META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 幕間閑話
2ntブログ
QLOOKアクセス解析
2023-12-21

幕間閑話・季節は冬、頑張れ「劇団・火の車」!

インターネットに「0481.jpからのお知らせ」という記事が載っている。その内容は以下の通りであった。〈皆様こんにちは。いよいよ年末も差し迫って参りました。 皆様、いかがお過ごしでしょうか。年末商戦の真っ直中に選挙があり、北朝鮮はミサイルを発射すると云っているし、勘三郎さんは亡くなってしまった。なんか、世の中の歯車が狂っています。そんな中、劇団の公演先も一つずつ閉館していく今日この頃、大衆演劇界も冬を迎えています。需要と供給のバランスが崩れて来ています。公演先が減る一方で、劇団数は増えずとも現状維持の状況。当然に、休演する劇団が出てきます。休演を避けるための安売りをしたのでは、出演料のバランスまで崩れて劇団経営が成り立たなくなってしまう。数ある劇団の中でも、各公演先に引っ張りだこの劇団は一割程度。各、興業社は頭を痛めています。劇団も、人気を得て話題となるようより一層努力し、興行師も将来を見据えて劇団を育て、公演先を一つでも多く開拓していく努力をしなければなりません。ひと昔前のように、待っているだけの時代はとうに終わっているのです。そう感じて、0481.jpを起ち上げました。0481.jpがあることによって少しでも大衆演劇が話題となり、新しい公演先が一つでも増え活性化のお役に立てれば幸いと思っております。0481.jpをご利用の皆様、大衆演劇を利用したイベントをどうぞ企画してください。0481.jpのTOPページにある「お問い合わせ」から連絡をください。または、下記まで連絡をお願いいたします。〉(以下略)
(2012.12.8)。
 私が、大衆演劇を初めて観たのは、昭和46年(1971年)。爾来40余年が経過したことになる。この間、若葉しげる、深水志津夫、旗丈司、松川友司郎、五月直次郎、見海堂駿、辻野光男、梅沢武生、金井保、長谷川正二郎、若水照代、大日向満、大導寺はじめ、見城たかし、東千之介、辻野耕輔、山口正夫、里見要次郎、沢村千代丸らの時代を経て、都若丸、市川千太郎、小泉たつみ、近江飛龍、姫京之助、筑紫桃太郎、南條隆、樋口次郎、三河家桃太郎、桜京之介、寿美英二、かつき夢二、龍千明、松丸家小弁太、春川ふじお、荒城真吾、玄海竜二、沢竜二、大川竜之助、藤間智太郎、鹿島順一・・・(数え上げればきりがない)らの舞台を見聞してきた。筆者いわく〈大衆演劇界も冬を迎えています。需要と供給のバランスが崩れて来ています。公演先が減る一方で、劇団数は増えずとも現状維持の状況。当然に、休演する劇団が出てきます。休演を避けるための安売りをしたのでは、出演料のバランスまで崩れて劇団経営が成り立たなくなってしまう。数ある劇団の中でも、各公演先に引っ張りだこの劇団は一割程度〉。おっしゃる通り!だがしかし、私の独断と偏見によれば、大衆演劇界は、つねに「冬」でなければ意味がない。〈冬枯れの野べとわが身を思ひせば燃えても春を待たましものを(伊勢・古今791)〉という古謡もあるではないか。
 今、全国各地では「恒例」の座長大会が行われている。例えば、①九州演劇協会 定例座長大会■開催日時2012年12月7日(金)■場所 ユーユー・カイカン■料金指定S席8,000円指定A席6,500円指定B席5,000円※当日券は+500円、②おぐら座 定例座長大会■開催日時2012年12月10日(月)■場所おぐら座■料金S席 8,000円 A席7,000円昼夜S+S席14,000円昼夜S+A席13,000円昼夜A+A席12,000円、③澤村心座長襲名5周年・澤村かずま座長襲名座長大会■開催日時2012年12月14日(金)■場所 新開地劇場■料金前売指定7.000円当日8,000円自由6,000円、④和・一信会 友情特別公演■開催日時2012年12月14日(金)■場所羅い舞座 京橋劇場 ■料金前売指定3,000円 当日指定 3,500円、⑤同魂会年末座長大会■開催日時2012年12月14日(金)■場所博多新劇座 ■料金A席6,500円B席6,000円C席5,50円・・・。  いずれも、入場料金は「通常」の、2~5倍以上、もはや「大衆」(私)の「入る幕」はないのである。「需要と供給」のバランスが「価格」で決まる(保たれる)のは経済の常識、金満家の客筋ばかり当てにすれば、需要が減るのは当然であろう。「大衆演劇」の神髄は《低料金で「もどき」の芸が観られること》、今日もまた、20名そこそこの観客を相手に、渾身の力を振り絞って「芸道に精進する」劇団がある。そしてまた、そうした劇団を引っ張る(稀有な)「公演先」(芝居小屋)も、(わずかながらに)あることを、私は信じて疑わない。たしかに、今は「冬」、しかし、多くの先達が蒔かれた(珠玉の)種は、したたかに芽生え、「冬牡丹」(個人舞踊)のような名花を咲かせているのだ。がんばれ大衆演劇!そして、劇団「火の車」!
(2012.12.14)
大衆演劇お作法 (ぴあ伝統芸能入門シリーズ)大衆演劇お作法 (ぴあ伝統芸能入門シリーズ)
(2004/03)
不明

商品詳細を見る




にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


2023-03-12

幕間閑話・名曲「ダンディ気質」の歌い手《模様》

 昭和(戦後)の名曲に、「ダンディ気質」という作物がある。リリースは昭和23年、作詞・清水みのる、作曲・大久保徳二郎、歌手・田端義夫、ということで、歌詞は以下の通りである。〈花のキャバレーで 始めて逢(お)うて 今宵ゆるした 二人のこころ こんな男じゃ なかった俺が 胸も灼きつく この思い ダンディ気質(かたぎ) 粋なもの
唄と踊りの ネオンの蔭で 切った啖呵(たんか)も あの娘のためさ 心一すじ 俺らの胸に 縋(すが)る純情が 離さりょか ダンディ気質 粋なもの 赤いグラスに なみなみついだ 酒に酔うても 心は酔わぬ 渡る世間を 狭(せば)めて拗(す)ねて どこにこの身の 春がある ダンディ気質 粋なもの〉。田端義夫といえば「わかれ船」「かえり船」「玄海ブルース」「大利根月夜」が有名だが、この「ダンディ気質」は、イントロを聞くだけで、心うきうき、鋭気・覇気・元気が湧き上がってくる代物である。「ダンディ&気質」というタイトルを筆頭に、以下の歌詞も、キャバレー、ネオン、グラスといった「洋風」の景色に対して、「始めて逢うて」、「酒に酔うても」といった「和風」(文語調)の心象が入り混じり、昭和20年代の「歓楽街」の風情を彷彿とさせる。戦後日本の活気に溢れた「和洋折衷」歌謡の典型的な作物であろう。今でも、(ユーチューブで)、往時の田端義夫の《粋な》歌声を十分に堪能できるとは何と幸せであろうか。私がこの歌を初めて聞いたのは、松竹映画「東京キッド」(監督・斎藤寅次郎、主演・美空ひばり、共演・川田晴久、堺駿二、花菱アチャコ、榎本健一・1950年)の中であった。文字通り、「花のキャバレー」(唄と踊りのネオン街)を流し歩く演歌師・川田晴久が「ダンディ気質」を歌い出すと、それを聞いた占い師・榎本健一が「憑かれたように」踊り出す場面は抱腹絶倒、まさに、心うきうき、鋭気・覇気・元気を湧き上がらせることの「証し」であった。さらに、もう一人、この名曲を見事に歌い上げた歌手にアイ・ジョージがいる。アイ・ジョージもまた「流し」出身、(最近発売されたテイチクのCD全集「アイ・ジョージ ベストコレクション」によれば)「硝子のジョニー」「赤いグラス」「道頓堀左岸」などの持ち歌から、「ラ・マラゲーニア」「ベサメ・ムーチョ」「キサス・キサス」などの十八番に加えて、「荒城の月」「城ヶ島の雨」「叱られて」「うぐいすの夢」などの歌曲・童謡、「戦友」「麦と兵隊」「戦友の遺骨を抱いて」などの軍歌、「小諸馬子唄」「佐渡おけさ」などの日本民謡、「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」などのロシア民謡、さらには「スワニー」「聖者の行進」「ムーン・リバー」などなどのスタンダード・ナンバーに至るまで、そのレパートリーは広く、歌唱力も群を抜いている。その彼が、おそらくライブ・コンサートの中で、ほんの余興として歌った「ダンディ気質」の一節は珠玉の逸品。ギターの弾き語りで「花のキャバレーで 始めて逢(お)うて 今宵ゆるした 二人のこころこんな男じゃ なかった俺が 胸も灼きつく この思い ダンディ気質(かたぎ) 粋なもの」と弾むように明るく歌い終えると、ナント、口三味線で「スチャラカチャンチャン・スチャラカチャン・・・」、その声音の「やるせない」「投げやりな」風情こそが、この歌の《真髄》とでも言えようか、彼(および私たち)の人生が一点に凝縮されているようで、私の(感動の)涙は止まらなかった。(2014.3.24)
東京キッド [DVD]東京キッド [DVD]
(2007/05/25)
美空ひばり、川田晴久 他

商品詳細を見る




日本直販オンライン
QVCジャパン
にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1



2023-03-11

幕間閑話・「常連」と「贔屓」

大衆演劇評論家・橋本正樹氏は、「大衆演劇『公式』情報サイト・0481.JP」・《演劇の楽しみ方》の中で、「ファン気質」について以下のように述べている。〈大衆演劇のファンは、女性が八割を占める。近年若い女性も増えてはいるが、それでも中年以上の女性が圧倒的に多い。そのファンたちだが、ヘルスセンターに行く団体客を除外すると、次の二つに分類される。一つは、公演にくる一座を満遍なく見ている常連客だ。小屋の周辺に住む人が多く、芝居通といえる。役者の巧拙を見る目が確かであり、ストーリーに即して主人公の心情を我が事のように受け止めて、泣き、笑い、拍手し、舞台を十分に堪能する。常連が舞台そのもののファンであるのに対し、役者個人を応援するのが贔屓客である。劇団を全面的に援助する後援者と、ファンクラブの会員とに分けられるが、いずれにしろ熱狂的な贔屓となると、一座が巡業する先々まで追いかけ、一万円札を貼り付けたりする。三吉演芸場は、芝居好きの常連客に支えられている常打ちの小屋だと、僕は見ている。〉したがって、ひとくちにファンと言っても、「常連」と「贔屓」では、「楽しみ方」が異なるわけだが、楽しむ内容は「共通」または「一致」している、と私は思う。要するに、彼らは、劇団員(役者)との「出会い」を楽しんでいるのだ。芝居や舞踊の舞台景色は「二の次」にして、「握手をした」「会話をした」「プレゼントをした」「茶・会食をした」等々、役者が舞台を降りてからの「交流」(逢瀬)を楽しむのである。当日の舞台は、その「導入」に過ぎない。結果、開幕前には「開演中は、他のお客様の御迷惑にならぬよう、お静かに観劇くださいますようお願い申し上げます」等といった、「言わずもがな」のアナウンスが繰り返されることになるのだろう。しかし、中高年の女性が八割を占める客席は、そんなことにはお構いなし、どこ吹く風と聞き流す。そこで、劇団にも意地がある。開幕直前には、音響のボリュームをいっぱいに上げ、ざわついている客席に向かって「静かにしないか!」と言う無言のメッセージを送る羽目になるのではあるまいか。それはともかく、「常連」「贔屓」の共通点は「出会い」を楽しむだけに留まらない。彼らは、一様に「馴れ馴れしい」、「親密」といえば聞こえはいいが、つまりは「優位に立って」、役者連中を「見下している」気配が窺われる。まさに「贔屓の引き倒し」といった按配であろうか。斯界の雑誌「演劇グラフ」初代編集長・上松ミナ氏は「大衆演劇こぼれ話」というブログで、(いみじくも)以下のように綴っている。〈一つの劇団や一人の役者さんを、ずっと長く応援し続ける。そんなファンはどうしても、まるで親戚のおばちゃん(もしくはおじちゃん)のようになってゆく。そうすると段々、「観劇イコール舞台を楽しむこと」だけではなくなってしまう。幕が開くと、「みんな元気かな?」と、舞台上の座員さんたちの様子をチェック。もし元気のない子がいたら、送り出しでドリンクの1本でも手渡しながら「頑張りや」と肩をたたく。子役さんのヨチヨチ歩くだけの踊りにも、手が痛くなるほどの拍手を送る。大衆演劇らしい、人情味あふれるシーンだ。しかし、これが一歩間違えると困ったことになりかねないのだ。我が子を溺愛する母親のような、甘々な盲愛ファンに変貌してしまうと…。もう、何でもオッケー!やる気がなくて愛想が悪かろうが十年一日のごときマンネリ芝居でお茶を濁そうが客入りの悪さを口上挨拶で愚痴ろうが大好きな役者の言うこと、することは一切否定しない。そればかりか「○○さん、さすが!」「今日も最高です!」と持ち上げ、褒めて褒めて褒めまくる。誰だって褒められるのは好き、けなされるのは嫌だから、○○さんの周りは熱烈ファンで固められ、裸の王様状態になっていく。そういうのは褒め殺しって言うんだけどな。本当は、一番残酷な足の引っ張り方なんだけどな〉。おっしゃるとおり!(私も全く同感である)。その端的な事例は、「舞踊ショー」の舞台、御贔屓の役者に「花を付ける」場面で現れる。まだ舞踊が終わらないうちに、あるいはこれからという時に、彼らは「堂々と」舞台の最前列まで歩み寄り、「容赦なく」役者を「呼び寄せ」、その胸元に万札を貼り付けるのだ。役者も役者、扇子を投げ出して「はせ参じる」、それが可愛いといって拍手大喝采・・・、といった光景が日常化している昨今だが、舞台は二の次、役者と「贔屓」の交流が最優先されている証しといえよう。(私の独断と偏見によれば))大衆演劇の世界では、観客の方が「強い」のだ。(すべてとは言わないが)「常連」も「贔屓」も、役者より自分の方が「エライ」と思っているに違いない。加えて、各劇団には、時として、寄生虫のような「2チャンネル」情報も襲来する。その「裏舞台」では、役者の誰もが「不純」で「不健全」なアウトロー役を演じさせられてしまう。つまり、情報提供者は、役者を「人並み以下」の「人非人」と決めつけることで、むなしい「優越感」を味わいたいのだろうが、それは「天に向かって唾を吐く」ことに他ならない、と私は思う。とまれ、各劇団の役者連中は、そうした(いわれのない)「人権侵害」(蔑視・白眼視)を甘受しながら、今日もまた(表舞台では)「至芸」の数々を演じ続けていると思うと、私の(くやし)涙は止まらない。(2012.4.5)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1




2023-03-10

幕間閑話・《音響》

大衆演劇の音響は、つねに「大音響」であることが特徴である。役者の条件は「一声、二振り(顔)、三姿」といわれているが、その「一声」を描出すべき「音響効果」に、致命的な問題が生じている、と私は思う。芝居に登場する役者の面々は、一様に「ピンマイク」を装用している。観客数は多くて200人程度、通常は数十人ほどなのに・・・。その結果、役者のセリフは、つねに同一のスピーカーから聞こえてくる。舞台の景色は、テレビ画面と同様に、「奥行き」が感じられない。役者の位置によっては、けたたましいハウリングに見舞われるといった有様で、なんとも無惨な状景を招いてしまうのだ。衣装・化粧には、相当の気配りをしているのに、音響効果に関してはどの劇団も無頓着すぎないか。(一時期、「近江飛龍劇団」「劇団桐龍座・恋川純弥劇団」がピンマイクをはずし、珠玉の舞台を展開したが、最近では「元の木阿弥」になってしまった。「剣戟はる駒座」では、いちはやく舞台に「集音マイク」を設置し、この問題解決を図ったが、今も続いているだろうか)また、舞踊・歌謡ショーで流される音曲のボリュームも、耳をつんざくような大きさで、マスキング(耳栓)が不可欠となる。パチンコ店内、右翼街宣車、選挙運動スピーカー、等々に比べても、大差はない。ディスコダンス・ライブを模しているのかもしれないが、客筋の8割を中高年女性が占めている現状では、いささか「場違い」ではないだろうか。・・・・、(と思ったが)いや、そうではない。むしろ、だからこそ、「大音響」が必要であることに、今、気がついた。つまり、「大音響」という惨状を招いているのは、劇団ではなく、客筋の方に問題があるのではないか。私の独断と偏見によれば、開幕直前まで、客席はざわついている。幕が開き、芝居が始まっても客席はざわついている。お目当ての役者(多くの場合、座長)が登場して、はじめて舞台に注目する、といった按配で、だとすれば、必要以上の「音量」で客の視線を集めようとする目論見は、至極もっともな話である。「音がした方を振り向く」という行為は、人間の生理的現象(反射)なのだから。客席がうるさければうるさいほど、それ以上の「音量」で客を惹きつける他はない。したがって、件の「大音響」は、いわば、(お静かにという)「警報サイレン」に他ならないのである。とはいえ、その目論見(手法)は、悲しすぎないか。落語、講談、浪曲など「大衆演芸」の(かつての)名人たちは、冒頭、必要以下の(聞こえにくい)「音量」(声)で「語り始めた」という。それに応えて、往時の観客たちも、耳を澄まして注目する。その「阿吽の呼吸」こそが「至芸」の源泉になったのだから・・・。以下は、私の妄言だが、有力な「劇団」は、つねに「客席」を満たさない(「大入り」(採算)など歯牙にもかけず、客筋との「呼吸」を大切にする)。観客が少なければ少ないほど、客席は静まり、舞台の景色が映える(舞台での精進を重ねることができる)からである。10人に満たない観客の前で、今日もまた「国宝(無形文化財)級」の名舞台が展開しているに違いない。そこでは、もはや「大音響」は不要、私の耳栓も「出番はない」であろう。「ピンマイク」「ハウリング」「大音響」といった、およそ舞台芸術とは無縁の代物が「大手を振っている」限り、「大衆演劇」の実力は向上しない。しかも、その要因は、「劇団」の側ではなく、観客(大衆)自身が招いていることを肝銘しなければならない、と私は思う。(2012.4.9)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


2023-01-17

幕間閑話・《ブログ表示凍結》譚

  昨日、2010年3月に開設した拙ブログ「脱テレビ宣言・大衆演劇への誘い」が、突然「表示凍結」されてしまった。理由は①利用規約に違反したこと、②ユーザーに多大な迷惑をかけた、ということである。そのブログには2008年以来8年間に亘って見聞した「劇団素描」「役者点描」「劇場界隈」等の記事が、およそ450余り掲載されている。私は少なからずショックを受けたが、「すんだことは仕方がない。ワープロにバックアップしてある原稿をたよりに、また新しいブログを開設することにするか」と覚悟を決めた。でも、口惜しい、私がいったいどんな規約違反をしたのか、どんな迷惑をかけたのか、それが知りたくて、念のためFC2に問い合わせたところ、ほぼ1日たって、以下の回答が返ってきた。〈平素よりFC2をご利用いただきありがとうございます。FC2事務局でございます。このたびは、ブログの誤凍結によりお客様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。今回のブログ凍結の原因は、弊社キーワードによる自動検出システムにて、お客様のブログを誤って検出してしまった事にあります。弊社にてお客様のブログの凍結を解除させていただきました。つきましては、お手数ですがお客様のブログの表示および管理ページへのログインをご確認ください。〉ナーンダ、そうだったのかと、ひとまず安堵したが、ふりかえると、その程度のことに、少なからずショックを受け、悔しがっている自分が情けなく、まだまだ「修行が足りない、古稀を過ぎてもこのザマだ」と、おのれの未熟さの方に、大きなショックを受けた次第である。(2015.12.9)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


続きを読む

2023-01-16

幕間閑話・十八世中村勘三郎の「死因」

私の独断と偏見によれば、十八世中村勘三郎の「死因」は、「勘三郎」という名跡を襲名したことにある。彼は、あくまで「勘九郎」でいなければならなかった。父・十七世中村勘三郎は、「勘三郎」という名に値する、独自の芸風を持っていたが、子・十八世中村勘三郎は、それを踏襲・かつ乗り超えることができただろうか。残念ながら、「否」である。昭和40年代末期、十七世中村勘三郎は、息子の勘九郎、娘の波乃久里子を連れて、東京千住の寿劇場にやってきた。公演は、大衆演劇の「山口正夫劇団」。座長の山口正夫と、弟子の一人が親友で、今日は「友情出演」するとのこと、勘三郎は、その弟子の舞台を観る(勉強する)ために、わざわざ下町場末の芝居小屋まで足を運んだのである。息子や娘に「芝居の神髄」を学ばせたい、という気持ちがあったのかもしれない。たまたま、私もその場に居合わせたが、座長・山口正夫と弟子の「舞姿」を見比べて、驚嘆した。一方は大衆演劇界屈指の人気者、他方は無名の歌舞伎役者、しかし、その「風格」には、文字通り「雲泥の差」が生じていたのである。その弟子が誰であったかは思い出せないが、その上品な景色は、未だに私の脳裏に焼き付いている。当時の勘九郎は十代後半、その光景を糧にして、以後の演劇活動を展開したに違いない。さて、中村勘九郎の舞台姿は、子役時代から輝いていた。まだ6・7歳の頃でっあったろうか・・・、「白波五人男・勢揃いの場」で、どん尻に控えた「南郷力丸」を、(今の団十郎、幸四郎ら、先輩連中に混じって)見事に演じた姿が忘れられない。また、日活映画「戦争と人間・第一部」(監督・山本薩夫)では、貧しい労働者に共感する、伍代財閥の次男・俊介役を懸命に演じていた。父親役・滝沢修と「五分で渡り合い」、階級社会に疑問を抱く純粋な14,5歳の姿が、鮮やかに描出されていた、と私は思う。だがしかし・・・、子役時代のスターが、成人後も輝き続けるとは限らない。中村勘九郎の芸風を一言で言えば「器用」、どんな役でも「達者」にこなすが、その先「余韻」が感じられない。要するに、「アッケラカンのパッパラパー」で終わる「役どころ」が「はまり役」といえよう。例えば、(世話物の)「法界坊」、例えば「蝙蝠安」、例えば「髪結新三」あたりまでだろうか。「勧進帳」の弁慶・富樫、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助 、「平家女護島」の俊寛となると「荷が重い」。NHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年)の大石内蔵助もひどかった。大竹しのぶ、安達祐実を相手に「地」のままの「スッピン芸」としか、私には思えなかった。しかし、それはまだ、勘九郎時代のこと、また「テレビ芸」の余興として、大目に見ることもできよう。ネット情報では〈舞台・ドラマの「忠臣蔵」で、今まで大石主税・大石内蔵助・浅野内匠頭を演じており「これで吉良上野介を演じたら、忠臣蔵グランドスラムになりますね(笑)」と、吉良役のオファーが来るのを楽しみにしていた。〉などと書かれているが、それが中村勘九郎の「芸風」なのである。しかるに、2005年、彼は(その芸風のまま)「十八世中村勘三郎」を襲名した。それが、何を意味するか、彼は気づいていただろうか。父を超えようとして、父の芸風を消してしまったのである。父・十七世中村勘三郎の芸風は「軽妙・洒脱」、加えて「侠気」もあった。「哀愁」もあった。まだまだ勘九郎(ごとき)が襲える名跡ではあるまいに・・・。 かくて「勘九郎」も「勘三郎」も、永遠にこの世から消え去ったという次第、まことに残念な話である。(2012.12.5)
戦争と人間 第一部 運命の序曲 [DVD]戦争と人間 第一部 運命の序曲 [DVD]
(2005/12/09)
滝沢修、芦田伸介 他

商品詳細を見る




にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1

2023-01-15

幕間閑話・大歌舞伎名門「御曹司」の《醜態》

大歌舞伎名門の御曹司が「酒の上の不始末」で醜態を晒している景色は、文字通り「無様」としか言いようのない「有様」だが、それをネタに「一儲け」を企むマスコミ・ジャーナリズムの面々も見苦しい限りである。もともと、この御曹司(父と同様)、大した実力もないのに、ミーハー連中の「人気」を盾にして、「自分の芸は《無形文化財》に値する」などと。とんでもない錯覚をしていることが問題なのである。〈作家の利根川裕さんは「類いまれな歌舞伎役者の素材であることを本人がもっと自覚して、自分を大事にして一日も早い復帰を」と望む〉(東京新聞12月8日朝刊 )〈「江戸っ子と助六」などの著書がある演劇評論家の赤坂治積さんは「役者は表現者として、酸いも甘いもしっておくほうがいい。悪人も演じるのだから」と一定の理解を示す。「品行方正な優等生が演じても、面白みがない。役者は小さくまとまらず、破天荒なところがあっていい。それを世間も容認していた〉(同・12月9日朝刊)などといった「世評」が、そのことを裏付けている。御曹司のどこが「類いまれ」なのか。どこが「破天荒」なのか。私は数年前、御曹司の舞台・世話物狂言「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)を見聞しているが、白塗りの二枚目・なよなよした清心が、一転「悪人」に変化(へんげ)する場面を観て驚いた。何だこりゃ!?、役者が「地」に戻っただけではないか。ただドスをきかせて凄むだけ、「悪人を演じる」風情とは無縁であった。まあ、大衆などという代物は所詮「ミーハー」、見る眼がないといえばそれまでの話だが、どうしてどうして「大衆演劇」の役者の方が、御曹司など足元にも及ばない「名演技」を披露している。例えば「仇討ち絵巻・女装男子」の鹿島順一、「三島と弁天」の小泉ダイヤ、「弁天小僧・温泉の一夜」の橘龍丸、「身代わり街道」の白富士健太、「女小僧花吹雪」の梅乃井秀男等々・・・、数え上げればきりがない。さだめし「品行方正な優等生」の著名人には、およそ知るよしもない役者連中であろう。彼らは、しがない「旅役者」、その日その日の劇場で、その日その日の演目(日替わり)を、数十名の観客を相手に、「日にち毎日」演じ続けているのである。座長口上の決まり文句は「未熟者揃いの劇団ではありますが、どうか千秋楽までお見捨てなきよう、よろしくお頼み申し上げます」。今、件の御曹司にとって必要な修業は、そのような精進、そのような謙虚さを学ぶことである。間違っても今回の騒動が「酸いも甘いもかみ分けるよい機会になった」などと思い上がってはいけない。大衆演劇の役者に比べて「十年早い」のである。そんな折、大歌舞伎界、稀代の名優・阪東玉三郎が、御曹司の代役を引き受けたという。曰く「一月が空いており、お引き受けしなければと思った。お声がかかるうちが花。東京での公演は(4月の)歌舞伎さよなら公演以来。やる以上はお正月らしい華やかな舞台にしたい」と語った。(同・12月10日朝刊)さすがは名優、その心がけ(根性)が違う。「お声がかかるうちが花」、その謙虚さこそが「至芸」の源泉であることを、私は確信した。一見「品行方正な優等生」と見られがちな坂東玉三郎こそ、「酸いも甘いも噛み分けた」稀代の歌舞伎役者であることを見落としてはならない。(2010.12.10)
ペリドットさざれ石(200g) 8月の誕生石のパワーストーン 夫婦円満の石ペリドットさざれ石(200g) 8月の誕生石のパワーストーン 夫婦円満の石
()
なちゅら ストーンマーケット

商品詳細を見る

坂東玉三郎 舞踊集2「鷺娘」 [DVD]坂東玉三郎 舞踊集2「鷺娘」 [DVD]
(2003/06/25)
坂東玉三郎

商品詳細を見る




にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン



2023-01-10

幕間閑話・芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の《眼目》

芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の眼目は奈辺にあるのだろうか。序幕第一場、取手の宿・安孫子屋の前、土地の乱暴者・舟戸の弥八(28、9歳)が巻き起こす騒動を二階から、ほろ酔い機嫌で涼しげにに眺める酌婦のお蔦(23、4歳)、たまたまそこに通りかかった力士志願の駒形茂兵衛(23、4歳)の「絡み」から物語は始まるのだが、見せ場は、何と言っても、一文なしの茂兵衛に、お蔦が自分の有り金全部(巾着)はおろか、身につけている櫛、簪まで呉れてやる場面であろう。茂兵衛いわく「貰って行ってもいいのか。後で姐さんが困りゃしないか」応えてお蔦「あたしあ、年がら年中困りつづけだから、有っても無くっても同じことさ。遠慮しないで持ってお行き」茂兵衛「半分貰います」お蔦「しみったれな、今に横綱になる取り的さんじゃないか」茂兵衛「だってな、わしも一文なしで困ってきたんだ、姐さんだって一文なしでは」お蔦「やけの深酒とは毒と知りながら、ぐいぐい呷って暮らすあたしに、一文なしも糸瓜もあるもんか。お前さんは大食いだろうから、それじゃ足りない、これもあげるから持ってお行き。(櫛と簪を髪からとる)茂兵衛「いいよ、いいよ、そんなに貰わないでもいいよ」しかし、お蔦は、櫛と簪を扱帯に結びつけて二階から垂らす。茂兵衛は嗚咽しながらそれらを頂戴、絞り出すような声で「わしこんな女の人にはじめて逢った」。この「絡み」の中で浮き彫りされる心象は、「互いに相手を思いやる温もり」である。それは「慈悲の心」であって「愛」ではなかった。事実、当時のお蔦には舟印彫師・辰三郎(25、6歳)といういろ情夫がおり、子どもまで宿していたのだから・・・。一方、茂兵衛の心には、抑えきれない慕情が芽生えたとしても無理はない。そこらあたりを、浪曲師・二葉百合子は見事に詠いあげる。「山と積まれたお宝さえも 人の情にゃ代えられぬ なんで忘れよ花かんざしに こもる心を
受けて茂兵衛の こらえ泣き」(作詞・藤間哲郎、作曲・桜田誠一)。「一本刀土俵入り」という題名の歌謡曲には、三橋美智也(作詞・高橋掬太郎、作曲・細川潤一)、三波春夫(作詞・藤田まさと、作曲・春川一夫)、村田英雄(作詞、作曲者・不詳)島津亜弥(作詞・高月ことば、作曲・村沢良介)、浪曲では、春日井梅鶯、芙蓉軒麗花らの作物があるようだ(そのすべてを知り尽くしてはいない)が、そのほとんどが、茂兵衛の立場から、茂兵衛の心象を描出しようとしている。だがしかし、二葉百合子は違う。前節に続いていわく「厚い化粧に涙をかくす 茶屋の女も意地はある まして男よ取的さんよ 見せてお呉れな きっとあしたの晴れ姿」(歌謡曲版)ここで描かれるのは、お蔦の心象、それも茂兵衛を思いやる「慈悲の心」に他ならない。さればこそ、その思いを受けとめた茂兵衛の慕情が「いや増し」て、えもいわれぬ景色が彩られるのである。続いて、また、二葉百合子は詠う。「利根の堤の秋草を 破れ草鞋で踏みしめる 駒形茂兵衛のふところに 残るお蔦のはなむけが 男心を温めて 何時か秋去り冬も行き、めぐる春秋夢の間に、十年過ぎたが 番付に駒形茂兵衛の名は見えず お蔦の噂も何処へやら 春の大利根今日もまた 昔変わらぬ花筏」(脚色・吉野夫二郎)序幕第一場から、大詰め第一場・布施の川べり場面への「つなぎ」(間奏)としては素晴らしく、無情に流れた十年の年月が、宝石のように結晶化している、と私は感じる。さて、大詰めの見せ場は、第三場・軒の山桜、(イカサマをして逃亡中の)辰三郎を追いかけてきた波一里儀十一家の面々を叩きのめし、茂兵衛いわく「飛ぶには今が潮時でござんす。お立ちなさるがようござんす」辰三郎「お蔦から話を聞きました。僅かなことをいたしましたのに」茂兵衛「いらねえ辞儀だ。早いが一だ」お蔦「(人の倒れ伏すを見て)あッ」茂兵衛「なあに死切りじゃござんせん。やがて、この世へ息が戻る奴ばかり」辰三郎「それでは茂兵衛さん。ご丈夫で」お蔦「お名残が惜しいけれど」茂兵衛「お行きなさんせ早いところで。仲良く丈夫でおくらしなさんせ。(辰三郎夫婦が見返りながら去って行くのを見送り)ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」おそらく、茂兵衛の土俵入りは「言葉」だけ、先ほどの「棒ッ切れを振り廻し」た《立ち回り》こそが、しがねえ姿の「土俵入り」であった筈である。その証しは一目瞭然、波一里一家の面々は「死切りじゃござんせん。やがてこの世に息を吹き返す者ばかり」だったではないか。茂兵衛の目的は、あくまでも「恩返し」、無用な殺生など「御免被りたい」という心根が感じられる。その源は、またしても「慈悲の心」、言い換えれば「見返りを求めない」「与えるだけの思いやり」ということになるのだ、と私は思う。二葉百合子は、大詰め幕切れで詠う。「逢えて嬉しい 瞼の人は つらい連れ持つ女房雁 飛んで行かんせ どの空なりと、これがやくざの せめて白刃の仁義沙汰」。その中には、「慈悲の心」に綯い交ぜされた、茂兵衛の「慕情」が仄見える。もしかして、その白刃とは、瞼の人・お蔦への「執着」を断ち斬るために不可欠な、恰好の得物だったのかもしれない。
 そんなわけで、この物語に一貫して流れる「仁義沙汰」とは、「慈悲の心」、自分をかえりみず相手に尽くす、見返りを求めない思いやり、だと思われるが、それが前半では、酌婦という「賤しい稼業」(なげやり)の立場から、失意のふんどし担ぎに施されたこと、また後半では、方屋入りをし損なった無宿者(アウトロー)から、無力な(飴売りの一家族)に施されたことを見れば、文字通り「一寸の虫にも五分の魂」といった風情が、この芝居の《眼目》かもしれない。さらに、「瞼の人」への執着を絶ち斬らねばならない「愛別離苦」という空気も添えられて、長谷川伸の作物の中でも、珠玉の名品に仕上がっている代物ではないだろうか。私の脳裏には、かすかに、「新国劇」島田正吾の茂兵衛、香川桂子のお蔦という舞台姿が残っているだけ・・・、それ以上の舞台を「大衆演劇」で観てみたい。



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


2022-10-11

幕間閑話・大歌舞伎「御所五郎蔵」と「身替座禅」

午後10時30分から、NHK教育テレビ「芸術劇場」(大歌舞伎・「御所五郎蔵」「身替座禅」)視聴。「御所五郎蔵」の配役は、五郎蔵・仁左衛門、星影土右衛門・左団次、傾城皐月・福助、甲屋与五郎・菊五郎他、この芝居のキーパーソンは、傾城皐月であり、見せ場は、その五郎蔵に対する「あいそづかし」(実は見せかけ)の場面だと思われるが、福助の「力量不足」で、その雰囲気を醸し出すことができない。福助は、児太郎時代、若手女形として多くの可能性を秘めていた。しかし大御所・中村歌右衛門の薫陶を受け(させられ)、その芸風を踏襲する(せざるを得ない)立場になってから、本来の「初々しさ」「茶目っ気」、「コミカルな」表情・所作が影を潜め、歌右衛門流の「型」にはまってしまったように感じる。目をつぶって口跡だけを聞いていると、「まさに歌右衛門」そのものなのだ。私の独断と偏見、邪推によれば、歌右衛門は、女形の「伝統」「品格」を最も大切にした役者であり、「大衆受け」する阪東玉三郎的な「芸風」を「品がない」と切り捨てたのではないか。私自身、昭和20年代の舞台を見ているが、当時、女形として活躍していた歌右衛門、尾上梅幸、(時には中村時蔵)などよりも、片岡我童、澤村訥升の「艶姿」の方が印象に残っている。ただ一つ、歌右衛門の「当たり役」として、「東海道四谷怪談」の「お岩」は出色であった。特に、「髪梳きの場」以降、亡霊になった「お岩」が「伊右衛門」を苦しめる姿(所作・口跡・表情)は、何とも恐ろしく、迫真の演技であった。以来、「歌右衛門といえばお岩」という連想がこびりついてしまい、どんなに華やかな舞台であっても、歌右衛門の姿を見るたびに「お岩の亡霊」を感じてしまうのである。
 福助が歌右衛門を目指すことに異論はない。それが大歌舞伎の「伝統」というものであろう。ただ、歌右衛門の芸風に盲従すればするほど、「大衆」から離れた世界に落ち込んでしまうのではないか、と私は思う。 
 「身替座禅」の配役は、山陰右京・団十郎、太郎冠者・染五郎、奥方玉の井・左団次。奥方をだまし、愛人のところへ駆けつけるまでの団十郎は「まあまあ」だったが、遊興から帰宅した後の所作(舞踊)が、いかにも「退屈」である。それが現・団十郎の実力であり、仕方がないとはいえ、奥方・左団次の所作が秀逸なだけに、残念である。日頃は「立ち役」の左団次が、奥方玉の井を演じるのは余興。重厚であり、かつ涼しげな風情を感じさせる「上品」な姿であったが、一転して悋気に狂った表情は「立ち役」そのもの、そうではなく、鬼気迫る「般若」(女性)の気配が欲しかった。(2008.1,25)
歌舞伎名作撰 曽我綉侠御所染 -御所五郎蔵- [DVD]歌舞伎名作撰 曽我綉侠御所染 -御所五郎蔵- [DVD]
(2007/01/26)
歌舞伎

商品詳細を見る




日本直販オンライン
QVCジャパン
にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン
2022-05-27

幕間閑話・大衆演劇は「○○芝居」?

 昨晩、ハンドルネーム・Andorra氏(以下A氏という)から、私の拙いブログ記事「脱テレビ宣言・大衆演劇への誘い」にコメントがついた。その内容は以下の通りである。〈大衆演劇見るなら 高いお金出してでも歌舞伎や文楽、宝塚、商業演劇等が観たいなあ。 あんな人間のクズで形成された紙芝居以下に1円も払うのは私はゴメンですよ。〉げに、ごもっとも!私は心中で快哉を叫んだ次第である。おそらく、日本の「大衆」は、A氏と「五十歩百歩」の見解をお持ちのことであろう。大衆演劇の劇団員、関係者は「人間のクズ」、舞台の内容も「紙芝居以下」、まさに言い得て妙。他氏からは、「○○芝居」というコメントまで寄せられたこともある。それが、「大衆」の一般的な評価であることは間違いあるまい。さればこそ、大衆演劇の常連、贔屓筋は多く見積もっても2万人(日本人口の0.02%)程度に過ぎないのである。しかし、「一寸の虫にも五分の魂」、クズにはクズの「意地」(矜持)がある。その代表である私自身の見解では、「大歌舞伎」「宝塚」「商業演劇」の入場料は高すぎる。しかも客席にランクをつけて、大枚な金を払えば払うほど優遇されるというシステムは許しがたい。加えて舞台の内容は「紙芝居程度」、老いさらばえ、呂律も回らない大御所連中で形成された(似而非)歌舞伎、ギンギラギンに飾り立てた「学芸会」並の宝塚、映画・テレビ界から締め出された(あるいは掛け持ちの)大物・小物俳優連中で形成された商業演劇など、「高いお金をもらっても」御免蒙りたい。要するに、冗長・退屈の極み、時間の無駄なのである。「人間」であるA氏と「クズ」である私の見解は正反対、文字通り「見解の相違」ということになるのだが、さらに蛇足を加えれば、「人間」には「○○」の有り難さがわからない。自分が垂れ流した排泄物でありながら、ことのほか忌み嫌う理不尽さに気づかない。「クズ」は「○○」とともに生きている。「○○」の意味・有り難さを知っている。日本の伝統的な農業は「○○」によって支えられていた。昭和中期までの野菜の「味」は、「○○」の賜であったことを知っている。昨今の野菜は農薬まみれ、「見栄え」ばかりを尊重して、品質は「無味乾燥」、まさに歌舞伎、宝塚、商業演劇の舞台と「瓜二つ」ではあるまいか。「○○芝居」の大衆演劇には、「味」がある。その「味」とは、「情」であり「恩」であり「温」であり「絆」であり「慈」であり、とどのつまりは「人間の尊厳」(人権尊重)まで標榜していることを、「クズ」は知っているのである。(2013.8.21)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1

2022-05-24

幕間閑話・ユーチューバー・「みずにゃん」の闘い

 ユーチューブを検索していたら「みずにゃんちゃんねる」というサイトを見つけた。これがたいそう面白い。「みずにゃん」と称する青年が、アダルト動画の架空請求業者らと電話で「やりとり」する場面を「自撮り」している映像である。
 要するに、青年は、①ショートメールで法外な金額の請求が届いたが、登録した覚えはない。どういうことか。②これからどうすればよいか。③金額の支払いはどうすればよいか。④金額が十万円を超えているので、直接、御社に届けたい。御社の所在地を教えてもらいたい。といった問いかけをする。電話の相手方は、当初(③までは)、いかにも親しみやすく、丁寧に応対していたが、④になると、態度が豹変する。「何で、こちらの住所まで教えなければならないのか」「お金を届けるためですよ」「コンビニに行って支払い手続きをすればよい」「払わなかったら、どうなるんですか」「法的手続きに入るまでだ」「どういう手続きですか」・・・、などという「やりとり」が続き、しまいには、相手方が一方的に電話を切る。青年は、執拗にリダイヤルする。相手方は「いったい、何なんですか。もう電話しないでください。オタク、何なの?」「ボクはユーチューバーです。御社のような架空請求業者をなくすために電話をしています。会社の責任者を出してください」「・・・・・」。代わった相手は一言「ウルセー!」。「え?ウルセーってどういうことですか。モシモシ、御社の住所を教えてください。」後は、ツー、ツー、ツーという機械音が鳴るだけ、青年が何度リダイアルしても、電話は不通となった。
 以上は、一例に過ぎない。(思い出すままに書いたので正確ではないかもしれないが、大意は合っていると思う。)青年は、悪徳詐欺師を餌食として、月60万~70万円の収入を得ているという。高齢者の私にとっては信じられないことだが、世の中変われば変わるものだ。一青年の闘いが、蔓延する悪徳を撲滅できれば、それにこしたことはない。
 老婆(老爺)心ながら、この青年と相手方(悪徳業者)との間に、露ほどの「密約」がないことを祈る。さらに言えば、青年はあくまで、一個人の被害者として、「自分を守る」ために闘うべきであり(そのような振りをして相手を騙すべきであり)、他の被害者のために助力をする必要はない(という振りをした方がよい)。その闘いが広がれば広がるほど、費やすエネルギーも拡大し、矛先が鈍るからである。くれぐれも身辺警護を怠らず、油断のないように。古い話だが、作詞家・水木かおるも以下のように警告している。「泣いた女がバカなのか だました男が悪いのか」「どうせ私をだますなら死ぬまでだまして欲しかった」(「東京ブルース」曲・藤原秀行、唄・西田佐知子)
(2017.3.13)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ



2022-05-22

幕間閑話・大衆演劇の「裏舞台」(2チャンネル)

御多分に洩れず、大衆演劇の「裏舞台」は、インターネット「2チャンネル」(掲示板)で展開する。その演目の多くは「あやしい」「できた」「振った」「振られた」「寝取った」「くっついた」「離れた」等々、要するに役者相互の「醜聞痴話」に他ならず、加えて、投稿者同士が「豚!」「塵!」「滓!」・・・、と罵り合う有様で、なんとも見苦しい限りである。ある人は「2チャンネル」を「痰壺」と表したそうだが、まさに言い得て妙、(今は昔となった)共同便所の落書きにも劣る代物といえよう。「罵詈雑言」の使用例を学ぶには、恰好の教材だと言えなくもないが、(いにしえの)「二条河原の落書」(の格調)には遠く及ばず、まさに(現代)日本人の「道徳」も地に落ちた証しが示されているのである。古来より「付和雷同」は人の常、「野次馬根性」も日本人の伝統だが、匿名の発言には「礼儀・仁義」が不可欠である。つまり、弱者が強者に「もの申す」時に限って、(おのれの身を守るために)「匿名」が許されるのであった。相手を誹謗・中傷ずるのなら、まず自ら「姓名を名乗る」ことが鉄則でなければならない。しかるに、「2チャンネル」の投稿者連中は、一様に「名無しさん」と称して、役者連中の「醜聞痴話」を捏造し続けているのだ。投稿者と役者を比べれば、どちらが強者か・・・、その(コメント)の言い回し(文章表現)を見れば 一目瞭然、(例証するまでもなく)役者を「呼び捨て」「あしざまにする」ことは日常茶飯事、そのことだけで、未だに(旧態依然と)「河原乞食」扱いしている、投稿者の「優越感」が窺えるのである。したがって、「2チャンネル」掲示板は、強者である投稿者が、弱者である役者を「からかい」「あざけり」「さげすむ」ことによって、「自分たちは、まだましだ」という「安堵感」(快感)を味わうためにある、といっても過言ではないだろう。その根底には、《役者の私生活は「人並み以下」(不健全・不純・無節操・不道徳)、だから何を言われてもしょうがない》という蔑視・差別意識が横たわっているに違いない。悲しくも、むなしい現実である。「裏舞台」で「人非人」役を演じさせられる役者連中の心情を思うと、言葉を失うばかりだが、終わりに一言、声をかけたい。「各劇団、各役者一同様、『2チャンネル』の情報はすべて(嘘八百の)「絵空事」、取り沙汰されるのも『芸のうち』と受け流して、『裏舞台・名無しさん』連中の(取るに足らぬ)三文芝居を(どこ吹く風と)お楽しみください」。(2012.4.12)



にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1



スポンサードリンク


プロフィール

e184125

Author:e184125
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
ブログランキングNO1
ブログランキングNO1