META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 幕外閑話」
2ntブログ
QLOOKアクセス解析
2023-03-18

幕外閑話・「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社・1997年)

 「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社・1997年)読了。宮沢賢治の「歌妓」、萩原朔太郎の「流行歌曲について」を筆頭に、以下、竹中労、池田弥三郎、見田宗介、五木寛之、小泉文夫、新藤謙、井上ひさし、清水邦夫、寺山修司、筒井康隆、富岡多恵子、鶴見俊輔、大岡昇平、村松友視、中上健次、浅川マキ、竹西寛子、天沢退二郎、色川武大、諸井薫、橋本治、中野翠、久世光彦、山折哲雄、四方田犬彦といった面々の「名随筆」が編まれている。著者は、詩人、小説家、評論家、哲学者、演出家、学者など様々な分野の「著名人」であり、ひとり浅川マキだけが歌手として参加している。浅学のため未知の著者も多かったが、作物全体を通して、いくつかの「共通点」が感じられた。「演歌」(流行歌・歌謡曲)がテーマであるにもかかわらず、それと正面から向かい合う姿勢で綴られたものは少ない。編者自身、「あとがき」で「『演歌』は、(略)感情的真実へのあまりといえばあんまりな密着性によって、しばしば低俗と見なされ、知識人や高級音楽愛好者が眉をひそめて軽侮の色をかくさないのは、それなりに故なしとしないのであろう」と述べているように、知識人である著者の面々には、「その低俗とは距離をおきたい」「単なる演歌愛好者だと思われたくない」といった無意識がはたらいているのだろうか。(低俗な)「演歌」とは別の(高級な)「知識」を引き合いに出しながら(ひけらかしながら)、それを強引に(無理矢理)「演歌」に結びつけようとする傾向が感じられた。歌手・浅川マキの作物以外、ただ一編を除いては・・・。その一編とは、詩人・萩原朔太郎の「流行歌曲について」である。冒頭部には「現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答えるだろう。現代の日本は、実に『詩』を失っている時代である。そして此所に詩というのは、魂の渇きに水をあたえ、生活の枯燥を救ってくれる文学芸術を言うのである。然るに今の日本には、そうした芸術というものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレッタンチズムになって居るし、政府の官営している学校音楽というものも、同じように民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現している芸術は、蓄音機のレコード等によって唄われている、町の流行歌以外にないのである。僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る」と、書かれている。野口雨情は措くとして、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー、藤浦洸といった作詞家は、もともと「詩人」を目指したが、こと志に反して「やむなく」流行歌の世界に身を置くはめになったのかも知れない。しかし、詩人・萩原朔太郎は、その作詞家の作品に「聴き惚れて居る」ことを白状している。そのことが、大変おもしろかった。(2008.2.20)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1

2023-01-14

幕外閑話・「日本の名随筆・芸談」(和田誠編・作品社・1996年)

 「日本の名随筆・芸談」(和田誠編・作品社・1996年)読了。私自身の煩悩のため、「芸人風情が随筆なんて十年早い」と思いながら、徳川夢声、山本嘉次郎、五代目・古今亭志ん生、團伊玖磨、藤原義江、黒澤明、美空ひばり、嵐寛寿郎、芥川比呂志、六代目・三遊亭円生、野村万作、高峰秀子、二世・尾上松緑、森繁久弥、加藤武、池部良、マルセ太郎、小沢昭一、山下洋輔、立川談四楼、吉田日出子、鴨下信一、岩城宏之の芸談を読んだ。八木正生、井原高忠、黒柳徹子、長嶺ヤス子、倉本聰の作物は、読まなかった。 功を遂げ、今や有名人となった芸人の談義には、とかく下積み時代の苦労話や、途上における自慢話がつきもので、鼻持ちならない。この書物の中、でただ一編、素晴らしい作物があった。それは、マルセ太郎の「和っちゃん先生」という随筆である。「和っちゃん先生」とは、知る人ぞ知る「日劇ミュージックホール」の座長格の芸人・泉和助(父は陸軍大将、日本の敗戦時に自決)のことで、彼を師と仰ぐマルセ太郎との交流が、さわやかな筆致で描かれている。苦労話も、自慢話もない。ただひたすら「和っちゃん先生」の類い希なる実力と芸域の広さが述べられているだけである。なかでも「まず教わったとおりにやれ」という一節に、私は感動した。<コメディアンたちは何度も出番があって、結構忙しい。一回しか出番のない僕は、それがうらやましかった。何かの景が終わって楽屋にコメディアンたちが戻ってきたとき、その中のSが、和っちゃん先生に、厳しく叱られていた。怒るところを見るのは珍しいことである。いつも誰彼なしにジョークを連発して陽気に笑っていたから、側にいた僕は、自分が叱られているかのように緊張した。事情は、Sが演技に迷って、和っちゃん先生に工夫を質ねたらしいのだが、Sは教わったとおりにやらなかったのである。Sの弁解は、その工夫は和っちゃん先生だからできることで、自分には向かないと判断したからだと言う。「だったら何故俺に訊いたのだ。簡単に、何でもかんでも相談するんじゃない。いったん教わったら、まず教わったとおりにやれ。お前な、道を訊いてだよ。その角を右に曲がれと言われたら、ともかく右に曲がるだろう。それで見つからなかったら、今度はお前の判断だ。初めっから右に曲がらなかったら、教えてくれる人に失礼じゃないのか」真理である。僕の周りにも、やたら教えを乞う芸人たちがいた。そういう連中に限って、ほとんど教えをきいてない。自信のある芸人は滅多にひとに訊かないし、何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている。>
 現役時代、私もまた職場で同様の経験をしている。近頃では、大衆演劇を見聞した感想を各劇団の座長に送付しているが、彼らは文字通り「何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている」のである。 
 また、こんな一節もあった。<ある晩舞台がはねた後、上機嫌の和っちゃん先生がみんなに、これから飲みに行こうと声をかけた。僕はわくわくして、そんな中に交わることのできる自分が、いかにもプロの芸人になったような気分だった。コメディアンの一人が、彼は割合売れていて、といっても、その頃はラジオだが、「すみません、NHKの録音取りがありますので、僕は失礼させていただきます」早々と帰り支度のできた彼は、そう丁寧に断って行きかけるのを、和っちゃん先生は呼びとめた。やさしく笑いながら。「そういうときはな、(小指を立て)これが待っていますので、と言うんだよ。ハイ、行ってらっしゃい」このときのことは強く印象に残っていて、忘れることがない。芸人仲間への粋な心遣いを教わった。>
 さらに、<日劇ミュージックホール時代の和っちゃん先生は、脂ののったときでもあったが、いまいうところのメジャーではなかった。僕でさえ、日劇に出るまでは全く知らなかったから、一般には無名である。(略)何かの時に和っちゃん先生は言ったことがある。「俺が先生と呼ぶのは、榎本のおやじを除いて、森川のおじちゃんだけだ」「男はつらいよ」の初代おいちゃん、森川信のことである>という一節もあった。そして、<昭和四十五年(1970)二月二日、和っちゃん先生は、誰にも看とられず、独り逝った。五十歳だった。何と、僕とわずか十四歳しか離れていなかったのである。そしていま、僕は和っちゃん先生の年齢をはるかに越えている。>という終章。
 マルセ太郎の芸談は、終始「和っちゃん先生」について語りながら、あくまで控えめに自分自身を(「和っちゃん先生」のおかげ自分の現在があることを)語っているのである。まさに「文は人なり」、彼の品格の高さを窺わせる名随筆であった。(2008.2.17)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1

2023-01-13

幕外閑話・若手座長の《試練》

 私の独断・偏見によれば、それまで十代の若手花形として活躍していた役者が、抜擢されて副座長、若座長に昇格したとたん、たちまち精彩を欠き、自分の個性を発揮できなくなってしまうという事例は少なくない。たとえば「劇団春陽座」の澤村かずま、「桐龍座恋川劇団」の恋川純、「橘小竜丸劇団」の橘龍丸、「長谷川武弥劇団」の長谷川桜、「宝海劇団」の宝海大空、「劇団花吹雪」の桜京之介、桜春之丞などなど、そして最近では「逢春座」の若座長・浅井雷三といった面々である。浅井雷三は弱冠二十歳、実に魅力的な実力者である。その魅力とは、抑えた三枚目。何気ないセリフが笑いを誘う。天性の喜劇役者なのだが、劇団の事情で、おいそれとはいかない。兄の浅井春道が劇団を抜け、その穴を埋めなければならない立場に追い込まれたからである。十代の花形役者なら自由奔放に活躍できるが、座長ともなると、それなりの格式、品格が求められるのだろう。三枚目だけでは「座長」としての責任は果たせないという不文律があるのかどうか、詳細は不明だが、いずれの場合も、花形時代の輝きが薄れてしまうことが、実に残念である。
 そんな中で、かつての「鹿島順一劇団」、二代目・鹿島順一(現・甲斐文太)の采配は見事であった。彼が最も大切にしたことは、座員それぞれの「個性」であった。「ウチの座員は個性的です。みんなが花形です。なかにはハナクソ、ガタガタもおりますが・・・」と、冗談交じりに(口上で)述べていたが、みずからは座長でありながら、平然とちょい役、斬られ役を甘受する。それぞれの舞台には、それぞれの主役が登場し、しかもその主役を随時に交替できるという「離れ業」をやってのけた。観客は、同じ演目の芝居でも、配役が変わることによって全く違った景色・風情を楽しむことができたのである。舞台の上で、役者は同等、主役も端役もない、まして「太夫元」「座長」などという肩書きには何の意味もない、といったポリシー(哲学)が貫かれていたと私は思う。「鹿島順一劇団」は、その後、座長が三代目(甲斐文太の一人息子)に変わり、座員の変動により2年間休演状態
を余儀なくされたが、この9月から「再出発」したと聞く。三代目もまた父のポリシーを引き継ぐことができるかどうか。
 全国に150余りある「劇団」は、つねに曲折浮沈を繰り返す。役者の面々は、どこの舞台に身を置くとしても、おのれを大切にし、その「個性」をかけがえのない《魅力》として磨き上げるように精進していただきたい。とりわけ、若手座長に昇進した面々がその試練に耐え、大輪の花を咲かせるよう念願する。
(2016.9.13)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


スポンサードリンク


プロフィール

e184125

Author:e184125
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
ブログランキングNO1
ブログランキングNO1