシャルの値段は1本15秒で15万円(×視聴率)といわれている。仮に視聴率10%番組のコマーシャルは1秒あたり1000円という計算になる。そこでそれを支払うスポンサー(並びに制作担当者たち)は、その15秒間に可能な限り多くの情報を盛り込もうとする。関心をひくための音響のみならず、画像も点滅、早送りなどなど様々な技術を駆使して、ただひたすら「見せること」「聞かせる」ことに腐心しているようだ。視聴者は、それらの情報を「浴びる」ことによって、本来の感性を蝕まれていくことについては、すでに述べた。(「テレビの大罪・コマーシャル参照) 
 そんな折り、従来のコマーシャルとは一線を画す、珠玉のコマーシャルが存在する。大和証券の「プレイング・フォー・チェンジ」(音楽は世界をひとつにする)である。文字通り、世界各地の路上で、一つの曲を、一人一人のミュージシャンが歌い、奏でる場面を繋ぐだけの画像に過ぎない。商品の紹介、宣伝などは一切ない。そのシンプルな内容に私は惹かれるのである。コマーシャルの本道は、良質な番組を提供することである。おのれの存在(自己主張)はあくまで控え、ひたすら(人類の)文化の向上に徹する姿勢こそが、今、スポンサーに求められているのではないだろうか。(2017.8.6)



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2023-02-25

検証・掘り出し番組・《ドラマ「禁断の実は満月に輝く」(NHK)》

「禁断の実は満月に輝く」(NHK)というテレビドラマを観た。そのあらすじは以下の通りである。(ネットサイト「まんたんウェブ」より引用)
 ◆「ダウン症のイケメン」を自負する主人公・光司(略)はある日、自分の障害が原因で大好きな兄の結婚が中止になったと知り、ショックを受ける。そこで障害を治そうと、統合失調症の真(略)と食べると障害が治る代わりに記憶を失うという「禁断の実」を求めて旅に出る。その実がなるという村にたどり着いた二人は、実が熟するまでの3日間を過ごす宿泊先の民宿で四肢欠損の娘・真由子(略)を見つける。真由子は、父である民宿の主人・那須(略)が、障害を隠すために外出を禁じられていた。真由子に一目ぼれした光司は外へと誘い出す。一方、親から「こんなこともできないのか」と言われ続けてきたことがトラウマとなっていた真は、那須の母で、認知症の駒子の手伝いをして感謝されたことから、自信をつけていく。そして「禁断の実」が熟すという3日目の夜がやってくる……というストーリー。
 このドラマには、①「ダウン症」、②「統合失調症」、③「身体障害(四肢欠損)」④「認知症」と呼ばれる人物が登場する。①②③はいずれも、そう呼ばれる当事者が演じるという趣向で、文字通り「迫真のドラマ」に仕上がっていた、と私は思う。脚本を書いた桑原亮子も「聴覚障害」、〈障害をもってから、人と関わることが少し苦手になりました。相手に迷惑がられるのではないか、同情の目で見られるのではないか、そう思うと、新しく人と出会うのが怖くなるのです。ですが、人は互いに触れ合ったりぶつかったりしながら、少しずつ強くなっていくものだと思います。そのためには、いつまでも居心地のいい場所にいるわけにはいかない。そんな巣立ちを、このドラマで描いたつもりです。〉(NHK・オンラインより引用)というメッセージを寄せている。
 このドラマの眼目は、「親子関係のあり方」とされているが、私自身はタイトルにある「禁断の実」(のあり方)の方に、興味をそそられた。「禁断の実」とは、「食べると障害が治る代わりに記憶を失う」という効能をもっている。ダウン症の幸司は、兄の結婚が成就するために自分の障害を治したい。しかし、それを食べれば記憶を失い「自分は自分でなくなる」とう副作用を伴うのだ。それは過去の清算であり、これまでの自分自身を「全否定」、つまり「死」を意味する。つまり、「兄のために自分は死んでもよい」と幸司は思っている。本当にそれでいいのか、友人の真は心配するが、そんな折も折り、幸司の前に美しいマドンナ・真由子(の顔)が現れた。幸司は、たちまち「一目惚れ」、イケメンの面目躍如で積極的にアタックする。やがて真由子は(四肢欠損の)全貌を露わにしたが、幸司は「動じることなく」彼女をデートに誘い出す。その強靱な、温かい「感性」こそがこのドラマの核心である、と私は思った。やがて、「禁断の実」が輝く満月の夜がやってきた。幸司と真はその実を採りに山に入るが、見つからない。さもありなん、その実はすでに民宿の主人、真由子の父がゲットしていたのだから。幸司と真が民宿に戻ると、「イヤだ、イヤだヨー」という真由子の叫び声が聞こえる。見れば、「禁断の実」を食べさせようとする父、きっぱりと拒否する娘の「修羅場」であった。幸司、たまらず駆け込んで、父からその実を奪い取ると、庭の暗闇に向かって放り棄てた。この瞬間、すべては終わり、新しい「すべて」が始まったのである。「今のままでいい」「今のままがいい」と泣きじゃくる真由子の姿には、これまでの俗情を払拭する、清々しいオーラ(仏性)が漂っているように、私は感じた。 
 民宿の主人・真由子の父親役を演じた神戸浩の演技も輝いていた。「障害児」と呼ばれる愛娘を慈しむがゆえに、「治したい」「治ってくれ」と、逸る気持ちを抑えられない。わが子に「障害」を負わせてしまった苦渋と悔恨、それが真由子の言霊によって浄化される有様は、アップになった号泣の映像の中に、見事に結実化していた、と私は思う。彼自身もまた、ポリオ罹患者と聞く。その独特の口跡が、たいそう魅力的であった。
 このドラマの舞台は、バリバラ(バリアフリー・バラエティー)劇場、スタッフ、キャストの一同が、「禁断の実」の誘惑を「投げ捨てて」、「障害」という俗情と果敢に闘う姿は、多くの俗流番組を凌駕している。敬意を表し、今後ますますの発展をお祈りする。(2015.12.6)



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2023-02-24

検証・掘り出し番組・《「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)》

 午後8時から、NHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」という番組を視ていたら、以下のような場面があった。場所は福島県三春町の農家、鶴瓶が訪れた居間の奥に、百歳の女性が寝ている。鶴瓶は、その女性の枕元まで行き「鶴瓶と申します。突然おじゃまします。NHKの番組で、皆さんのお話を聞かせてもらおうとやって来ました。騒々しくなりますが、御承知ください」というような「話しかけ」をした。女性は「了解」の表情で応えた由。その場は「それだけの話」で終わったのだが、後日談。件の女性は、これまで、ベットでの、いわば「寝たきり」の生活であったが、鶴瓶の「話しかけ」以後は、車椅子に乗ってベットから「離れる」ことができるようになったそうな・・・。事実、家族一同、庭に出ての記念写真が「何よりの証し」であった。百歳女性の、そのような「劇的変化」に同居家族はもとより、番組スタッフまで「驚嘆しきり」といった風情であったが、特別「驚くことはない」、その変化は「至極あたりまえのなりゆき」である、と私は思う。なぜ、そのような変化が生じたか。答は簡単である。鶴瓶が、その女性を「家族の最年長者」として尊重、彼女の存在価値・存在理由(存命していること)に、十分な「敬意」を表したからである。女性は思ったに違いない。「生きていてよかった。まだ私だって必要とされている」。その《はりあい》《充実感》が、「もっと頑張らなければいけない、ただベットで《お迎えを待っている》なんてもったいない。生きている世界を拡げよう。家族を励まそう」という《使命感》に高まったのではないだろうか。
 高齢化社会で大切なことはただ一点、社会全体が「高齢者を必要」とすることができるか(厄介者扱いしないか)、高齢者自身が「生きていることの《はりあい》」を感じることができるかどうか、ということであろう。その定理を証明するのには恰好の番組内容であったように、私は思う。(2009.10.26)



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2023-02-23

検証・掘り出し番組・《「こころの遺伝子・白石康次郞」(NHK)》

午後10時からNHKテレビ「こころの遺伝子・第8回 自然に遊ばせてもらう 白石康次郎 運命の人:多田雄幸さん」を観た。ヨットでの世界一周をめざす冒険家師弟の物語であった。番組のホームページには〈わずか6歳で母を亡くした白石さんは、父としばしば出かけた海にあこがれを抱くようになる。そして「いつか海の向こうに行ってみたい」と水産高校に進学。授業を通して海の厳しさ、過酷さを体感していた。そんな白石さんはある日、テレビの映像に目を奪われる。多田雄幸さんが単独で世界一周のヨットレースに参加し、優勝したことを伝えるニュースだった。航海の厳しさを知る白石さんは、お酒を飲み、サックスを吹きながら愉快に世界を周った多田さんのレーススタイルに衝撃を受ける。多田さんの弟子になりたいと考えた白石さんは、電話番号帳で多田さんの電話番号を調べ電話をかけた。すると多田さんは、見知らぬ白石さんの訪問をすんなりと承諾。白石さんはあこがれの多田さんと会い、弟子にしてほしいと頼む。弟子入りがかなった白石さんは初めて多田さんのヨットに乗り、舵を持たせてもらう。多田さんはどんな悪天候でもセーリングを楽しみ、「自然に遊ばせてもらう」と口癖のように繰り返していた。当時はその意味を理解できなかった白石さんだったが、この言葉は後に“こころの遺伝子”となっていく〉と紹介されている。たった独り「海の中」、自然と闘うのではなく「遊ばせてもらう」といった心境で世界一周を果たすなどということは、並みの「精神力」でできることではないだろう。その「こころの遺伝子」は、弟子の白石さんに「着実に」引き継がれ、白石さんもまた、〈3度目の挑戦で当時の最年少記録、26歳10か月でついに世界一周を達成〉〈その後、世界一周レースに2度出場し、大型クラスで日本人で初めての2位の快挙を収めた〉そうである。まことに、素晴らしい「師弟物語」だと、私は思う。だがしかし・・・、である。その物語に以下のような「事実」があるとすれば、喜んでばかりはいられない。〈最初の優勝から7年後の1990年、多田さんはスポンサーから多額の資金を得て、再び世界一周に挑戦。しかし、前回の好成績から周囲の期待が高まり、そのプレッシャーに苦しんでいた。スピードを出すための改造が裏目に出て、ヨットは何度も横転。多田さんを寄港地シドニーで待ち受けていた白石さんは、いつもと違う疲れた師匠の様子に気づく。多田さんはシドニーでレースを棄権。そして自らの命を絶ってしまう・・・。〉世俗の「名誉」「名声」とは無縁であったはずの多田さんを苦しませたものは何か。自然と闘うのではなく「遊ばせてもらう」といった、いわば「悟りの境地」(強靭な精神力)は、「スピード」「好成績」「優勝」などといった修羅場の「ものさし」によって、もろくも崩れ去ってしまったのだろうか。白石さんは、〈今は2012年のレースを目指し、その準備を進めている〉とのこと、師匠が被った「同様の」プレッシャー、苦しみが襲来することは必定であろう。どうか、「名誉」「名声」を目指す世俗の期待とは無縁のところで、「自然に遊ばせてもらう」、「気まま」で「自由」なレースを展開していただきたい。「最下位」「棄権」「失格」等など、不名誉な結果に終わることこそ、師匠が果たせなかった「こころの遺伝子」を、立派に受け継いだ「証」になるのだから。(2010.5.17)



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2023-02-22

検証・掘り出し番組・《ドラマ・「被取締役新入社員」(TBS)》

午後9時からTBSテレビ「被取締役(取り締まられ役)新入社員」視聴。採用試験で最も成績の悪かった若者が、意外にも(役員待遇で)「合格」、仕事の内容は「ヘマをすること」「チームに迷惑をかけること」だという。会長のもくろみでは、自分のことばかり考えて連帯しようとしない(お互いに足を引っ張り合っている)「課員」たちの中に「超一流のダメ人間」を入れれば、まず①課員の「自尊心」が満たされる、②「課」の名誉のために「ヘマ」「ミス」を修復しようとする、③その結果、本当のチームワークが生まれるのではないか、ということであった。入社当日から、若者は「ヘマ」を繰り返し、課員たちは「てんやわんや」の有様で、その対応に追われる。事態は、会長の思惑通りに展開、その「ヘマ」が「怪我の功名」になる「おまけ」もあって、「課」の業績は、うなぎ昇りに向上した。「課」(チーム)は、「いじめ撲滅・教育広告」のコンテストに応募、若者の体験をヒントにした「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピーを考案、自信満々で会場に臨んだが、またまた、若者の「ヘマ」で落選、チームの努力は水泡に帰した。若者は耐えられず辞表を出すが、課員のまなざしはどこか温かい。会長の評価によれば、「課」のチームワークは盤石になり、もう心配ないという。そしてつぶやく。「君は超一流のダメ人間だが、そのダメがチームワークを育てたのだから、チームワーク以上の『価値』があるのではないだろうか」あいさつを終えて退社する若者に向かい、「君は我が社にとってまだまだ必要、今度は他の課(名古屋)に行って『もうひと働き』してもらう」と、宣った。困惑する若者、とまどいながら名古屋の社屋に入ろうとする場面でエンディング・・・。
 ドラマの眼目は「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピー、「ダメというところに『価値』がある」という理念であろう。競争社会の勝者は、敗者の存在を前提にしている。敗者がいなければ、勝者は存在できないのだ。つまり勝者にとって、敗者は「必要不可欠」な「価値」をもっていることになる。とはいえ、その「価値」が「かけがえのないもの」として評価されることは稀有である。それゆえ、このドラマもまた稀有な作物として評価されてよい、と私は思った。(2008.3.31)



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2023-02-21

検証・掘り出し番組・《「64年、許されぬ痛み・長崎被爆者・永野悦子」(NHKラジオ深夜便)》

 午前1時から、「ラジオ深夜便」(NHK)〈インタビュー「64年、許されぬ痛み」長崎被爆者・永野悦子〉を聴いた。永野氏は現在80歳、長崎被爆体験の「語り部」として、その悲惨な実態(この世の生き地獄)を中・高校生、若者たちに語り伝えているとのことであったが、タイトルにある「許されぬ痛み」とは何か。昭和20年8月、永野氏が16歳の時、鹿児島に疎開していた9歳の弟、13歳の妹を、長崎に「連れ戻し」に行った。二人とも長崎には戻りたくない、母親も「本人の希望に任せて」と言っていたのに、自分一人の判断で、強引に「連れ戻して」しまった。その結果、家族全員が被爆、弟は翌日、妹は1か月後に「死んでしまった」のである。もし、自分が連れ戻さなかったら、弟妹は死ななくてすんだのではないか。いや、絶対に死ななかったはずである。自分一人の判断で、弟妹を殺してしまったも同然だ。そう思うと、自分を許すことができない。父親も、二人の後を追うように他界、後には母親と自分だけが残された。母親の落胆、嘆きはいかばかりであろうか。でも母親は私を責めない。そのことが苦しくて家を飛び出したこともあった。母親は狂ったように自分を捜し回った由、やむなく帰宅して二人だけの生活が始まったが・・・。以来、64年、一日として弟妹に「ごめんね」と謝らない日はなかった。その日々こそが「許されぬ痛み」に他ならない。
 長崎被爆体験の語り部・永野悦子氏は、自分自身を「許せない」。でも、私は許せる。何があってもおかしくない戦時下、家族そろって暮らしたいという思いは当然至極、まさか長崎に原子爆弾が落とされるなんて、誰が想定できたであろうか。許せないのは、原子爆弾を投下した者である。それを命令した者である。原子爆弾を製造した者である。いたずらに降伏(敗北宣言)を引き延ばし、「一億玉砕」「一億特攻」などと、できもせぬ「世迷い言」をほざき続けた「職業軍人」である。おのれの考えを「正しい」と信じ込み、「問答無用」で反論(反抗)者を抹殺しようとした「テロリスト」である。
 ところで、彼女の「語り」を聴いた若者たちの反応は如何?64年に亘って、「(自分を)許せぬ痛み」を感じ続けられるなんて、そのような日本人がいることをどう思う?永野氏は強調する。「だから戦争を許してはいけない」。だがしかし、その思い、その願い、その正論を、いともたやす(問答無用で)抹殺しようとする世情、風潮が蔓延しているように、私は思うのだが・・・。(2009.8.9)



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2023-02-20

検証・掘り出し番組・《「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)》

午後10時から「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)という再放送番組を観た。コンゴ民主共和国の「サプール」に関するレポートである。詳細は以下のように紹介されている。〈あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮やかなスーツに身を包みかっ歩する。彼らはサプールと呼ばれ、ひとたび現れると、人々が家々から飛び出し、喝采を送る街のヒーローだ。しかし、その正体は平均所得月2万5千円の一般の人たち。給料の半分以上を衣服につぎ込む、その情熱の正体とは!?漫才師のダイノジ・大地さんが、「着飾る」意味を探る。語り:役所広司〉(NHKネットクラブ・番組ウォッチ)
 「サプール」と呼ばれる男たちの、日々の生活は(日本と比べて)貧しい。トタン屋根のバラック小屋に住み自室は四畳半程度、しかし、そこには足の踏み場もないほどに高級ブランドの洋服、装飾品が収められている。土・日曜日になると、彼らは思い思いの衣装で自分自身を着飾り、「かっこよさ」を競い合う。しかも、その「かっこよさ」とは、相手を敬うことが大前提、決して争わない。「武器を捨て、エレガントに生きよ」という非暴力・平和主義を標榜する。見るからに屈強な男たちが、カラフルな衣装で身を固め、「見栄を切る」情景は、感動的であった。これまで、ケンカ三昧に明け暮れていた若者がサプールの師匠に弟子入りして曰く、「もうケンカはしない、服が破れてしまうよ」。そのエレガントな「服」こそが、非暴力・平和の象徴であり、人類の未来を指し示しているのだが、欧米先進国ならびにわが国の「男たち」には、似合わない。・・・なぜだろうか。(2015.2.12)



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2023-02-19

検証・掘り出し番組・《テレビドラマ「相棒」の魅力は“あわん”の呼吸》

 テレビドラマ「相棒」(テレビ朝日)の面白さは、登場人物相互の「呼吸」にある、といっても過言ではないだろう。その「呼吸」とは、まさに《阿吽》にあらず、《あわん》(合わない)の呼吸なのである。代表は、杉下右京(水谷豊)と亀山薫(寺脇康文)、一方は、細かいことが気になる「冷徹な頭脳派」、他方はアバウトな体育会系の「人情派」、周辺にも、亀山と伊丹(川原和久)、杉下と小野田(岸部一徳)、亀山と美和子(鈴木砂羽)、杉下とたまき(益戸育江)等々・・・、役者は揃っている。したがって、私の興味・関心は、もっぱら、その「呼吸の乱れ」に注がれ、肝腎の「筋書き」は、ほとんど思い出せない有様だが、ただ一本、記憶の留まる作物があった。「Season5第七話・剣聖」(監督・西山太郎)である。それも、物語とは無関係の場面、道場で亀山と伊丹が剣道の稽古をしている。亀山は「体力にものをいわせて」、果敢に「打ちかかる」が、伊丹には通じない。伊丹、頃合いを見計らって亀山を打ちのめし、一言「未熟者めが!」。それを見ていた杉下曰く「亀山君、無駄な動きが多すぎますねえ」。亀山、憤然として「ろくに稽古もしていない右京さんに言われたくねえ・・・」と(心中で)抗う。話は進んで、事件は一件落着。容疑をかけられた女流剣士・師範代ふみ(原千晶)の疑いも晴れ、亀山、ふみに向かって曰く「一つ手合わせをお願いします」。亀山、相手が女だと過信してかかったが、「腕の違い」を見せつけられて完敗した。ふみ曰く、「無駄な動きが多すぎます」。亀山、冷笑している杉山に、「一矢報いたい」と思ったか、「では、今度は右京さんにもお願いします」。杉下、慌てずに、ふみと対戦。両者、間合いを取り合っていたが、ふみが一瞬踏み込んだとき、彼女の刀は宙高く舞上げられていたのであった。杉下、最後に一言「ボクは一点集中主義ですから、その技だけを稽古していたのです」。平然としている杉下を、呆然と見つめる亀山のコントラストが鮮やかで、その光景(シーン)は今でも私の目に焼き付いている。その後、杉下右京の相棒は、神戸尊(及川光博)に交代した。この神戸も魅力的である。亀山と違って「知的な頭脳派」、さぞかし杉下とは「呼吸が合いそう」だが、そうは問屋が卸さない。「知的」ではあっても「冷徹」ではないのである。容貌は「イケメン」、文字通り「甘い」空気を漂わせているが、その「甘さ」が「青さ」となって、杉下(と)の「呼吸」を乱してしまう。その典型的事例は、「Seasonn9・第11話・聖戦」(監督・和泉聖治)に見られる。あらすじは、以下の通りである。〈消費者金融の営業担当・折原が自宅に仕掛けられた爆弾で殺害された。犯人は妻の夏実(白石美帆)と娘の旅行中を狙い、リモコンで爆弾を爆発させたらしい。容疑者として、12年前、折原のバイク事故で息子を失った寿子(南果歩)が浮上。が、夫の病死後、パートをしながら質素に暮らす寿子に爆弾など作れるとは思えない。伊丹(川原和久)らは早々に寿子を容疑者リストから外す。一方、右京(水谷豊)と尊(及川光博)は、犯人がリモコンを操作したと思われる現場で割れたビスケットを拾う。右京と尊は寿子の自宅を訪ねるが、お茶菓子に公園で拾ったものと同じビスケットが。さらに散乱する工具を確認し、右京らは寿子が犯人だと確信する。が、犯行を裏付ける証拠が見つからない・・・。やがて折原の大学時代の友人・江上が容疑者として浮上。江上の自宅から爆弾で使用された物質も発見された。右京と尊の推理は間違っていたのか、それとも寿子が想像以上の知能犯なのか・・・?〉(http://www.tv-joho.com/aibou914.htmlより引用)視聴者(私)は、誰が犯人か、知っている。冒頭の場面で、すでに「犯行現場」を目撃しているのだから。しかし、登場人物の面々は、寿子を除いて誰も知らない。捜査陣の「右往左往」を、居ながらにして楽しめる趣向である。この「手」の作物は、「刑事コロンボ」「古畑任三郎」などでお馴染みだが、とりわけ南果歩の「迫真の演技」が光っていた。息子は、幼い頃から病弱、健康を取り戻した学童期、思春期は「虐め被害」に遭って「閉じこもり」、成人して、ようやく「社会自立」(就職)の希望が見え始めた矢先、突然、命を奪われた。同時に、母・寿子の希望も絶たれ、加害者への「復讐」だけが、生きる目的になる。そのためなら何でもする。誰も怖くない。と、いった(独りよがりの)「母性」が、杉下と神戸を手こずらせる。その駆け引きを、杉下は「ゲーム」と評したが、寿子は、「ゲーム(遊び)なんかではない、『聖戦』だ!」と宣った。やがて、業を煮やした神戸が「単独行動」に出る。事件の被害者・夏美と寿子を「直接対決」させたのだ。場所は寿子が働く食堂、客を装った夏美が、執拗に絡みつく。もみ合った拍子に盗聴器が転げ落ちた。それを拾った寿子、スイッチを切り、夏美を抱き寄せ、(魔女のように)耳元で囁いた。「最高の気分よ。アンタの旦那、バラバラにしてやった」。その勝ち誇った表情は、文字通り「阿修羅」の気配で、私の背筋は寒くなった。さて、事態は最悪、自らの失態に落ち込む神戸を、慰めるでもなく「淡々」と「冷徹」に、「向こう(夏美)が、丸く収めなければ、君の処分は免れないところですよ」と言い放つ杉下の風情は「相変わらず」であった。ここにも、「相棒」の《あわん》の呼吸が、ほの見えて、私はたいそう面白かった。単なる交通事故を発端に、殺人事件にまで展開した物語は大詰めへ、(息子との思い出の)山荘で自爆を覚悟した寿子、夏美の腹中に新しい生命が宿っていることを知り、「聖戦」を終結する。まさに「愛別離苦」に狂った鬼子母神の物語は終わったのだが・・・。さて、2013年、「相棒」の相手は、甲斐亨(成宮寛貴)に代わった。聞くところによれば、この相棒は、「香港旅行中に遭遇した事件をきっかけに右京と知り合い、右京に引き抜かれる形で特命係へ」(インターネット情報・「ウィキペディア百科事典」)着任した由、これまでのように《あわん》の呼吸を楽しむことは無理かもしれない。(2013.1.8)



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2023-02-17

検証・掘り出し番組・《ETV特集「山谷ドヤ街・男たちの死》(NHK)

 午後10時から「ETV特集」(NHK)視聴。新聞では〈東京・山谷ホスピス最後を生きる▽孤独な高齢者が迎える安らかな死▽笑顔と涙・ふれあいの日々〉(東京新聞)と紹介されていた。山谷のドヤ街で生きてきた「男たち」が高齢化し、孤独な晩年を送っている。その様子を見聞した一人の男(閉じこもり、鬱症状の経験者)が「明日は我が身」と感じて設立した施設・「希望の家」での人間模様が描かれていた。そこは、孤独な高齢者にとって終焉の地、入所者のほとんどが病を抱え、死と向かい合っている。いわば「死ぬための家」とでもいえようか。施設のスタッフは、安らかな死を遂げさせようと、できるだけ本人の希望に沿ったケアを心がけている。当然のことながら、余計な延命治療、余計な介護は行わない。体力が衰え、食欲もなくなり、自然に衰弱死する方法を支援しているのだと思う。そのプロセスが克明に描出されていたが、天国へ旅立つ「男たち」が、山谷のドヤ街といったイメージとは裏腹に、たいそう清潔、安楽な臨終を迎えている様子に感動した。昔から「せめて畳の上で死ね」とか「畳の上の往生は覚束なかろうぜ」とか言われるように、今でも、畳の上で死ぬことが極上の死とされているようだが、ドヤ街では、その反対に行き倒れ、野垂れ死に、孤独死、事故死といった「変死」が、通常の死とされているようである。いつ、どこで、どのような死に方をするにせよ、人間が動物であるかぎり、死は「動物として死ぬ」(呼吸が止まる)他はない。そのことが苦痛であるかどうか、本人でなければわからない。瀕死の男にむかって、看護師の女性(施設長の妻)が声をかけていた。「よくがんばったね、もうすぐ楽になるよ。もうすこしだよ。もうすこしで天国に行けるよ」、まさにその通り、「男たち」にとって死は生きる苦しみから解放される至福の世界への旅立ちでなければならない。このような(点滴、人工呼吸、心臓マッサージなどとは全く無縁な)自然死こそ、昔から行われてきた死に方であり、極上の死である、と私は思う。「変死」という通常の死もまた、動物として死ぬ自然死に近く、悪いとは言えないが、それを畳の上(ベットの上、布団の中)で往生できるなんて、「男たち」にとっては、夢のような物語ではなかろうか。戦場での生き地獄、極道の闇世界を生き抜いた男性は、「自分の人生を『黒』から『白』にぬり変えたい」という。動物として死ぬだけでなく、「人間として死ぬ」、かけがえのない証言として、ひときわ光彩を放っていた。(2008.11.2)



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2023-02-16

検証・ガラクタ番組「 「超絶 凄(すご)ワザ! 夢かなえますSP よみがえれ思い出の写真編」(NHK)」のオソマツ!

 「超絶 凄(すご)ワザ! 夢かなえますSP よみがえれ思い出の写真編」(NHK)という番組を観た。NHKのホームページではその内容を以下のように紹介している。
 〈今回は、視聴者からの「色あせた思い出のカラー写真をよみがえらせてほしい!」という依頼に挑む。37年前に撮影し、日焼けで色が落ち、表情が全く見えなくなった亡き夫との2ショット写真。専門家が復元不可能という超難題に、ハイテク復元の技術者と超絶技巧の画家が、それぞれの手法で挑戦!写真に秘められた夫婦の絆と家族の物語。果たして写真は復元できるのか?予想外の結末に、スタジオは感動の嵐に!〉
 私もハイテク復元の技術者と超絶技巧の画家の「仕事」は素晴らしいと思う。その結果にクレームをつける気持ちは全くないが、番組スタッフの「仕掛け」(演出)はいただけなかった。依頼人は双子の姉妹、父は急逝し、以来、母はその写真を《ベッドの脇に置いて亡夫に毎日語りかけてきた》と言う。だが、私には信じられない。もし毎日、母がその写真をそばに置いて「眺めてきた」とすれば、《日焼けで色が落ち、表情が全く見えなく》なるまで気がつかないはずはないからである。ある日突然(一日にして)色が落ちてしまうカラー写真があるだろうか。母の話を聞いて視聴者の大半はそう思ったに違いない。以下は私の邪推だが、そのような演出にした方が、写真の価値(かけがえのなさ)が際立つと、番組スタッフは考えたかもしれない。それが余計な「仕掛け」なのである。
 加えて、超絶技巧の画家が、現在の母や長男の顔をスケッチして、表情が全く見えなくなってしまった写真の復元をするという演出(手間かけ)も不自然だ。父と長男の顔が似ていたとしても、往時の父や母の(別の)写真を手がかりに復元する方が手っ取り早く、かつ正確だということは誰にでもわかる。番組スタッフは何故そうしなかったか。再び私の邪推によれば、それでは「ドラマ」(仕立て)にならなかったからであろう。
 この番組で視聴者が求めているものは「技の凄さ」(技術)であって、「ドラマ」ではない。ハイテク復元の技術者はNHKからの申し出を「三回断った」が、それでも無理強いされた由。出来映えよりも「圧力」の方が印象に残る場面であった。
 《やらせ》とは言わぬまでも、「感動の嵐に!」などという「うけねらい」の結果、「高圧的な不自然さ・瑕疵」ばかりが目立つ作品に終わってしまった、視聴者の受信料で制作する番組としては「オソマツ!」と言うほかはない。
(2017.1.7)



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2023-02-15

検証・ガラクタ番組・《「ETV特集・吉本隆明」(NHK)》

午後10時から「ETV特集 吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」(NHK教育テレビ)を観た。インターネットの解説記事(?)(http://d.hatena.ne.jp/shibahama/20090104/p9)には以下のように記されている。〈『84歳戦後思想界の巨人▽2千人の聴衆に熱く語った思想の核心とは▽3時間の公演を凝縮▽皇国青年敗戦の衝撃▽“芸術言語論”とは▽言語の根幹は沈黙▽漱石・鴎外を読み解く▽糸井重里の問いかけに知の巨人はどう答えたのか 国家論から大衆文化まで、あらゆる事象を縦横に論じてきた吉本隆明さんが昨年夏に行った講演会の模様を送る。戦後思想界の巨人と呼ばれた吉本さんは84歳になった今も、自らの「老い」と向かい合いながら思索を続けている。そんな中、「これまでの仕事を1つにつなぐ話をしてみたい」と講演会を開いた。車椅子に乗って登場した吉本さんは2000人を超える聴衆を前に、自らの思想の核心「芸術言語論」を3時間、休むことなく語り続けた。戦後60年以上かけて紡いできた思想の到達点に迫る』〉 かつて落語家の桂文楽は「長生きも芸のうち」と言ったように記憶しているが、なるほど、吉本隆明も「84歳」という「長生きの看板」を貼り出すことによって「巨人」となりえたか!、というのが率直な感想である。高齢であることや、肢体不自由である(車椅子に乗って登場)ことは、さしあてってこの講演の眼目(これまでの仕事を1つにつなぐ話)とは「無関係」であるにもかかわらず、「長生きしたこと」「不自由な体に鞭打って登場したこと」などが身辺情話として(第三者=番組制作者から)語られることが鼻持ちならなかった。吉本は「言語の機能は、コミュニケーションの手段(指示表出)よりも、感情の表現(自己表出)の方が重要であり、《沈黙》もしくは《寡黙》こそ芸術言語の根幹である」というような持論を展開していたが、日本の古典文学とマルクスを結びつけようとする「思索」の実相は判然としなかった。むしろ、「2千人の聴衆に熱く語った」実像(映像)は、何よりも雄弁(鮮明)に吉本の「老い」を物語っていなかったか。その極め付き、彼は「3時間、休みなく語り続けた」が、その話を自ら「終わらせる」ことができなかったのである。「知の巨人」とは「全く不釣合いな」コピーライター・糸井重里に「支援されて」はじめて「沈黙」することができた、といった按配で、これほど「老いの実態を」納得させれらた場面はない。「老い」と向かい合いながら思索を続けているというのなら、「これまでの仕事をどのように終わらせるか」といった主題のほうが喫緊であり、さしあたって、斯道の先輩でもある文字通りの「巨人」、戦後文学の金字塔と評され「神聖喜劇」の作者・大西巨人との「茶飲み話」でも試みたほうが得策ではなかったか、と思いつつテレビのスイッチをオフにした次第である。(2010.3.14)



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2023-02-14

検証・ガラクタ番組・《「こころのコンサート・コバケンとその仲間たちスペシャル2010」(NHK)》

 午後3時からNHK教育テレビ「こころのコンサート コバケンとその仲間たちスペシャル2010」を観た。〈指揮者・小林研一郎の新たな挑戦は、障害のある人もない人も、音楽に夢を抱く人々がともに演奏するコンサート。「どんな音を目指せばよいのか?」最初はコバケンもメンバーも悩んだ。しかし、しだいに楽団が心を通わせ、一つの「小宇宙」を作り上げていく。楽団の結成から演奏会までをメンバーの心の交流を交えて追う音楽ドキュメント〉(「ハートネット 番組案内・http://www.nhk.or.jp/heartnet/program/index.html)だそうである。指揮者・小林研一郎氏の「新たな挑戦」は、素晴らしい意図・取り組みであり脱帽する。ただ、テレビ番組の内容にはいくつかの不満(物足りなさ)が残った。ドキュメントの柱として3人の障害者にスポットを当てたことは「常道」としてやむを得まい。しかし「どんな音を目指せばよいのか?」という最初の「悩み」が、どのように解消され、一つの「小宇宙」を作り上げることができたのか、判然としなかった。例えば、自閉症のヴァイオリン奏者、どうしても仲間との「呼吸」が合わない、そこでプロが手本を示すため、座る位置をずらして手本が見える場所に、といった工夫が効を奏した由。それだけの話だろうか。もともと音楽は「耳の世界」、それを視覚的な手段で補うことが「安易に」できるだろうか。また例えば、知的障害のクラリネット奏者、プロからの手ほどき(コミュニケーション)を母親が通訳していた。その様子を見ていたプロデューサー(指揮者の妻)が「本番では母親の助力は得られない。直接やりとりするように」とのアドバイス、その結果、双方にどのような「変化」が生じたのだろうか。新聞記事の紹介(東京新聞3月20日付け朝刊・テレビ番組表・13面)では〈指揮者・小林研一郎オーケストラ生まれる 障害のある人ない人がともに挑んだ大演奏会苦闘6カ月・・・汗と涙で心を紡いだ〉とも喧伝されている。その「苦闘」が描出されてこそ、ドキュメントであるはずなのに、あちこちに「安易な妥協」(制作態度)が感じられて、私には興ざめであった。普段は公園の清掃作業に従事しながら、時折、ボランティア「チンドン隊」の一員として母親とともに商店街を練り歩くクラリネット奏者の青年(37歳)が、客のリクエストに応じて奏でた一曲(「兄弟船」・それはサックスホーンであった)の方が、私には印象的であった。大切なことは、一方では流行歌、他方ではラフマニノフ、チャイコフスキーの作物を「奏でてしまう」青年の、(人間としての)「実力」を際立たせることであり、だからこそ、プロ集団だけでは描出できない「小宇宙」を創造することができたのではなかったか。指揮者・小林研一郎氏の「意図・眼目」は奈辺にあったのか。障害者の音楽的才能を発掘すること?、受け手から送り手に変容させること?、障害者に支援の手を差し伸べること?、脚光を当てること?、「生きる喜び」を与えること?等などといった(番組製作者連中の)「上から目線」とは断じて無縁でなければならない。今や、彼にとって障害者の「存在」は必要不可欠、彼らと「共に」「小宇宙」を創出しなければ、彼の芸術は貫徹できない、といった信念に培われているからこそ尊いのである。お互いがお互いを「必要」と求め合える「感性」と「かかわり」(ハーモニー・響きあい)を彼は追求しているのだ、と私は思う。さればこそ彼は「悩んだ」はずである。だからこそ「苦闘」が6カ月も続いたのではなかったか。件の番組では、そうした「観点」が「全く」感じられず、その結果、演奏会当日の「映像」は「単調」で「月並み」な景色で終わってしまったことが悔やまれる。(2010.3.20)



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2023-02-13

検証・ガラクタ番組・《「突入せよ“あさま山荘事件”」(TBS)》

 午後9時からTBSテレビ「突入せよ!“あさま山荘”事件」視聴。東京新聞の番組説明は以下の通りであった。〈02年あさま山荘事件製作委員会。役所広司。1972年2月、長野・軽井沢の「あさま山荘」に、連合赤軍のメンバーが管理人の妻を人質にとって立てこもった事件を描く。原田真人監督。〉およそ2時間弱の映画であったが、その眼目は奈辺にあったのか、つまるところ「何が何だかわからない」うちに終幕となっってしまった。さだめし、銃の力で世の中を変えようとする「過激」な行動を「武力」で「制圧」できない「もどかしさ」、中央(警視庁)と地方(長野県警)との主導権争い、家屋破壊を担当した民間業者との葛藤、マスコミ対策等々、「突入」する側のドラマを描出したかったのかも知れない。だが、結果はただ一言「お粗末!」と言う他はない。理由は簡単、製作者側では「分かり切っていること」が、視聴者側(少なくとも私)には「全くわからない」という状態が現出する。要するに「説明不足」のまま、現場の「混乱した場面」ばかりが「繰り返される」のである。字幕で時刻を表示するなら、「突入」するまでのプロセスを、いくつかのステップ(アクション)に区切ってクローズアップ、それぞれに「小見出し」「文字解説」などを添付することは、ドラマツルギーのイロハではあるまいか。ドキュメンタルであるべきこの映画に「主人公」など要る(存在する)はずがない。にもかかわらず、役所広司とその妻、管理人とその妻にかかわる家族の絆、犠牲者の葬儀場面といった「情話」もどきの景色も(断片的に)挿入されるといった按配で、ドキュメントとしても「お粗末」、ドラマとしても「中途半端」、事件に対する視座も定まらぬままに、ただ表面的な事象を「再現」すれば「何とかなるだろう」(足りない部分は視聴者が補ってくれるだろう)といった安易さが窺われて失望した。
(2010.2.22)



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2023-02-12

検証・ガラクタ番組・《テレビドラマ「相棒」の終焉》

 ほぼ1年前、テレビドラマ「相棒」の主役・水谷豊は、相手役・成宮寛貴について「彼は歴代最高の相棒」と評したそうである。「女性自身 芸能ニュース2559号 2012.10.24)には以下の記事が載っている。〈「水谷さんと成宮さんは、年齢的には親子といってもおかしくない2人です。でも、現場では兄弟のように仲がいいですね」(番組スタッフ)水谷豊(60)主演の人気ドラマシリーズ『相棒Season11』(テレビ朝日系)。今回は、初回の視聴率が19.9%と過去最高の滑り出しだった。今シリーズから水谷の新しい”相棒”となったのが、成宮寛貴(30)だ。水谷が成宮を、そこまで気に入った理由はどこにあるのか。「成宮さんは水谷さんに『私の演技は相棒の世界観を壊していませんか』『犯人に対しての言葉遣いはこれでいいのでしょうか』など、場面ごとに細かく突っ込んだ質問をするそうです。成宮さんは質問を繰り返すことで、俳優としての水谷さんへの尊敬をアピールし続けて、彼の心を掴んでいったんです。水谷さんは自分が演じてきた『相棒』を大切にしてくれる”質問攻め”にはイヤな顔ひとつせず『これほど質問してくる共演者は初めてですよ』と、ご満悦でした」(テレビ関係者)成宮は”相棒”役として3代目になる。彼とかつての相棒たちとの違いを、別の番組スタッフはこう語る。「初代・相棒の寺脇康文さんや2代目の及川光博さんは、水谷さんの個性的なキャラに”負けない相棒を演じよう”としてきました。ところが水谷さんは自分より目立つ演技が嫌いだったんです。成宮さんはそんな水谷さんの内なる思いを察して『あくまで主役は水谷さん』と、大先輩を立てる演技を心がけているようです。そんな謙虚な姿勢が、ますます水谷さんの心を捉えたのでしょう。『いままでの相棒のなかで、いちばん演じやすい』と喜んでいます」歴代最高の”相棒”という評価を受けた成宮。その”籠絡テク”に、見事に水谷もオチたようだ。12年目にして”理想の相棒”に巡り合えた水谷。『相棒』の快進撃は続きそうだ——。〉還暦を過ぎた(初)老優・水谷豊もまた、ご多分に漏れずテレビドラマの「善し悪し」を視聴率の「多寡」で判断しているようだが、杉下右京ならさだめし「軽率ですねえ」とたしなめるところであろう。12年目にして「理想の相棒」に巡り会えた(と思った)その時から、『相棒』の魅力は際限なく色あせてしまったように、私は感じる。その魅力とは、初代の寺脇や二代目の及川が、まさに「水谷さんの個性的なキャラに”負けない相棒を演じよう”として」、阿吽の呼吸ならぬ《合わんの呼吸》で迫真の演技を展開してきたところにある。〈ところが水谷さんは自分より目立つ演技が嫌いだったんです。〉ということであれば、何をか言わんや・・・。水谷豊は、自分の個性的なキャラが、寺脇や及川の「目立つ」演技に支えられて、さらに一段と磨きがかかり、珠玉のように光り輝くという、ドラマ(芝居)の常道を、未だ御存知ない。それかあらぬか、三代目の成宮は「いてもいなくてもよい」存在になりさがり、視聴者(私)は、わずかに、捜査一課の面々、組対課長、刑事部長等々との《合わんの呼吸》を楽しまざるを得ない羽目になってしまった。私の独断と偏見によれば、その《合わんの呼吸》こそが、『相棒』の真髄(見所)であり、杉下と亀山・神戸・たまき、亀山と美和子、亀山・神戸と伊丹、伊丹と米沢、さらには特命係と角田・内村・中園、そして小野田といった面々が、それぞれに織りなす「対立」「不一致」の人間模様を、曼荼羅図のように描き出すことに、その真骨頂があった。中でも、官房長・小野田を演じた岸部一徳の存在感は大きく、彼を失った『相棒』の面々には、精彩が感じられない。近作では、捜査一課の三浦も負傷・退職に追い込まれれた由、彼は「人間万事塞翁が馬」と呟いたが、今や潮時、すでに『相棒』の世界は幕を閉じていることを肝銘しなければなるまい。杉下右京、水谷豊に向かって曰く「そうですねえ、今あなたに必要なのは、明鏡止水の心境でしょうか・・・」
(2013.10.17)



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2023-02-11

検証・ガラクタ番組《「プロフェッショナル・仕事の流儀・漁の神様、誉れの一本釣り」(NHK)》

午後10時からNHKテレビ「プロフェッショナル・仕事の流儀・《漁の神様、誉れの一本釣り》」という番組を観た。60歳になる青森大間港のマグロ漁師・山崎倉氏の「流儀」を紹介していた。その流儀とは?①釣るのではない、選んでもらう。②出来ることは、すべてやる。③マグロの口に針をひっかける技を習得する。④満足する。という4点に集約されるらしい。そのためには「努力、努力、努力、勉強、勉強、勉強」が必要だとのこと・・・。その内容に何の異存もないのだが、残念ながら、「神様の流儀」が《映像として》語られることはなかった。いうまでもなく、その責任は番組製作者(NHK)の側にある。画面は、船の上で「神様」が餌をつけ釣り糸を海中に放り投げ、マグロがかかったり、かからなかったりの「繰り返し」、あとは「神様」の「語り」でつなぐといった(安直な)画面構成(製作技術)では、とても山崎氏の「神業」を描出することはできない。中でも「110日間の地獄」という一節にはあきれた。〈山崎は、かつて、3か月以上もの間、まったくマグロが釣れなくなる、生き地獄のような体験をした。周りの船は釣れているのに、自分の船にはマグロがかかりさえしなかった。あらゆる努力を尽くしたが、それでも釣れない・・・。その期間は、平成11年の9月9日から12月27日まで、実に110日に及んだ。これは、マグロ漁の最盛期である10月、11月に、まったく収入がなかったことを意味する。この体験を通して、山崎は自然の中で行うマグロ漁の「おっかなさ」を骨の髄まで味わう。だがこの絶望的な状況の中でも、山崎は努力をやめなかった。そして111日目、山崎は、200キロの大マグロを釣り上げた。山崎は言う。「どんなに努力勉強しても、できないことはできない。だが、それでも努力勉強していくことがなんらかの結論を出してくれる。」あらがいようのない自然の中で、40年以上マグロと向き合い続けてきた山崎の、信念の言葉だ〉そうである。①なぜ「周りの船は釣れているのに、自分の船にはマグロがかかりさえしなかった」のか。②「この絶望的な状況の中」で、山崎はどんな努力をしたのか。画面を観ているだけではいっこうに分からない。「あきらめない」「努力勉強していく」といった「神様の流儀」を《言葉ではなく、映像として》表現することこそが、「番組製作者(NHK)の流儀」でなければならない、と私は思う。結果、この作物は「神様の流儀」には遠く及ばない凡作に終わったと言えよう。漁師にとって地獄とは何か。私は今から50余年前、千葉内房線(当時は房総西線)保田駅前での情景を思い出す。時節は8月半ばの午後9時ころであったか、、海水浴目的の一泊旅行、当時の民宿は冷房もなく、客は大広間に詰め込まれ雑魚寝状態という按配だったので、父は7歳の私を外に連れ出し、涼みがてらに保田駅前までやって来た時のことである。辺りには、私たちと同様、「夕涼み」に来たらしい観光客が数名たたずんでいる。そこへ、どこからともなく(おそらく浜の方からであろう)、一人の老爺(70歳台)がフラフラとやって来た。ステテコ姿に草履履き、頭には煮染めたような手ぬぐいの鉢巻きといった出で立ちで、手には一升瓶をぶら下げている。時折、その(おそらく)安酒をラッパ飲みしながら、観光客の面々を物色、その中の一人(中年男性)に話しかけた。「アンタは学がありそうだから、ひとつ訊きたいんだが・・・。人間は《万物の霊長》というが、いったい誰が、いつ決めたんかね?」男性はちょっと驚いた様子だったが、取り合わずに離れていった。老爺は他の面々にも問いかける。「えっ?人間は《万物の霊長》というけれど、誰が、いつ決めたんだ?大昔、神様が、魚や獣、鳥、へびなんか、動物たちを全部集めて、『今から人間を万物の霊長にする』とでも宣言したのか!?」それに応える人は誰もいなかった。私は父の陰に隠れて、その情景を恐る恐る眺めていた。当時は、ただ「怖い」という思いだけだったが、私もまもなくその老爺と同じ年頃、なんとなく彼の思いが分かってきたような気がする。おそらく(いや、間違いなく)老爺は「漁師」、明日も漁に出なければならない。しかし「漁」とは、魚の命を絶つこと、つまり「殺生」に他ならない。そのことを生業としてきた自分は、はたして極楽往生できるだろうか、といった自責の念、良心の呵責に堪えられなかったのではあるまいか。彼は明らかに「地獄の責め苦」を味わっていたのだ、と私は思う。さて、ところで、もし、その老爺が現存、同じ問いかけを、マグロ漁師・山崎倉氏にしたとしたら、はたして「漁の神様」は、いったい何と応えるだろうか。それが問題である。 (2011.2.7)



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2023-02-10

検証・ガラクタ番組・《「仕事ハッケン伝」(NHK)》

 旅先(長野県・湯田中)の安宿で、NHKテレビ「仕事ハッケン伝」という番組を観た。ホームページでは、その内容が以下のように紹介されている。〈今回の舞台は明治創業、東京高輪の老舗クリーニング店。いずれもこの道30年以上、シミ抜きやアイロンがけのプロが集う職人の世界に磯山さやかが挑む。知る人ぞ知るクリーニングの舞台裏は実に細やか!のりの付け方だけで5種類?!しつこい泥汚れを落とすプロの技とは意外にも??シミ抜きのマル秘テクニックとは?1着入魂!客の信頼を築く技の数々に迫る。そして磯山が挑むのは客の「形見の品」。100年の信頼を守れるのか?〉加えて、収録後の磯山さやかは以下のようにコメントしているそうな。〈1日目が遠い過去に思えるくらい本当にギュッと凝縮された1週間でした。「あ~あんなことやってたな」とか、本当に画面には映らないくらい体力的にもキツくて、筋肉痛になりながらやっていたので、そういう日々を思い出しましたね。ゼロから経験する、学ぶっていうことは普段の生活ではなかなかなくて、今回本当にゼロから悩んで悩んでやらせてもらって、最後は本当に貴重な達成感を感じさせて頂いたので、1週間乗り越えられたっていうのは自分の中でも凄いことだと感じました。この頑張りをこれからの自分の仕事に生かせていけたらなと思います。〉
 しかし、私の独断と偏見によれば、その内容は「嘘八百」、「やらせ番組」の典型であった。なるほど、初心者の磯山がプロの職人技に「挑戦」したことは事実であろう。だが、その結果、「この道30年以上」の職人技を、一介のテレビタレント(グラビアアイドル?、女優?、スポーツライター?)が、わずか一週間でマスターできただと?。彼女は今年29歳、だとすれば件の職人たちは、彼女が生まれる前から修業を積んで来ているのだ。許しがたい「演出」は、彼女の「挑戦」を支援した職人を二人もスタジオに呼び出し(出演料を払って)、「お墨付き」のコメントを「させた」ことである。「挑戦」の内容は、衣料品の仕分け、水洗い、しみ抜き、アイロンがけ、配達・接客などであったが、いずれも、初心者・磯山は「無難に」こなしたそうな。彼女自身「今回本当にゼロから悩んで悩んでやらせてもらって、最後は本当に貴重な達成感を感じさせて頂いたので、1週間乗り越えられたっていうのは自分の中でも凄いことだと感じました」などと《自信満々》のコメントを述べているありさまだが、それは「身の程知らず」というものである。職人修業はそれほど甘くはない。再び、私の独断と偏見によれば、登場した職人の心中には「NHKの番組に協力すれば老舗の宣伝になることは間違いない、嘘も方便、まあここはテレビの人気タレントを《ほどほどに》持ち上げておこうか」といった本音が窺われて、たいそう見苦しかった。さらに言えば、この種の番組は民放では定番、1998年から2003年まで放送された「愛の貧乏脱出大作戦」(テレビ東京)あたりが、その「走り」といえようか。いずれにせよ、民放の「二番煎じ」であることにかわりはなく、受信料を要求して見せる番組ではない。
(2013.7.4)



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2023-02-09

検証・ガラクタ番組・《「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)に出演した小池百合子衆議院議員の品格》

 テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」に衆議院議員・小池百合子氏がゲスト出演、御本人も以下のようにツイートしている。〈開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演します。6月18日(火)午後8時54分から。私のお宝は、イラク・バグダッドで購入した絨毯。お楽しみに!〉ところで、この代物(ペルシャ絨毯)の鑑定をめぐって、見解が対立している。鑑定士・大熊克巳氏の総評は〈染料と素材が融合して爛熟期に入った素晴らしい絨毯。イラク王国がイランに発注して織らせたものではないか。イランの町ごとに様々な絨毯が作られていたが、依頼品はおそらくケルマンという町で織られたものだろう。上部に「バスラ刑務所で織られた」というアラビア文字があるが、これは後から入れられたものではないか。この字で紋様の上半分が欠けてしまっている。こういうことはまずあり得ない。小池先生はイラクで織られた物と仰るが、代表的なペルシャ羊の毛で、織り方もペルシャの物であり、イラン以外は考えられない。〉ということであったが、ブログ「今そこにある日々」の記事には〈「開運なんでも鑑定団」テレビ東京 今日のゲストは政治家の小池百合子さんです。1990年に人質解放を求めにイラクのバグダッドを訪れた際に見つけた絨毯の鑑定は本人評価額10万円に対し80万円の鑑定結果でした。生産地はイランとの判定でしたが小池さんはイラクに間違いないと反論!果たしてどちらが正しいのか??〉と述べられている。門外漢の私にとっては、「どうでもいい話」だが、小池議員のツイート、「どうぞお楽しみに」という件が、見逃せなかった(楽しむどころではなかった)。その理由①、小池議員は1990年に人質解放を求めてイラクのバクダッドを訪れ、無事解放に成功、その帰途、骨董店で当該絨毯を購入したそうだが、「人質解放」という公的行為と、「絨毯購入」という私的行為が、なんとも調和を欠いている。さらにいえば、当時、人質解放を求めてバクダッドを訪れたのはプロレスラー・アントニオ猪木氏という記録はあるが、小池百合子氏という名前は出てこない。彼女自身の「経歴」「年譜」などにも、そのような記載は見当たらない。だとすれば、「絨毯購入」という事実があるだけで、「人質解放」という公的行為があったかどうか疑わしい。その理由②、件の絨毯を専門家の大熊氏が「イラン製」と鑑定したのに、あえて「イラク製」と反論したのはなぜか。自分の「見識」が浅かったことを認めたくなかった。イラクについては自分の方が専門家であることを主張したかった。しかし、(それがたとえ「イラク製」であったとしても)あの場面では、鑑定士の「顔を立てて」引き下がるのが、政治家(元閣僚・現党広報本部長)、もしくは有名人、延いては人間としての「品格」というものであろう。視聴者(私)にとっては、ムキになって「水掛け論」を主張する小池議員の「頑なな」表情ばかりが目について、「楽しむどころではなかった」のだから・・・。
 かくて、また有力な政治家が一人、「我執」という馬脚をあらわしてしまった、という御粗末譚、テレビを甘く見ない方がよろしいですぞ!自民党広報本部長・小池さん!(2013.6.18)



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2023-02-08

検証・ガラクタ番組・NHK「紅白歌合戦」のオソマツ!

  NHK紅白歌合戦の視聴率は、北島三郎が初出場した昭和38年(第14回)・81.4%であったが、平成11年(第50回)・50.8%を境に下降の一途を辿り、スマップが解散した平成28年(第67回)は40.2%まで落ち込んだ。往時に比べ「半減」していることは明らかであり、もはや「国民的番組」と称することはできない。
 今回の眼目(演出)はどうやら、「シンゴジラ」がNHKホールに襲来するのを出演者の演奏で撃退するところにあったようだが、結果は子ども向け○○番組に「劣るとも優らない」オソマツさ、開いた口がふさがらなかった。首相や官房長官までが登場して危機感を煽りたてる。もし、本気でそのような演出を全うしようとするなら、NHKは直ちに番組を中止し、会場に居る全員には「避難指示」、視聴者にはテレビを消して「静かに待避するよう」呼びかける覚悟が必要であった。その方がよっぽど鮮やかな結果を招いたであろう。安倍首相得意の「危機管理」、正体不明のミサイル攻撃に対する国民の「避難訓練」を実現できたからである。加えて、67年に亘って繰り返されている有名無実の「国民的番組」に有終の美を飾れたかもしれない。
 しかし、番組は自らの演出を無視(児戯扱い)してそのまま進行・・・、視聴者投票では圧倒的有利だった白組が負けるという「蛇足」まで添えられた。オソマツ!(2017.1.1)



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2023-02-07

検証・ガラクタ番組・《「紅白歌合戦」(NHK)》

 久しぶりに「NHK紅白歌合戦」なるテレビ番組を観た。入れ替わりする出演者は、どれもこれも「没個性的」で「金太郎飴」の行列、大物といわれる連中は、容貌・声量などに「衰え」がめだち、見るも無惨な結果であったが、ただ一つ、面白い場面が見られた。大トリの氷川きよしが歌い終わった瞬間、満を持していたように、紅組の小林幸子(白装束)が舞台中央の氷川きよしに「すり寄った」。なるほど、そこは「一番目立つ」位置、「居るだけで」「立つだけで」全国視聴者注目の的となる。面白くなさそうなのは、ついさっき小トリを務めた和田アキ子(黒装束)、チラチラと小林の方を見やりながら、表情が引きつっている。「あの目立ちたがり屋!どこまで図々しいんだ。このままでは決して終わらせないぞ」と思っていたかどうかはわからない。いずれにせよ、数十秒後には、たちまち「君、泣いてんんか?」などと話しかけながら、和田は氷川に「にじり寄り」隣の位置を「確保」する。なるほど、斯界きっての「剛の者」「猛者」、その実力をいかんなく発揮した一幕だった。とはいえ小林も小林、しっかりと和田の隣の位置をキープ、黒白「相並んで」「視線を合わせることなく」閉幕となったが、そんな「せめぎあい」にあけくれる紅組に勝ち目があろうはずもなく、今回も白組の優勝となった。まあ、、とうの昔に「脱テレビ宣言」をしている私にとって、そんなことはどうでもいいのだが、受信料を徴収しているNHKの番組内容が「あまりにも低俗」「あまりにも民放並み」「あまりにも安易」なので、許し難いという気持ちにかられて感想を「述べてしまった」次第である。
(2008.12.31)



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2023-02-06

検証・ガラクタ番組・《「衝撃100円めし大賞」(テレビ東京)》

昨日、「テレビ東京」は午後7時から「衝撃100円めし大賞」という、愚にも付かぬ「低俗番組」を放映した。その内容を新聞のテレビ番組欄(東京新聞)では以下のように紹介している。〈“全品百円”赤字覚悟焼き肉&パスタ&定食奇跡の激安グルメSP原価割れ絶品ラーメンカツカレーの価格破壊訳あり(秘)豪華ステーキ80歳母達のおふくろ味太っ腹100円弁当の謎行列居酒屋〉。同時刻、「テレビ朝日」は、〈池上彰学べるニュース緊急放送東日本大震災水道水は?農作物は?放射能の人への影響は〉、「NHKテレビ①」は、〈ニュース7 大津波水産業も壊滅的な被害漁業の町に再び活気を▽高濃度の放射性物質たまり水除去進まず・・・原発事故〉といった次第であったが、今、この時期、「テレビ東京」は、いったいどんな視聴者を対象に。「衝撃100円めし大賞」という、愚にも付かぬ「低俗番組」を「垂れ流し」したのだろうか。まさか、被災者を「元気づけるため」ではあるまい。被災者にとって必要なものは、「空虚な映像」などではさらさらなく、まさに実物としての「100円めし」に他ならない。番組製作者、放映関係者はそのことを知っているか。もし「私たちにできることは何か」などと御託を並べるのなら、その「100円めし」とやらを、直ちに被災者に届ける方が先ではないか。とはいえ(当然のことながら)私はその「低俗番組」を視聴していない。もしかして、番組製作者、放送関係者の「意図」は(私の)「想定外」・・・?。通常価格を「100円」にまで値引きして、余った金額は、消費者が全額「義援金」に寄付するような「お膳立て」が企てられていたのかも知れない。だとすれば、心底から陳謝、脱帽する他はないのだが・・・。(2011.3.31)



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2023-02-05

検証・テレビの大罪・《絶叫アナウンサー》

テレビのスポーツ実況番組では,ほとんどのアナウンサーが絶叫している。大昔,NHKのアナウンサーが「前畑,ガンバレ」と絶叫したのが始まりのようだが,それはラジオの実況放送であった。テレビの絶叫では,古館伊知郎のプロレス中継がそのはしりといえようか。いずれにせよ,ワンパターンの絶叫は,アナウンサーの無能力をさらけ出すだけだ。競技場の雰囲気,沿道の様子,情景などは「見ればわかる」のである。最近では,アナウンサーもそれに気づいたと見え,選手の身辺情話を盛り込んで絶叫している。なるほど,身辺情話は見てもわからない。でも,アナウンサーの方々よ,身辺情話を絶叫すると浪花節になってしまうことを御存じか。古館は自分を「現代の語り部」「名司会者」などと勘違いしているようだが,ためしにCDにでも録音して売り出してみるがいい。そして,三門博,広沢菊春,広沢瓢右衛門などの浪曲と聞き比べてみるがいい。
視聴者は,テレビでスポーツを「見たい」のである。加えて,競技場の雰囲気,沿道の様子,情景の音声も「聞きたい」のである。アナウンサーの方々よ,あなたの絶叫が,そのような視聴者の願いを,ことごとく蹴散らかしていることを御存じか。
しかし,情報化社会の現在,このような声が関係者の耳に届いていないはずはない。だとすれば,アナウンサーはそのような声があることを百も承知で絶叫していることになる。マイクを握っているのは視聴者ではない。視聴者がテレビの前で「やかましい,黙っていろ」と絶叫してみたところで,所詮,相手に届くわけではない。視聴者は,やむなく音声を消して,沈黙の画面を見るだけとなる。
問題は,だれがアナウンサーを絶叫させているかということだ。ほとんどのアナウンサーが絶叫しているところを見ると,彼らの独断とは思えない。関係者からの職務命令でもあるのだろうか。
質問しても答はわかっている。「そのような命令は出しておりません。ただ,アメリカのスポーツ報道では,定法となっております。」
(2004.1,9)



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2023-02-04

検証・テレビの大罪・《視聴率》

十月二十五日の朝刊やテレビの報道番組等では,「日テレ社員,視聴率操作」のニュースでもちきりだった。日本テレビの番組プロデューサーが,ビデオリサーチ社の調査対象所帯に,自分が担当する番組を見るよう頼み,承諾した四所帯に現金や商品券を郵送したという。日本テレビの社長は「正当な視聴率競争をしている制作者への卑劣な裏切りであり,ぼうとく。激しい怒りと深い悲しみを感じるが,不心得者を出した社員の責任は逃れられるものではなく,責任を痛感している」と語った。
私は,かねてからコマーシャルをはじめテレビ番組の俗悪さに辟易としていたが,なるほど業界のトップに立つ社長が,この程度の見識しか持ち合わせていないとすれば,「さもありなん」と現状の文化的な荒廃を納得できたのである。社長等は,記者会見で視聴者,スポンサー各位,放送業界すべての関係者に「おわび」したというが,視聴者の一人としては「笑止千万」な話であり,謝ってもらいたいことは他にもあるのである。
まず,視聴率という数字の無意味さを認識する必要があるだろう。報道によれば,関東地区の対象所帯数が600だという。実際の所帯数がどれくらいかを明記しなければ,その数字が統計的に有意であるかどうかは判断できない。常識で考えても,わずか四所帯がその番組を見たことによって上昇する視聴率など全くの「まやかし」に他ならないではないか。
次に,テレビ業界は,そのような「虚妄な数値」にもとづいて競争すること自体に「激しい怒りと深い悲しみを感じる」必要があるだろう。社長は「正当な視聴率競争」だと断じているが,それは単なる利潤追求の競争に過ぎず,「面白ければ何でもあり」とする俗悪番組を蔓延させる結果になるだけである。テレビ業界は「社会の木鐸」として報道の自由,表現の自由を守り,文化の向上に寄与するという「使命」を捨て,実業界の広告塔になりさがる道を選んだのだろうか。                      視聴者は,単に視聴率の高い番組ではなく,混迷する社会に光明を灯し,私たちの社会生活に豊か感動を与えてくれる良質な番組を求めているのである。その結果を競い合う切磋琢磨こそが「正当な競争」であり,良質な番組を提供し続けるスポンサーだけが勝ち残れるような社会を求めているのである。
「視聴率操作」は「卑劣」かもしれないが,無意味な数字に基づいて「俗悪で醜悪な」映像を垂れ流し続けるスポンサー獲得競争の方がもっと責任が重いことを「痛感」し,日本文化の低下に加担していることを「おわび」してもらいたいと,私は思う。(2003年10月25日)



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2023-02-03

検証・テレビの大罪・《コマーシャル》

 テレビが日本の文化を駄目にしている。映画「生きる」の監督・黒澤明は自分の作品をテレビで放映することを極端に嫌ったそうだが,途中で無関係な広告映像が次々と挿入され,本来の作品とは似ても似つかぬ代物に変貌させられてしまうのだから,当然なことであろう。そればかりではない。コマーシャルという広告映像は,視聴者の感性,認知能力をも「暴力的に」破壊してしまうおそれがある。アニメーション番組を見ていた4歳児が,発作を起こして入院した例もあった。
コマーシャルという広告映像は,受信者の視聴覚を繰り返し刺激し続けることで,必要な情報を無批判に記憶させることを目的としている。
テレビの初期には,ドラマであれドキュメンタリーであれ,ノンフィクションであれ,それなりのテーマを表現できる時代もあったが,今では,コマーシャルという広告映像を放映し続けることがテレビの目的になった。細切れにされた作品やワイド,スペシャル等と名付けられたスキャンダル,見せ物番組,井戸端会議の垂れ流しに終始しているのが現状である。
視聴者は,それらを見続けることで,日常と非日常の世界をさまよいながら,心の底から感動することもできず,おのれの感性や認知能力,批評精神(クリティシズム)を日に日に鈍磨させていく,しかもそのことに気づいていない。正に「文化的な無差別テロ」といっても過言ではないだろう。(2004.1.4)



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2023-02-02

検証・テレビの大罪・《番組表》

いつの頃からか,テレビの番組表が新聞の1ページを占めるようになった。それまでは,放送時刻と番組のタイトル,出演者を紹介する程度であった物が,徐々に拡大され,今では,見なくても内容がわかってしまうほど詳細に,その番組のキャッチフレーズが載っている。テレビ業界が熾烈な視聴率獲得競争を展開している現れであろうが,そのキャッチフレーズが「狂気の沙汰」としか言いようがない。 
「モ娘ザンゲ加護全裸のぞき&石川マジギレ事件 YとO禁断愛発覚」(テレビ東京)
「マルシアに李麗仙が反論? 家で浮気なんてありえない」(TBSテレビ)
「霊のまばたきの瞬間を撮影見たものは呪われる 恐怖のビデオ」(テレビ朝日)
「電卓の名人 1秒に8キーたたく人」(NHKテレビ)
「少女達の新春熱狂地帯欲望全開<略>酒ラッパ飲み調泥酔300人が大交差点占拠 ナンパ続出 乱れすぎ大荒れ澁谷」(フジテレビ)
「旧家に起きた連続の怪事件・ナゾの侵入者 真っ暗闇で家中を移動居間に残された狂気のメッセージ」(日本テレビ) 
暮れから正月にかけての「番組表」を見ただけでも以上のごとくであり,狂気のキャッ
チフレーズは枚挙にいとまがないのである。なかでも「楽しくなければ年の瀬じゃないスペシャル!」と題して「抜き打ち学力テスト年末ジャンボバカ決定」(フジテレビ・12月27日)は極め付きであった。誰が作文したかは知らないが,バカを決定して楽しもうという軽佻浮薄なテレビ「文化人」の魂胆が見え見えである。
面白ければよい,視聴者が飛びつけばよい,視聴率が上がればよい,という尺度で愚にもつかないゴシップ,スキャンダル,井戸端会議,個人情報等を流し続けるテレビ業界の罪状は途方もなく重いのである。(2004.1.8)



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2023-02-01

検証・テレビの大罪・《嘘と真実》

「百聞は一見に如かず」というが,はたしてそうか。テレビの映像を見て,そこに映し出された事物が「真実」であると思ってはいけない。寄席の手品と同様に,テレビには種も仕掛けもあるのである。
昔,スプーンを曲げる少年が登場し,実際にその場面が放映された。そこに居合わせた,画家の岡本太郎が感想を聞かれ,苦渋に満ちた表情でただひとこと「子どもの遊びだね」と吐き捨てるように言った様子が忘れられない。当然のことながら,彼はその場で,スプーン曲げ遊びの「種」や「仕掛け」を見抜いていたに違いない。しかし,それを視聴者に向けて明らかにしなかったのはなぜか。私もまた,苦渋に満ちた表情で「それを言っちゃあー,おしまいだよ」と言うべきであろうか。
岡本太郎は,なぜ嘘を嘘だと暴露しなかったか,私の勘ぐりによれば,彼は暴露したくても暴露できなっかったのではないか。自分の立場を考えたのである。番組関係者は,少年の嘘を「真実」だと信じていたのだろうか。私の勘ぐりによれば,信じていたと思う。もしそれが嘘だとわかっていたら,番組そのものが成立しなくなるからである。いうまでもなく,番組は商品であり,関係者の目的は視聴率を稼ぐことである。少年は超能力でスプーンを曲げると言う,おもしろい,めずらしい,やらせてみよう,視聴者は飛びつくに違いない,視聴率が稼げる,嘘か真実かはどうでもよい,でも願わくば真実であってほしい,後から誤報なんてみっともない・・・。この程度の感性,認知能力ではなかったか。
世界的な芸術家,岡本太郎は,この程度の感性,認知能力に付き合わされてしまったのである。だから,苦渋に満ちた表情を隠せなかったのであろう。今さら,証拠を挙げて嘘を暴露する気にもならない。「こんな番組に出演しなければよかった」と彼は思った。
しかし,それが「真実」であるかどうかはわからない。(2004.1,7)



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2023-01-31

脱「テレビ」宣言・《おそるべきCM》

 場所は、ある高層マンションの一室。幼い姉(5歳)と弟(4歳)がテレビを観ながら留守番をしていた。そこに映し出された映像は、たまらなく魅力的であった。なぜなら、アニメではなく実写の人間が、すいすいと、自由自在に(まるでハヤブサのように)都会の空を飛び回っていたからである。「アッ、飛び上がった!エッ、宙返り?」その人間(たち)は、瞬く間にビルの屋上に舞い上がったかと思うと、次々と高層ビルを渡り歩き、やがて見事に着地する。弟いわく「ボクもやりたい」。姉こたえて「ダメダメ。あんなことできるわけないよ」弟「できるさ!タクヤだって、クサナギくんだって、飛んでいたよ」姉「あれはウソなの!」弟「ウソじゃないよ。アニメじゃないもん。テレビはウソつかない!」姉「じゃあ、やってみれば」かくて、翌日の新聞には「高層マンションから男児転落死 幼い姉弟留守番中」という見出しの記事が載ることになった。以上は、私の「作り話」に過ぎないが、昨今のテレビ映像には「衝撃的」「扇情的」「露悪的」「営利的」な場面が溢れていることを、私は見過ごすことができない。テレビ産業従事者の面々は、みずから製造・販売している商品(番組)を、かけがえのない愛児たち(次世代の後継者)に、堂々と胸を張って見せることができるのだろうか。「視聴率」だけでステータスが左右される虚妄な業界の中で、「面白ければよい」「売れればよい」「驚かせればよい」といった物差しを盲信、結果として、子どもたちの「感性」「判断力」を鈍麻、消耗させている罪の深さは途方もないことを思い知るべきである。とりあえず言っておく。「ソフトバンク」、「眼鏡市場」のCM製作担当者、それを放映しているテレビ局担当者の方々、あなたがたが手掛けた「誇大妄想」「荒唐無稽」「ウソ八百」の映像を、純粋無垢、いたいけな子どもたちが「食い入るように」観ていますよ。その結果責任をとる覚悟はできていますか。間違っても、「CMと事故の間に因果関係は認められない」とか「それ以前に両親の保護責任が問われなければならない」などといった詭弁を弄さぬよう、お願いいたします。(2011.1.30)



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2023-01-30

脱「テレビ」宣言・《「脱原発」は「脱テレビ」から》

テレビ番組の大半は、スタジオにテーブルや椅子を並べ、そこに数人の人物を侍らせ、「ただしゃべらせる」といった代物が「定番」となっているが、実に「安直」な、製作方法である、と私は思う。例えば、「あさイチ」「スタジオパーク」「ゆうどきネット」(NHK)、「スッキリ」「ヒルナンデス」「ミヤネ屋」「every」(日本テレビ)、「やじうまテレビ」「モーニングバード」「スクランブル」「Jチャンネル」(テレビ朝日)、「みのもんた朝ズバ」「ひるおび」「Nスタ」(TBSテレビ)、「7スタ」(テレビ東京)、「とくダネ!」「笑っていいとも」「知りたがり!」「スーパーニュース」(フジテレビ)等々・・・、数え上げればきりがない。こうした番組は、ただ「時間つぶし」(視聴率稼ぎ)のために、著名人をかき集め、「愚にもつかぬ」井戸端会議を、延々と「性懲りもなく」視聴者に「押しつけている」に過ぎない。まさに「屁」のような代物なのである。そこで取り沙汰されるテーマが「脱原発」だと!、「脱原発」、大いに結構!、しかし、それを実現するためには、まず、テレビ放送に費やす電力を削減しなければならない。東日本大震災直後、テレビ放送界は、一様に「消沈」、件の「安直」番組は「姿を消す」かに思われたが、のど元過ぎれば熱さを忘れ、ほぼ1ヶ月後には復旧、「がんばろう日本」などと、他愛もないスローガンを標榜している。「脱原発」を叫ぶなら、まず「隗から始めよ」。テレビ放送の「安直番組」「深夜番組」を削除せよ。そのことで、テレビ事業関連従事者の職は奪われ、多くの失業者が輩出するだろう。「脱原発」イコール「脱テレビ」、はたして今の日本において、そんなことが可能であろうか。無理、無理。である以上、私たちの「原発依存」は、永遠に続くのである。嗚呼・・・。(2012.11.7)



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2023-01-29

脱「テレビ」宣言・《「NHK受信料未払い問題」の“怪”》

 水道、電気、電話などライフラインに関する使用料金を滞納した場合、それらの物資、サービスが供給されなくなることは必定であろう。だがしかし、NHK受信料は例外である。受信料を払っても、払わなくてもNHKのテレビ番組を視聴することができるとは、全く不可解な話である。どうしてそのような事態が生じているのか、インターネットで「NHK受信料」を検索すると、出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、以下のような記事が目にとまった。〈スクランブル化について 現在、受信料不払いや受信契約の解消等の問題がある一方で、受信料を払わずともNHKが視聴できてしまうことや、NHKを視聴していないにもかかわらず受信料が課金される等の不公平感を無くす為、受信料を支払っている契約者以外は視聴できなくするスクランブル方式を導入する討論もなされている。デジタル放送においてはスクランブル化は技術的に困難ではないが、「特定の人にしか視聴できなくすることは情報に自由にアクセス出来なくなることになり、公共性が失われることになる」「経済的に窮地に立たされている人に対し情報格差を生じさせることになる」との理由により、NHKとしてはスクランブル化は避けるべきであるという見解を出している。しかし、NHKの主張する受信料の義務化・罰則化は「受信料を払えなければ無料の民放すら見られない」という状況を意味し、スクランブル化以上の情報格差を生じさせる事になり、非常に矛盾に満ちた主張が展開されていると言える。結局のところ、NHKはスクランブル化によってTV所有者全体から受信料を徴収するという前提が崩れ、減収となるためスクランブル化に反対しているのである〉
 なるほど、NHKには「TV所有者全体から受信料を徴収するという前提」があったのか。ところで、その前提は「自由民主主義」「社会民主主義」「共産主義」等を標榜する各政党にとって、是なのか、非なのか。今日の朝刊(「東京新聞」6~7面)に掲載された〈2009衆院選 主要政党マニフェスト要旨〉を読んだ限りでは、何の情報も得られなかった。「NHK受信料未払問題」など、国政にとっては「採るに足らない」ことなのかも知れない。だがしかし、今や「第四の権力」として君臨する「マスコミ」(情報産業)のあり方について「思いが及ばない」(政治家の)集団など、私にとっては「採るに足らない」ことなのである。かくて、今回の衆院選もまた「支持政党無し」、棄権する他はないということか・・・(溜息)。
(2009.8.1)



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2023-01-28

脱「テレビ」宣言・《テレビの品格》

 民放テレビ番組(「秋の教育スペシャル」・11月11日・フジ)の中で、ある中学校の取り組みが紹介されていた。生徒を信頼して、定期試験には監督者を置かないという。また、生徒会が文房具の「無人販売」を担当し、売上げ金額の誤差が0円になることを目標にしているという。いずれも、社会生活を送るうえで、「私たちが相互に信頼し合う」ことが大切であるという「意識」を養うためであろう。この取り組みをどう評価するか。進行役のビートたけしは、「その信頼は学校の中だけのことに過ぎない。社会に出れば通用しないだろう」と言った。一方、「爆笑問題」の太田光は、「教員が本当に生徒を信頼しているのなら、テスト自体をしなければよい」と言った。その場の一同は「爆笑」したが、その「爆笑」こそが「問題」であると、私は思う。「中学校で定期試験があることは当然である」という常識、「学校内の信頼など無力である」という思い上がり、見下しが社会に蔓延している。その先棒をかついでいるのが、他ならぬテレビ関係者であることを証明していた。引退した久米宏が、「テレビは国民の鏡。低俗な内容は国民がそれを求めているから・・・」のような発言を「他人事」のようにしていたが、その無責任さこそが、テレビの「品格」を象徴しているのである。子どもたちが「見ている」のを承知の上で、視聴率稼ぎのために「低俗な番組」(大人同士の悪ふざけ、からかい、いじめ、やらせ等)を流し続けてきたテレビ関係者の責任を、国民に転嫁することができるだろうか。民放番組が、スポンサーの「提供」(プレゼント)で作られ、無料で視聴できるからといって、国民が「得」をしているわけではない。見えない「受信料」は、しっかりとスポンサー商品の価格の中に組み込まれている。正に「タダより高いものはない」のである。
 テレビの「品格」を高めるためには、民放各社が「受信料」を徴収し、「番組」自体の売上競争を展開することが必要である。そのことによって、間違いなく「番組」の質は向上するだろう。国民の感性は、テレビ関係者が考えているほど「低俗」ではない。(2006.11.12)



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2023-01-27

脱「テレビ」宣言・《テレビ業界・一億層未熟化時代》

「夫婦げんかは犬も食わない」というが、テレビ芸人の夫婦が「離婚」したところで「何の不思議もない」のに、ましてその原因が夫の「浮気」だったとすればなおさらのこと、〈陣内離婚“すべては僕の責任”浮気謝罪・・・紀香に未練涙浮かべた会見全容〉(日本テレビ・3月25日)などという番組を「垂れ流している」スタッフ並びにキャスト、加えてその視聴者(私自身も含めて)は、まさに「犬」以下の存在に成り下がった、と言っても過言ではあるまい。中でも、開いた口がふさがらないというか、嗤う他はないというか、背筋が寒くなるというか、前代未聞の出来事は、夫の浮気が発覚した後、夫の両親、妻、妻の両親、合わせて六人が「今後のあり方」について家族会議を開いたということである。犬も食わない夫婦の「痴話げんか」に、双方の両親が「顔を出し」「口を出す」様子は、想像しただけでも「珍奇そのもの」、各自の立場をわきまえない「けじめのなさ」「未熟さ」に吐き気を催すほどだが、スタッフ並びにキャストは「何の不思議もなく」「当然のことのように」報道している姿勢もまた「未熟の極み」という他はない。今や、結婚も離婚も「保護者つき」でなければできなくなったということである。キャストの一人が(二人の離婚を)「実に、残念です」等とコメントしていたのも、白々しい。そのおかげで番組ができ、そのおかげでギャラをもらっている自分自身の「さもしい姿」に気づいていないのだろう。
 いずれにせよ、昔は「犬も食わなかった」事象に「よだれを流し」、「とるにならない情報」を「飯の種」にしている「テレビ業界」の退廃も「ここに極まれり」ということである。大宅壮一はテレビ・メディアによる「一億総白痴化」を危惧したそうだが、その前に「一億総未熟化」の時代が訪れたことは確かなようである。(2009.3.25)



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2023-01-26

脱「テレビ」宣言・《「酒井法子保釈」報道のバカ騒ぎ》

 東京新聞朝刊(14面)に「『酒井法子保釈』にTV報道過熱 民放素早く、NHKは夕方“参戦” ヘリで追跡の局も」という見出しの記事が載っている。昨日の夕方、私はとあるスーパー銭湯のサウナ室にいたので、その番組を(観たくもないのに、無理矢理、半強制的に見せつけられるという形で)「観ざるを得なかった」わけだが・・・。たしかに〈午後四時半、酒井被告が東京湾岸署の正面玄関に姿を見せると、一斉に同被告をとらえて放送。車で都心に向かうと、ヘリコプターを飛ばして上空からリポートする局もあるなど過熱気味に〉とあるように、TBSであれ、日テレであれ、フジであれ、「視聴率稼ぎ」を目途にした《バカ騒ぎ》の連続、〈東京都千代田区内での会見は、テレビ東京以外の民放が会見前の午後六時ごろから伝え、同六時半すぎからはNHKも報道合戦に“参戦”。涙を流して謝罪する酒井被告の顔のアップを映し出した〉そうである。受信料を徴収しているNHKまでが、とるにたらない「一女優の不祥事」などにかかわるようでは、まさに「世も末」というところ、開いた口がふさがらない。記者会見では、とっくに解雇、縁が切れたはずの所属事務所副社長が(なぜか)同席、しかも「質疑無し」の一方的な謝罪(約十分)で終了となれば、この一連の《バカ騒ぎ》が、(女優側の?)誰かによって仕組まれた「茶番劇」であることは一目瞭然、それに乗せられた「報道関係者」の「浅はかさ」「愚かさ」「間抜けさ」ばかりが際だつ一幕であった。
 要するに、酒井法子は「覚醒剤取締法」を犯した女優として(その経験を「芸の肥やしとして」)再出発することを、記者会見で「宣言」したのであり、そこで「流した涙」は、精一杯・迫真の「演技」、彼女の「復活劇」を支えるために、民放・NHKが一致協力して「加担」したということに他ならない。芸能リポーター梨元勝氏は「一芸能人としてファンや関係者に向けた謝罪の言葉はあったが、社会人としての意識、反省がどこまであるのか大いに疑問。(略)今後、復帰の話が出るかもしれないが、様子見うんぬんではなく、きっぱり引退すべきだと思う」(同紙・31面)とコメントしているが、その正論が通るかどうか、ひとえに報道メディア側の「姿勢」(視聴率至上主義を克服できるかどうか)にかかっている、と私は思う。(2009.9.18)



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2023-01-24

脱「テレビ」宣言・《社会の木鐸?「民放連」の惨状》

 東京新聞朝刊芸能欄(14面)に、「民放連会長 総務相発言に疑問」という見出しで以下の記事が載っている。〈民放連の広瀬道貞会長(テレビ朝日相談役)は21日の定例会見で、小沢一郎民主党幹事長の元秘書らが逮捕された事件をめぐり、情報源を「関係者」とする報道を「不適だ」とした原口一博総務相の発言について「(捜査の)渦中でもある時期に言う必要があったのかどうか」と疑問を呈した。広瀬会長は「取材源の秘匿は当然のこと。名前を出せればいいに決まっているが、出せない場合もままある」と説明。(中略)原口総務相は19日の記者会見で、情報源を「関係者によると」とする報道が多いことを取り上げ、「何の関係者か分からない。そこを明確にしなければ、電波という公共のものを使ってやるには不適だ」と述べた。〉この記事を読んで、私は広瀬会長が「取材源の秘匿は当然」と言いながら、一方では「名前を出せればいいに決まっている」と正反対の言辞を弄していることに疑問を持った。「出せない場合もままある」とは、どういうことか。秘匿を条件にした情報提供が「当然」なら、「名前を出さない方がいいに決まっている」のではないか。発信源が「はっきりしない」情報を「ガセネタ」(怪情報)という。情報源が「関係者」だけでは、「はっきりしない」ことは明らか、総務相が「公共の電波を使って(「ガセネタ」かもしれない情報提供を)やるのは不適だ」と述べたことこそ「当然だ」、と私は思う。もともと、秘匿を条件にした情報提供など「信ずる」に値しない。昨今のテレビ番組では、画像にモザイクを掛け、音声を変質させて放映する「報道」が蔓延しているが、番組制作者の魂胆が見え透いていて「醜悪」だ。要するに、いやがる情報提供者に「金をつかませて」、無理矢理「引っ張り出した」情報に過ぎないのである。民放連会長の言う「(名前を)出せない場合」の具体例であろう。そこまでして、情報を売らなければならない(視聴率を稼がなければならない)「民放連」の惨状は「目を覆うばかり」、もはや「社会の木鐸」とは無縁の存在になり果てているのである。(2010.1.22)



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2023-01-22

脱「テレビ」宣言・《テレビの中の笑い》

 テレビに登場する面々は、ほとんどが「一様に」笑っている。カメラ目線での笑顔をどのように描出するか、が番組出演者の必須条件になっている。なるほど昔から「笑う門には福来たる」と言われているように、笑うことは、幸せにつながる早道かもしれない。とりわけ、テレビという媒体は、直接、巷間の家々、しかも居間という空間に入り込む。来訪する人物が、仏頂面をしているよりも、笑顔であるに超したことはない。だがしかし、である。それでは今、私たちは(テレビ時代以前の人々)に比べて「幸せ」になったのであろうか。フランスの劇作家、マルセル・パニョルは、「笑いについて」(岩波新書)の中で以下のように述べていたと思う。(私が読んだのは今から50年近く前のことなので、詳細は覚えていないが・・・)〈笑いには三つの種類がある。その一は、強者が弱者を嘲る笑い、その二は、弱者が強者を皮肉る笑い、その三は、強者・弱者という立場を超えて、共に喜びを分かち合う連帯の笑い、である〉。けだし卓見である、と私は思う。その昔(戦前)、日本の学生は「デカンショ節」という戯れ唄を高唱したという。曰く「デカンショ、デカンショで半年暮らす、あとの半年ャ寝て暮らす、ヨーイヨーイ、デッカンショ」。デカンショとは、哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルの由。要するに、象牙の塔で学究を重ねるおのれの姿を、半ば自慢げに、半ば自嘲げに、揶揄した作物であろう。その替え歌に曰く「教師教師といばるな教師、教師生徒のなれの果て」「親父の頭にオ香コ乗せて、これがホントの親孝行」、さらに曰く「土手の向こうをチンバが通る、頭出したり隠したり」。これらの「笑い」が、マルセル・パニョルの言う、その三の笑い、すなわち「共に喜びを分かち合う連帯の笑い」に該当しないことは、疑う余地がない。つまり、戦前の日本の学生は、弱者を嘲り、強者を皮肉る笑い(喜び)しか、味わうことができなかったのである、と言えば、言い過ぎであろうか。時は流れて、今・現在もまた、テレビの中には「笑い」が溢れている、では、その種類や如何に・・・。すべてがすべてとは言えないにしても、「デカンショ節」と同工異曲の代物が、大半ではないだろうか。今日もまた、(テレビ画面から)、間断なく聞こえてくる「哄笑」に、私は辟易としているのである。(2012.1.1)



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2023-01-21

脱「テレビ」宣言・《昔に比べ、今のバラエティーはひどいのか?》

 東京新聞朝刊・芸能ワイド版(15面)に「昔に比べ、今のバラエティーはひどいのか?」という見出しの記事が載っている。内容は以下の通りである。〈「視聴者の相当数が不快感を持っている」として昨年、放送倫理・番組向上機構(BPO))が問題点を指摘する意見書を公表したテレビのバラエティー番組。11日には、BPOの提案を受け、在京局の制作担当者らが一堂に会し「バラエティー向上委員会と題したシンポジウムも開かれるが、最近のバラエティーに“先人”は何を思うのか。テレビの黎明期からバラエティー制作に携わってきたメディアプロデューサー、澤田隆治さんが寄稿してくれた〉。寄稿の要点(私の気になる点を独断で)抜粋すると以下の通りである。①(旧知の方々、仕事でよくお会いする方々が「てなもんやは面白かった」と褒めてくれるのはうれしかったが)必ずといっていいくらい、今のバラエティー番組やお笑い番組のつまらなさ、ひどさに言及し、私に同意を求めてこられたのには困った。こちらはまだテレビの制作現場にかかわっているのだ。②常に、どうすれば視聴者が面白がってくれるかを考え、視聴者を驚かすためにかなり過激なことを出演者に要求した。③かつて私も「人間の尊厳を損なわない限り何をやってもいいと思っていた。死に物狂いで番組を当てようとする感覚は常識人のそれではない。④遠慮がちな物言いの続くBPOの意見書には「作り手」のモチベーションを下げてはいけないとの配慮が見て取れる。心配は無用だ。みんな率直な批判で心が折れるほどヤワではない。⑤55年になる私の体験によれば、景気の悪いときは安上がりのバラエティーにチャンスが回ってくる。まさに今がその時だ。
 その言辞を見ると、「今のバラエティー番組やお笑い番組のつまらなさ、ひどさ」に対する反省は微塵も感じられない。今も「こちらはまだテレビの制作現場にかかわっている」のだから、当然と言えば当然の話だが、はたしてこのような人物を“先人”と呼んでいいのだろうか。まあ「ひどさの先人」には違いないが・・・。要するに、“先人”の物言いは、「およそバラエティーやお笑いは、昔も今も《過激》で《ひどく》なければ生き残れない。制作者は「死に物狂いで」「非常識人」にならなければならない。常識人に何がわかる」といった居直り以外のなにものでもない。「人間の尊厳を損なわない限り何をやってもいい」と思っていた自分は、今、どう思っているのか。昔の戯れ唄に「土手の向こうをチンバが通る 頭出したり隠したり」(デカンショ節)という代物があった。デカルト、カント、ショーペンハウエルに学ぶ大学生が、肢体不自由の弱者を「嘲笑」している。今のバラエティー、お笑い番組に、この種の「嘲笑」は皆無だと断言できるか。「ともに喜びを連帯する笑い」「愛情を共有・共感する微笑」は僅少、そのほとんどが相手を見下した、あざけり、さげすみの「哄笑」(馬鹿笑い)ではないか、と私は思う。例えば肥満、例えばチビ、例えばハゲ、例えばブス、そうした芸人(タレント)が「自分を笑いものにして」稼ぐことは自由である。ただし、その「笑い」が「さげすみ」「見下し」のままで終わることなく、「みんな違っていい」「人間の価値に優劣はない」といった「人間の尊厳」(人権尊重)に繋がるかぎり・・・。といっても、「死に物狂い」の「非常識人」には通じないか。(2010.3.11)



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2023-01-20

脱「テレビ」宣言・《ドラマ「警官の血」(テレビ朝日)の評価》

 東京新聞の朝刊に目を通すと、芸能欄に興味深い記事が3本載っていた。いずれも、テレビドラマ「警官の血」(テレビ朝日開局50周年記念50時間テレビミステリー・ドラマスペシャル)の感想を述べたものである。その1、プロ・コラムニスト醍醐味氏曰く〈・・・まれに見る傑作だった。戦後六十年、正義のために生きた親子三代の警察官の闘いを二夜連続、五時間で描いた大作だ。(略)テレビドラマの可能性が実感できた作品だったといってよいのではないか。警察社会の闇、そしてそれに翻弄された祖父、父をも保身のために利用する三代目のしたたかさ。幾多のドラマにありがちな甘い正義感やセンチメンタルで終わらなかったところも感慨を呼ぶ〉(「からむニスト」・14面)。その2、アマ・56歳の教員曰く〈三代にわたる警察官の一族が味わった悲しみは、日本社会の複雑で混濁した側面を象徴しており、深い波紋を投げ掛けていた。戦時中から現代に至るまでの社会的状況を、二つの別の糸で鋭くえぐり出し、見応えのある秀作であった〉(「反響」・15面)。その3、アマ・71歳女性曰く〈期待して見ましたが、駆け足で何を言わんとしているのか分かりませんでした。最後は暴力団まがいのシーンが多く、あれが警察の仕事かと思いました。まじめで正義感あふれる日本の警察のイメージが崩れた思いです〉(同)。プロのコラムニストと中高年教員が「傑作」「大作」「秀作」と評しているのに反して、(おそらく無職または主婦の)老女性にはドラマの「意図」が全く伝わらない。一方が「幾多のドラマにありがちな甘い正義感やセンチメンタルで終わらなかった」と感動しているのに、他方は「まじめで正義感あふれる日本の警察のイメージが崩れた」と慨嘆する、そのコントラストが何とも興味深かった。いったい、ぜんたい、その「対立」は奈辺に起因するのであろうか。まさに「日本社会の複雑で混濁した側面を象徴している」感があった。専門家と教員の評価が「一致」しているとすれば、その「対立」は、間違いなく「エリート」と「素人」、「インテリ」と「庶民」といった構図上に起因するものであり、その溝は「永遠に埋まらない」だろう、と私は思う。日本社会の「悲劇」はドラマの中だけでなく、実社会の中で「現在進行中」であることをあらためて確認できた次第である。ちなみに、件のドラマ「警官の血」を私自身は一瞥もしていない。とうの昔に「脱テレビ宣言」をしている身にとっては、テレビドラマなど、つゆほどの関心も持ちあわせていないからである。
(2009.2.15)



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2023-01-19

脱「テレビ」宣言・《テレビの功罪》

 この五十年の間にテレビが果たした役割は,日本の文化の主流を「活字文化」から「映像文化」に変換させたことであろう。「百聞は一見に如かず」という言葉があるように,テレビから流れる「映像」は一目瞭然であり,「活字」(文字言語)になじめない人々でも容易に親しむことができた。その結果,日本人は「情報」を共有することができ,それまで差があった「知識」の量や生活の形態が画一化したのである。今,世界各地や国内の津々浦々で起きている「出来事」を,私たちは「ほぼ同様に」知っている。衣食住等の「生活」に関する情報は均等・均質化され,日本人は「ほぼ同じ」衣服に身を包み,「ほぼ同じ」物を食べ,「ほぼ同じ」家屋や市街の中で暮らすようになったのである。それは正にテレビの功績であろう。
だが,「映像」という視覚情報に頼りすぎると,大きな弊害が生じることもたしかである。まず第一に,映像は人間の想像力を摩滅する。モノクロがカラー化し,画像が鮮明化すればするほど,私たちは自らの想像力を失い,より刺激的な映像を求めるようになるのである。第二に,映像は人間の集中持続力(精神的なスタミナ)を脆弱にする。音声は「空気の振動」であり始点から終点へという「時間」のなかで存在する。音楽であれ言語であれ一定時間集中持続しなければ,情報を鑑賞・理解できない。しかし,映像は「空間」のなかに存在するから,一瞬にして「感知」することができるのである。画面は,文章をたどり読みするように「追視」する面倒がない。その結果,文学の世界においても童話,民話,小説等に代わって,マンガ,アニメ,劇画等のジャンルが主役になろうとしている。
 第三に,映像は,人間の「錯覚」を増幅する。いわゆる「超常現象」(マジック)などはその極め付きであり,私たちはテレビ漬けになることによって,科学的な真理とは無縁の「迷信」を確信するようになるかもしれないのである。
 業界が例の「視聴率」の虚妄な数値を信じ,センセーショナル(扇情的)で低俗な「映像」を安易に売買,垂れ流し続けている限り,これらの弊害は拡大され,テレビは深刻な「罪過」を犯すことになるだろう。
やがて,日本はデジタルテレビの時代を迎えるという。その前に,テレビの功罪についてさらに詳細な検証をしておくことが大切だと,私は考える。(2004.4.1))



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