META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 花の歌謡絵巻
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2023-03-19

花の歌謡絵巻・二葉あき子の《歌唱力》

 二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かしし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカーチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004年5月15日)



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2023-03-17

花の歌謡絵巻・寺山修司の作物二つ

 歌人・寺山脩司は「作詞家」でもあった。その作物に「浜昼顔」という佳作がある。詠って曰く「家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径 日ぐれ径 たった一度の恋なのと 泣いてた君は人の妻 ぼくは空ゆくちぎれ雲 ここはさい涯北の町 北の町 ひとり旅立つ思い出に 旅行鞄につめてきた 浜昼顔よいつまでも 枯れるなぼくの愛の花 愛の花」。なるほど、一語として無駄がない。まさに歌人が描く「不倫の世界」、現実とはうらはらに、どこまでも「さわやか」で「澄みきった」景色ではないか。寺山は幼くして父と死別(父は戦死)、母とも長い間(成人するまで)別居生活を余儀なくされたのだから、「家のない子」の心情を詠いあげることは、文字通り「自家薬籠中」の「得意技」であることに間違いはない。それにしても、まだ未成熟、くちばしの黄色い小僧っ子の「ぼく」が、豊満で油ののりきった「中年増」を「きみ」と呼ぶなんぞは十年早い。いやいや、「たった一度の恋」などと、泣き濡れるところを見れば、この「人妻」、「この世の花」もどきの「幼妻」かもしれない。さすれば、「ぼく」の同級生か・・・。いずれにせよ、「(流行)歌は三分間のドラマ」、作曲家・古賀政男、歌手・五木ひろしの「協力」(演出)もあって、たいそう鮮やかな(心に響く)作物に仕上がっていた、と私は思う。とりわけ寺山同様、「家のない子」であった私自身にとっては、「ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径」といったフレーズは、まさに「殺し文句」、ただ頭を垂れて「納得」してしまうのである。他方、寺山には「時には母のないい子のように」という作物もある。詠って曰く「時には母のない子のように だまって海を見つめていたい 時には母のない子のように ひとりで旅に出てみたい だけど心はすぐわかる 母のない子になったなら だれにも愛を話せない 時には母のない子のように 長い手紙を書いてみたい 時には母のない子のように 大きな声で叫んでみたい だけど心はすぐわかる 母のない子になったなら だれにも愛を話せない」。本当にそうだろうか。本当に寺山は「母のない子」の「心はすぐわかる」のだろうか。事実として「母のない子」であった私自身の率直な感想では、「母のない子になったなら だれにも愛を話せない」のは、その通り「真実」である。でも、そのことは「だまって海を見つめ」たり、「ひとりで旅に出て」みたり、「長い手紙を書いて」みたり、「大きな声で叫んで」みたりすることとは、必ずしも(いや絶対に)結びつかないのである。「母のない子」が「愛を話せない」のはなぜか。歌心を削ぐようで気が引けるが、「母のない子」は(少なくとも私自身は)は、「だれも愛することができない」のである。「愛」とは「相手を必要と感じる心」だが、子どもにとって最も必要な「母」が「ない」(無)ということはどういうことか。いつでも、どこでも、その「喪失感」「空虚感」「不満感」から逃れることはできない、言い換えれば、つねに「心が満たされることはない」ということである。その心は、海を見つめても、ひとりで旅に出ても、長い手紙を書いても、大きな声でさけんでも、決して「満たされること」はない。そしてまた「淋しくも、悲しくもない」のである。その荒涼とした「孤独感」、無味乾燥な心象世界を、歌人・寺山修司はどれほど「わかって」いたか。加えて、その「偏った」「独りよがり」な「心」を引きずったまま「大人」になりすましている、私のような人物もいるということを知っていたか。というわけで、「時には母のない子のように」(作曲・田中未知、唄・カルメン・マキ)という作物は「月並み」な「凡作」に過ぎない、というのが私の「偏見」なのである。(2010.2.16)



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2023-03-16

花の歌謡絵巻・二葉百合子引退・《昭和は遠くなりにけり》

歌手・二葉百合子(78歳)が引退を表明した。昨今、すでに賞味期限が切れているのに、なおも舞台に執着し続ける芸能人が多い中で、「元気な今だからこそ、上げた幕を下ろすことを決心しました」「声の出るうちに辞めると自分に言い聞かせてきました」(「東京新聞3月18日朝刊・14面〈二葉百合子 来年三月引退「恵まれた芸人人生」〉)といった心がけは、なんとも潔く「お見事」と言う他はない。同記事には〈三歳で浪曲師として初舞台を踏んだ二葉は歌謡浪曲のジャンルを確立させ、「岸壁の母」のヒットで1976年のNHK紅白歌合戦に出場〉とあり、二葉といえば「岸壁の母」といったイメージが強いようだが、私は肯かない。「岸壁の母」は、もともと歌手・菊地章子の作物で、二葉はそれをリカバーしたに過ぎない。菊地の芸風といえば、戦前は「清純・純情派」、戦後は「星の流れに」での「闇市派」、それを踏まえて、「岸壁の母」へと辿り着く。その変遷は、日本人中流階級の凋落を象徴しているようで、どこかインテリの郷愁を誘う品格が感じられた。一方、二葉の芸風はあくまでも「浪曲師」、大衆・庶民派の空気がただよい、芸者、ヤクザ、相撲取り等々、どちらかと言えばアウトロー気味の描出がお似合い、中流階級の風情とは一線を画している。抑留された息子を待ち続ける堅気の母親よりは、旅籠宿の女房を離縁され、息子を捨てて「水商売」、出世して料亭の女将におさまった「瞼の母」の方が適っていることは間違いないところであろう。事実、二葉が確立した歌謡浪曲のジャンルの中で、屈指の名作は「瞼の母」「一本刀土俵入り」であると私は確信する。彼女の歌謡浪曲は、あくまでも浪曲の中に挿入された歌謡曲を際だたせることが眼目である。浪曲の内容は「語り」「セリフ回し」「名調子」(歌唱)で構成されるのが常道だが、件の二作物を聴けば「一目瞭然」。例えば「瞼の母」は冒頭、「瞼瞼とじれば 会えてたものを せめてひと目と 故郷をすてた あすはいずこへ 飛ぶのやら 月の峠で アアおっ母さん 泣くは番場の忠太郎」という歌唱で始まり、幕切れは再び「一人 一人ぼっちと 泣いたりするか 俺にゃいるんだ 瞼の母が 孝行息子で 手を引いて お連れしますぜ アア おっ母さん 旅のからすであの世まで」という名調子で終わる。また、例えば「一本刀土俵入り」では、中盤の名場面で「山と積まれた お宝さえも 人の情にゃ 代えられぬ 何で忘れよ 櫛かんざしにこもる心を 受けて茂兵衛は こらえ泣き」という歌謡曲(作詩・藤間哲郎、作曲・桜田誠一)を挿入、終章で再び「逢えて嬉しい 瞼の人は つらい連れ持つ 女房雁 飛んで行かんせ どの空なりと これがやくざの せめて白刃の 仁義沙汰」と唄って締めくくる。すなわち、二葉百合子の歌謡浪曲は、挿入された「歌謡曲」のために「語られて」いるのだ、と私は思う。さればこそ、「語り」と「セリフ回し」の風情が、その「歌唱」と響き合い、絶妙のコントラストで、物語の景色を描出するといった「至芸」が実現するのである。これまでに「瞼の母」では、伊丹秀子、天津羽衣、中村富士夫、「一本刀土俵入り」では春日井梅鶯、三門柳の作物を聴き比べたが、いずれもが「語り」「セリフ回し」が中心の構成で、「歌唱不足」の物足りなさは否めない。それもそのはず。彼らは浪曲師、二葉百合子は歌手と呼ばれる所以であろう。それにしても、私が敬愛する歌手・二葉あき子も高齢、加えて二葉百合子も引退となれば、ますます「昭和は遠くなりにけり」というところか・・・。(2010.3.18)



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2023-03-14

花の歌謡絵巻・「哀愁海峡」(扇ひろ子)の《リフレイン》

2012年12月28日(金) 雨
午後2時30分から、小岩湯宴ランドで「扇ひろ子ショー」を見聞する。会場は超満員、観客のほとんどが「高齢者」、出演者も1945年生まれの「高齢者」とあって、双方の呼吸はピッタリ(阿吽)、たいそう盛り上がった舞台であった。聞けば、扇ひろ子、来年で「歌手生活50周年」を迎えるとか、御同慶の至りである。さて、幕開けの一曲は「花のおんな道」、続けて(トークを交えながら)「哀愁海峡」「東京ラプソディ」「星の流れに」「ろくでなし」「愛燦々」「越前海岸」「修羅の道」「夢路坂」「新宿ブルース」(全10曲)を一気に(1時間で)歌いきった。舞台を降りようとすれば、「アンコール!」の大合唱、再び登場して「哀愁海峡」を熱唱、無事、終幕となった。扇ひろ子といえば「新宿ブルース」だが、その気配は、どちらかと言えば「侠気」、一方「哀愁海峡」は、女の「諦念」が鮮やかに描出されていて感動的である。「おんなの海峡」(都はるみ)、「他人船」(三船和子)、「哀愁出船」(美空ひばり)、「未練の波止場」(松山恵子)、「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)なども、同じモチーフの作物だが、それらとは「一味違った」空気を漂わせている、と私は思う。因みに、その歌詞は以下の通りであった。〈①瞼とじても あなたが見える 思い切れない その顔が 赤い夕日の 哀愁海峡 波を見つめて ああ ゆく私 ②私ひとりが 身を引くことが 所詮あなたの ためならば 鴎泣け泣け 哀愁海峡 女ごころの ああ 悲しさを ③せめてあなたも 忘れずいてね こんなはかない 夢だけど 未練だきしめ 哀愁海峡 越えるわたしを ああ いつまでも〉(作詞・西沢爽、作曲・遠藤実)。この歌詞の特長は、最終句で「終わらない」という点にある。最終句の「余韻」が前の句に「戻っていく」のである。①「海を見つめて(ああ)ゆく私」が「瞼とじてもあなたが見える」、②「女心の(ああ)悲しさを」「鴎なけなけ」、③「哀愁海峡 超えるわたしを(ああ)いつまでも」「(せめてあなたも)忘れずいてね」という風に・・・。その(終わりのない)リフレインが、ひとり身を引く女の「未練」を、よりいっそう際立たせる。背景には、海(愛)の深さ、波のうねり(繰り返し)も感じられて、まさに「愛別離苦」の極致が表現されているのである。それかあらぬか、この名曲は、金田たつえ、宮史郎、青木美保、伍代夏子、森昌子らにも受け継がれ、幅広く「人口膾炙」することになった。その原曲、元祖・扇ひろ子の作物を十分に(2回も)「目の前で」堪能できたことは、望外の幸せであった。ここは、大衆演劇の檜舞台、もし、あの名優・見城たかしの(女形)舞踊が添えられていたら・・・、などと身勝手な「夢」をいだきつつ、岩盤浴に向かった次第である。
新宿ブルース/哀愁海峡新宿ブルース/哀愁海峡
(2012/12/12)
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2023-03-13

花の歌謡絵巻・淡谷のり子・「歌に恋して85年」

 ユーチューブで「歌に恋して85年 淡谷のり子 生涯現役 女のブルース」というテレビ番組を観た。その中では、淡谷のり子が80歳を過ぎても「生涯現役」を貫いた舞台姿が紹介されていたが、収録曲は17曲、その内訳は以下の通りである。
①60歳台:「別れのブルース」(昭和49年・67歳)、「雨のブルース」(昭和50年・68歳)、「夜のプラットホーム」(昭和50年・68歳)、「君忘れじのブルース」(昭和50年・68歳)、「夜が好きなの」(昭和50年・68歳②70歳台:「雨の夜は」(昭和53年・71歳)、「バラ色の人生」(昭和53年・71歳)、「巴里の屋根の下」(昭和58年・76歳)、「愛の讃歌」(昭和58年・76歳)③80歳台(ジャンジャン公演):「雨のブルース」「夜のタンゴ」「どじょっこふなっこ」「リリー・マルレーン」「灰色のリズム&ブルース」「抱いて」「恋人よ」「聞かせてよ愛の言葉を」

 「歌謡界の女王」「永遠の歌姫」などと称されている美空ひばりに対して、淡谷のり子は「ブルースの女王」と言われているが、二人の間には大きな「格差」がある。私の独断と偏見によれば、美空ひばりの歌声が光り輝いていたのは20歳台まで、作品でいえば「悲しき口笛」「越後獅子の唄」「角兵衛獅子の唄」「あの丘越えて」「娘船頭さん」「お祭りマンボ」「リンゴ追分」「お夏清十郎」「雪之丞変化」「お島千太郎」あたりまでなのである。以後、50歳台までの作品数は、主なものでも150を下らないが、佳品は「ある女の詩」「花と龍」「月の夜汽車」(いずれも30歳台)くらいであったろうか。有名な「悲しい酒」「愛燦々」「川の流れのように」などは、彼女に「勝るとも劣らず」歌いこなす歌手は珍しくない。(例えば、都はるみ、天童よしみ、文殊蘭・・・) 
 美空ひばりに比べて、淡谷のり子の作品数は、極端に少ない。なぜなら、淡谷のり子は「歌に恋して」いるからである。同じ歌を「何度でも」歌う。美空ひばりの極め付きは(吹き込み)「初盤」の一曲のみ、以後の作品がそれを超えることはなかったが、淡谷のり子は違う。20歳台に吹き込んだ「別れのブルース」は、60歳台の作品とは比べものにならないほど「淡泊」で「情感不足」、彼女はそこを起点として40余年、練りに錬り、磨きに磨いて、その作品を宝石のように光り輝かせることができたのである。
 85歳になった淡谷のり子は、番組の中で語っている。「私は《からきじ》、《じょっぱり》の上をいく、最後まで妥協しない」その確固とした信念が、かけがえのない希少作品の源泉である、と私は思う。好きなもの「音楽はシャンソン、タンゴ、クラシック、色はピンク、花はバラ、加えて、おしゃれとドライブ」、嫌いなもの「ブルースと流行歌、灰色に菊の花、ハマチ、ほうれん草、船」と示されていたが、なるほど彼女は嫌いな「ブルースと流行歌」と最後まで妥協しなかったからこそ、他の追随をゆるさない珠玉の作品を仕上げることができたのか。たとえば「愛の讃歌」、越路吹雪をはじめ多くの歌手(美空ひばり、岸洋子、加藤登紀子、美輪明宏ら)がこの作品を残しているが、76歳の時に歌った淡谷のり子を超えるものはないだろう。「歌に恋し」、その歌の背後にある「男」への「愛」が哀しくも切々と描出される。同様に、67,8歳の時に歌った「雨のブルース」「君忘れじのブルース」「別れのブルース」は圧巻、還暦をとうに過ぎまもなく古希を迎えようとする女性の歌声とは思えない。そこには、シャンソン、タンゴ、クラッシックを愛し、ピンクやバラでおしゃれを楽しむ「女」が、暗い波止場、灰色の船を厭い、「愛別離苦」の心情を吐露しなければならない「悔恨」も仄見える。とりわけ、ファルセット唱法を駆使した、ビロードのようになめらかな美声が、別れた男の面影を温かく抱擁するように感じられ、ふと彼女の胸中に飛び込みたい衝動に駆られるのである。さらに、戦地に赴く恋人を見送った「夜のプラットホーム」、厭戦の空気が漂うので「発禁」となったが、慰問先の兵士からは歓迎・所望された「作品」だという。戦後になり、二葉あき子も歌っているが、その出来映えは「いずれ菖蒲か杜若」、二葉あき子の歌声は「絹」のように透みきった清純さ、淡谷のり子には「真綿」のような温もりが感じられて、甲乙はつけられない。「柱にたたずみ、見送る私、さよなら、さよなら、君いつかえる」という心象だけが、波のように迫ってくるのである。
 80歳を過ぎ、淡谷のり子の「声量」は衰えたが、「生涯現役」を貫いた《からきじ》の「人生は奔放で型破り」、「聞かせてよ愛の言葉を」と締め括ったのに、古稀を過ぎた私には「愛をささやく歌もない」。 (2015.3.2)



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2023-03-01

花の歌謡絵巻・「美空ひばり節」考・《未完》

 詩人サトウハチローは,少女時代の美空ひばりを評して「化け物」といったそうだが,まさに美空ひばりの芸術は「化け物」のそれに他ならなかった。当時の子どもたちは,川田孝子,古賀さと子,小鳩くるみ,松島トモ子らの童謡をレコードやラジオで聞かされて育っていたのであり,美空ひばりの流行歌などを楽しむことは御法度であった。美空ひばりといえば,もっぱら劇場や映画の中で中年の大人を相手に,濡れ場のB・G・Mなどを唄っていたのからである。(松竹映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」<昭和26年>の挿入歌「京の春雨」は逸品である。)
笠置シズ子は自分の持ち歌を美空ひばりの方が巧みに唄うので,共演を嫌がったということだが,少女時代の美空ひばりは当時の流行歌手の持ち歌を本人以上にうまく唄いこなすことができた。松竹映画「悲しき口笛」<昭和24年>の中で唄う「湯の町エレジー」は近江俊郎の作品に優るとも劣ることはない。
美空ひばりの最高傑作に「りんご追分」<昭和27年>だとか「悲しい酒」<昭和41年>,「哀愁波止場」<昭和35年>,「お祭りマンボ」<昭和27年>,「波止場だよお父つぁん」<昭和31年>などを挙げる人は多いが,「角兵衛獅子の歌」<昭和26年>や,「流れのギター姉妹」<昭和27年>,「娘船頭さん」<昭和30年>を挙げる人が少ないのは何故であろうか。
思うに,美空ひばりは「今,この一曲」に全存在を賭け,全力を傾けて唄う歌手であった。したがって,「美空ひばり節」はどの作品をとっても,最初の吹き込み(初盤レコード)の出来映えを超えることができなかったのである。いいかえれば,「美空ひばり節」はどの作品をとっても「この一曲」(初盤レコードなど)にしか存在し得ないものであり,以後の作品はその亜流でしかなかった。たとえ本人が唄ったものであれ,吹き込み当初とは比べものにならないほど色褪せたものになってしまうのである。通常の歌手が「この一曲」を歌い続け,次第に光り輝く作品に仕上げていく(例・「別れのブルース」・淡谷のり子)のとは対照的である。
美空ひばりにとって「歌は命」であり,しかもそれは最初に唄う「この一曲」以外には考えられなかったのだと私は思う。ときおり,テレビの歌謡番組などで,昔の持ち歌を唄うことはあったが,それはもはや「歌の抜け殻」でしかなかった。リクエストされて,「越後獅子の歌」「悲しき口笛」「東京キッド」などを唄うことがあったが,吹き込み当初の作品を知る者(私)にとっては,耳をふさぎたくなるほど興醒めな作品でしかなかった。そのことは,誰よりも美空ひばり自身が感じていたに違いない。だからこそ,彼女は「角兵衛獅子の歌」や「流れのギター姉妹」「娘船頭さん」をあまり唄わなかったのではないか。その結果,そうした作品があることを知らない人が増え,最高傑作に挙げる人が少なくなっているのではないか。
注目すべきは,「美空ひばり節」は少女歌手「美空ひばり」の誕生とともにすでに完成していた,という点である。詩人サトウハチローが看破したのは,まさにこの一点に他ならず,わずか十二,三歳の少女が中年男女の色恋をみごとなまでに描ききるからこそ「化け物」に違いないのである。山の手に生活する文化人やその子弟の多くは「気持ち悪い」という反応を示して拒絶した。川田孝子の「みかんの花咲く丘」の方がよほど上等の文化だと感じていたに違いない。
美空ひばりは,中年になってからも「ひばりちゃん」という愛称で親しまれたが,それは彼女がとりたてて可愛かったからではあるまい。「東京キッド」「悲しき口笛」「あの丘越えて」「たけくらべ」「伊豆の踊子」など,出演映画の映像を見ても,子どもらしいあどけなさや,娘らしい初々しさはあまり感じられず,浮浪児や芸人の哀愁が漂うばかりである。したがって,美空ひばりを「ひばりちゃん」と呼んだのは,同世代の少年少女などではさらさらなく,戦後の下町で復興に夢を託した商人,庶民感覚の成人男女に他ならなかった。「貧しさ」こそが「美空ひばり節」の根幹であった筈なのである。
「美空ひばり節」の命は彼女の「声音」である。「七色の声」と評された時代もあったが,彼女の母親も見抜いていたように,「美空ひばり節」の真骨頂は彼女の「地声」である。デビュー当時から,彼女の「地声」は大人の「地声」に近かった。というより,「九段の母」や「東京ヴギウギ」「湯の町エレジー」を唄っても,少しも不自然さを感じさせず,むしろ大人の声よりも魅力的な響きをもった「声音」だったのである。彼女の持ち歌に即していえば,「越後獅子の歌」「角兵衛獅子の歌」「悲しき口笛」「東京キッド」はすべて「地声」である。努力家の彼女は「山が見えます,ふるさとの」の「が」,「わたしゃ,越後へいつ帰る」の「ご」,「笑いながらに,別れたが」の「が」などを鼻濁音で唄うのを忘れない。この共鳴が彼女の「地声」をより鮮やかにしていることは言うまでもない。さらに言えば,この「地声」は彼女の成長(変声期)とともに微妙に変化しはじめる。高音部が「地声」では出しづらくなったのであろうか,「お祭りマンボ」の「そーれそれそれお祭りだー」という一節あたりが,彼女のもっとも魅力的な「地声」の最後であったように思われる。珠玉の名品「流れのギター姉妹」や「娘船頭さん」では,明らかに「裏声」で高音部を唄うようになった。彼女の母親はその「裏声」を嫌ったといわれているが,「子どもはいつまでも子どものままでいてほしい」という親心のあらわれであろうか。いずれにせよ,「美空ひばり節」は,高音部を「地声」で唄えなくなった時点で終焉を迎えることになったのである。かつて評論家竹中労は美空ひばりを「中性歌手」と評したが,「裏声」を制限された美空ひばりには,思う存分に「女性」の歌を唄ううことができなかったに違いない。
美空ひばりの「地声」は,成人するとともにますます「太く」「低く」なり,男唄は「地声」,女唄は「裏声」でという安易な使い分けが始まる。以後は,かつての栄光に支えられただけの,並の流行歌手になりさがってしまったのである。最高傑作といわれる「悲しい酒」などは断じて「美空ひばり節」ではない。後輩の都はるみや韓国の女性歌手文珠蘭などの方が,はるかに感動的に唄いこなすことができることを銘記すべきである。「ある女の詩」(昭和47年),「花と竜」(昭和48年),「時雨の宿」(昭和57年)などは,晩年の「美空ひばり節」といえなくもないが,場末の大衆演劇の舞踊ショーでしか聞くことができない作品に過ぎない。
さて,美空ひばりの芸風は,デビュー以来ほとんど変化していないという点にも注目しなければならない。「美空ひばり節」がすでに完成した形で誕生したように,彼女の演技力もすでに完成した形で芸界(銀幕)に登場した。というより,彼女の演技力などは初めから皆無に等しく,声と同様に「地」のままで芝居をしていたという方が正確かもしれない。映画「悲しき口笛」では「チビ」と呼ばれる子ども役を演じていたが,竹中労のいうようにその性別は判然としなかった。以後,松竹映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」,東映映画「ひばりの森の石松」「ひばり十八番・お嬢吉三」「ひばり十八番・弁天小僧」「天竜母恋笠」など性別不明の役どころは枚挙にいとまがない。新東宝映画「競艶雪之丞変化」では,男女取り混ぜて三役を演じ分けているほどである。これも彼女のプロデューサーであった母親の好みであったことには疑いないとはいえ,戦後庶民の男女を問わないニーズに応えようとした試みに他ならない。戦後庶民は,完成された「美空ひばり節」を唄う一芸人の「地」の姿を,映画という場面を借りて「のぞき見」していたのである。したがって,映画作品として耐えられる作品を強いて挙げるとすれば,美空ひばりが「地」のままでも演じられる内容のものであり,「東京キッド」「悲しき口笛」そして「伊豆の踊子」あたりであろうか。その他の作品は,戦後娯楽の作品として「なつかしい」程度の感動しか呼ばない,色褪せたものになってしまった。庶民は当時の「ひばりちゃん」を見て,それを楽しんでいた過去の自分の姿に感動しているのである。
美空ひばりの「中性的芸風」はどこに起因するか。彼女の母親の要求を別とすれば,浪曲師広沢虎造と瓜二つであることに注目すべきである。「美空ひばり節」の真骨頂はその「声音」にあるが,その節回しは浪花節そのものに他ならないのである。(未完)



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2023-02-28

花の歌謡絵巻・悲歌の女王・菅原都々子の《泣きべそ声》

 菅原都々子は、昭和2年(1927年)8月15日生まれ、今日で86歳を迎えた。
平成18年(2006年)に現役を引退したが、未だに、矍鑠として、老人福祉施設などでのボランティア活動を続けている。往年の歌声は望めぬとはいえ、傘寿をとうに過ぎたのに衰えを知らぬ「歌手魂」に、私は心底から脱帽する。
 さて、彼女が「歌手」を目指したのは小学校3年の時、作曲家・古賀政男の養女になり、古賀久子という名で童謡歌手としてデビューした。当時の歌声をユーチューブで聴くことができる。曲名は「時計と鼠」(松坂直美・詞、南部鉄人・曲)、そして「銀笛と羊」(東條マリ子・詞、南部鉄人・曲)。いずれも、力強い、張りのある美声で、説得力がある。前者は「天衣無縫」な茶目っ気にあふれ(おそらく長調)、後者は、どこか「哀愁を帯びた」(おそらく短調)、もの悲しい空気が漂って、いずれも昭和前期の子どもの無垢な姿が、くっきりと刻まれている。やがて、その姿は「青葉の笛」(津山英雄・詞、堀内好男・曲、昭和11年)を経て、「ふるさとの山唄」(村松秀一・詞、陸奥明・曲・昭和18年)へと成長する。その歌声は、どこまでも「清純」で「透明」、加えて、その可憐・無垢な「節回し」が、私の心に染みわたる。彼女の父、作曲家・陸奥明の回顧(「私の愛する娘。都々子のこと」・テイチクレコード・『菅原都々子全集 想い出のエレジー』・昭和42年)によれば、古賀政男の養女になった契機が以下のように綴られている。(青森在住の父親から、都々子のテストを託された大川さんという人が)〈どうせだめだろうが一軒残っていテイチクへ行こうと娘を同伴して会社の門を叩いた。テイチクもやはり冷たい、ふと文芸部長が誰かに『その娘は』と問われほっとした大川さんは、私が依頼したテストの件を伝言した。後日知ったがその時は伴奏してくれたのが名ピアニストの杉原泰三氏、興味も手伝ったのだろう。都々子が歌った、ピアニストはじろりと睨み、もう一曲もう一曲歌わせ呆然として都々子を見詰める、その時ドカドカと二階からあわただしく降りて来たのが古賀政男先生。「もう一度歌ってごらん」と優しく望まれた。(略)二曲三曲と歌い終わった時先生はいきなり都々子を強く抱き締め「僕の探しているのはこの娘だ」と言ったそうだ〉。古賀メロディーのルーツは朝鮮歌謡にあると言われているが、そのルーツを見事に歌いこなせる娘こそ菅原都々子に他ならない、と古賀政男は確信したのであろう。事実、彼女が戦後ヒットさせた「連絡船の唄」(詞・大高ひさお、曲・金海松・昭和26年)、は朝鮮歌謡であった。また、「アリラン」「トラジ」などの朝鮮民謡も、彼女は自家薬籠中のものとして、見事に歌いこなしている。朝鮮歌謡を歌う日本人歌手は少なくないが、古賀政男が看破したように、曲想を描出する鮮やかさにおいては、菅原都々子の右に出る者はいないであろう。なぜか。まず第一に、彼女の「声」である。父・陸奥明はそれを「泣きベソ声」と評した。前出の「回顧」で以下のように述べている。〈元来娘の声は一風変わっている、友達の某作曲家も君は専門家であり乍ら何故正しい発声法を教えてやらないかと真剣に忠告された、これも又尤もである。事実その頃の女性歌手陣は十中九人までクラシックの正しい発声を身につけていてオペラ歌手にしたい人達だった。ただ娘をオペラ歌手にする積もりはなかった。あくまでも所謂時代の庶民の生活に迎合する流行歌手にしたいのが私の念願である。音色も平凡な上に変わっている。十人が十人素晴らしい声の中に一人変わった声があったら否でも応でも目立つだろ、節も自由自在なら鬼に金棒と私は信じたからだった。東海林太郎さんの歌声は波が荒いので目立った。何だあの声、素人とは言い乍ら聞いている方が恥ずかしくなる、流行歌手はあの程度かねと酷評した音楽評論家があった。一年経たぬ内に天下を取ったら東海林太郎はあれで良いのだと誉めた人が一年前に酷評した評論家だったそうだが、何だか書いていてもこんがらかる様な話だ。都々子も酷評を免れない音色である事は親父が一番よく知っているが、大衆は何を好むかその献立は種々雑多、曲とか詩に恵まれて味もついたら嫌いな人も好きになるのではないかと。この泣きベソ声がある時代を築き上げた唯一の武器となった一例をお伝えしたい〉。つまり、彼女の歌声は「庶民の生活に迎合した」平凡な音色だが、そこに「ウーウーと絞り出すようなバイブレーション」が加わることによって、オペラ歌手にはマネできない「味」が添えられているのである。第二は、「自由自在な節回し」であろう。父・陸奥明もまた、当初、大作曲家を目指したが浅草のオペラ生活になじむうち、「大衆の中の私という心境から」心機一転、童謡、義太夫、浪曲、民謡、俗曲の研究に没頭、「作曲」ではなく「巷の節作り」を標榜した由、この父にしてこの娘あり、父の作曲によるヒット作は「片割れ月」(詞・河合朗・昭和21年)、「踊りつかれて」(詞・河合朗・昭和23年)、「母恋星」(詞・荻原四朗・昭和24年)「佐渡ヶ島エレジー」(詞・荻原四朗・昭和27年)、「月がとっても青いから」(詞・清水みのる・昭和30年)、「セトナ愛しや」(詞・島田馨也・昭和31年)等々、枚挙に暇がない。加えて、平川波龍竜の「散りゆく花」(年不詳)、「憧れは馬車に乗って」(詞・清水みのる・昭和26年)、倉若春生の「江の島エレジー」(詞・大高ひさを・昭和26年)、安藤睦夫の「北上夜曲」(詞・菊地規・昭和36年)等々の名曲を残している。それらの曲調は多種多様、哀歌、悲歌はもとより、大陸風、アイヌ風、牧歌風、山の手風、青春歌に至るまで、文字通り「自由自在な節回し」が展開されているのだ。だが、待てよ、それにしても、彼女の幼い日、「都々子を強く抱き締め『僕の探しているのはこの娘だ』と言った、恩師(養父)・古賀政男の作物が見当たらないのは何故だろうか。もしかして、古賀政男の心中には「都々子、自分の好きなように、自由に歌いなさい。あなたは今のままで十分、私の出る幕はない」という想いがあったかどうか・・・。後年、菅原都々子は、古賀政男の名品「新妻鏡」をカバーしているが、私は残念にもまだ聴いていない。にもかかわらず、彼女の歌声の数々は、それに勝るとも劣らない感動を、(今もなお)庶民に与え続けていることを、私は確信する。悲歌(エレジー)の女王・菅原都々子は「永遠に不滅」なのである。(2013.8.15)



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2022-06-14

花の歌謡絵巻・「うたくらべ ちあきなおみ」の《魅力》

インターネットのウィキペディアフリー百科事典・「ちあきなおみ」の記事に、以下の記述がある。〈1992年9月21日に夫の郷鍈治と死別した。郷が荼毘に付される時、柩にしがみつき「私も一緒に焼いて」と号泣したという。また、「故人の強い希望により、皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせて頂きました。主人の死を冷静に受け止めるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろしくお願いします。」というコメントを出し、これを最後に一切の芸能活動を完全停止した。それ以降引退宣言も出ないまま、公の場所には全く姿を現していない。〉歌手・ちあきなおみのファン並びに関係者の間では、そのことを訝る向きもあるようだが、私には彼女の気持ちがよくわかる。ちあきなおみは、それまで、ただひたすら、最愛の夫・郷鍈治のために歌ってきたのだ。「もう私の歌を聴いてほしい人はいない。哀しみをこらえて歌っても、彼には届かない」という絶望感が、以後の沈黙を守らせているに違いない。それでいいのだ、と私は思う。
 かつて、美空ひばりは、「今、一番上手な歌手は、ちあきなおみ」と語っていた(テレビ番組「徹子の部屋」)が、さすがは「歌謡界の女王」、見る目・聞く耳はたしかであった。今、私の手元には「うたくらべ ちあきなおみ」というCD全集(10巻)がある。それぞれに「1誕生」「2開花」「3巣立ち」「4挫折」「5苦悩」「6自我」「7孤独」「8出逢い」「9やすらぎ」「10爛熟」というタイトルがつけられ、167曲が収められている。このタイトルは、彼女がデビュー以来、歌いつないだ歩みを物語っていると思われるが、誕生から爛熟までを順にたどっていくと、それは、小鳥の「さえずり」が次第に洗練され、「地鳴き」に変容していく過程とでもいえようか、彼女の「歌」が「語り」になり、「語り」が「呟き」「詠嘆」「呻吟」「絶叫」へと千変万化していく有様が鮮やかに体感できる。レパートリーは、ポップス、ニューミュージック、シャンソン、スタンダード・ジャズ、ファド、流行歌、演歌に至るまでと幅広く、その歌唱力は「ハンパではない」。彼女は「歌手」でありながら「役者」「演出家」でもある。「歌」は、そのまま「芝居」となり、実に様々な人間模様・景色を描出する。私の好みは、「劇場」「酒場川」「命かれても」「流浪歌」「泪の乾杯」「新宿情話」「君知らず」あたりだが、全集の中の1巻「7孤独」の作品は傑出している。「星影の小径」「雨に咲く花」「粋な別れ」「東京の花売り娘」「夜霧のブルース」「上海帰りのリル」「港が見える丘」「青春のパラダイス」「ひとりぼっちの青春」「狂った果実」「ハワイの夜」「口笛が聞こえる港町」「黒い花びら」「赤と黒のブルース」「夜霧よ今夜も有難う」「黄昏のビギン」、いずれもカバー曲だが、彼女は原曲をいとも簡単にデフォルメしてしまう。通常、伴奏は「歌」に寄り添い、それを際立たせようとして脇役に徹するが、それらの作品は「真逆」である。伴奏が、彼女の歌と真っ向から「対立」する。まるで「仇役」のように、彼女のメロディー・ラインに挑みかかる。彼女の歌声は、その挑戦をものともせずに、ある時は「受け流し」、ある時は「包容」(抱擁)するように、展開する。雑音入りの楽音と絡み合い、もつれ合う中で、彼女の歌声がいっそう輝きを増してくる。その葛藤には、愛し合う恋人同士の風情が仄見えて、なぜか最愛の夫・郷鍈治の面影をも彷彿とさせるのである。なるほど・・・・、やっぱりそうだったのか。彼女は31歳の時に郷鍈治と結ばれたが、以後14年間、彼の死を迎えるまで、ただひたすら彼のために、彼一人だけを聴衆として歌い続けたことの証しである。
 歌手・ちあきなおみが歌うことを断って22年が過ぎた、しかし、私には、その「沈黙」こそがあの名曲「さだめ川」(詞・石本美由紀、曲・船村徹)の「歌声」となって、レクイエムのように聞こえてくる。「・・・・あなたの愛に 次ぎの世までも ついて行きたい 私です」。彼女は、今もなお歌い続けているのである。(2015.3.11)



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2022-05-26

花の歌謡絵巻・名曲「ダンディ気質」の《歌い手》模様

田端義夫 ベスト1 TFC-609田端義夫 ベスト1 TFC-609
(1998/10/01)
田端義夫

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 昭和(戦後)の名曲に、「ダンディ気質」という作物がある。リリースは昭和23年、作詞・清水みのる、作曲・大久保徳二郎、歌手・田端義夫、ということで、歌詞は以下の通りである。〈花のキャバレーで 始めて逢(お)うて 今宵ゆるした 二人のこころ こんな男じゃ なかった俺が 胸も灼きつく この思い ダンディ気質(かたぎ) 粋なもの
唄と踊りの ネオンの蔭で 切った啖呵(たんか)も あの娘のためさ 心一すじ 俺らの胸に 縋(すが)る純情が 離さりょか ダンディ気質 粋なもの 赤いグラスに なみなみついだ 酒に酔うても 心は酔わぬ 渡る世間を 狭(せば)めて拗(す)ねて どこにこの身の 春がある ダンディ気質 粋なもの〉。田端義夫といえば「わかれ船」「かえり船」「玄海ブルース」「大利根月夜」が有名だが、この「ダンディ気質」は、イントロを聞くだけで、心うきうき、鋭気・覇気・元気が湧き上がってくる代物である。「ダンディ&気質」というタイトルを筆頭に、以下の歌詞も、キャバレー、ネオン、グラスといった「洋風」の景色に対して、「始めて逢うて」、「酒に酔うても」といった「和風」(文語調)の心象が入り混じり、昭和20年代の「歓楽街」の風情を彷彿とさせる。戦後日本の活気に溢れた「和洋折衷」歌謡の典型的な作物であろう。今でも、(ユーチューブで)、往時の田端義夫の《粋な》歌声を十分に堪能できるとは何と幸せであろうか。私がこの歌を初めて聞いたのは、松竹映画「東京キッド」(監督・斎藤寅次郎、主演・美空ひばり、共演・川田晴久、堺駿二、花菱アチャコ、榎本健一・1950年)の中であった。文字通り、「花のキャバレー」(唄と踊りのネオン街)を流し歩く演歌師・川田晴久が「ダンディ気質」を歌い出すと、それを聞いた占い師・榎本健一が「憑かれたように」踊り出す場面は抱腹絶倒、まさに、心うきうき、鋭気・覇気・元気を湧き上がらせることの「証し」であった。さらに、もう一人、この名曲を見事に歌い上げた歌手にアイ・ジョージがいる。アイ・ジョージもまた「流し」出身、「硝子のジョニー」「赤いグラス」「道頓堀左岸」などの持ち歌から、「ラ・マラゲーニア」「ベサメ・ムーチョ」「キサス・キサス」などの十八番に加えて、「荒城の月」「城ヶ島の雨」「叱られて」「うぐいすの夢」などの歌曲・童謡、「戦友」「麦と兵隊」「戦友の遺骨を抱いて」などの軍歌、「小諸馬子唄」「佐渡おけさ」などの日本民謡、「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」などのロシア民謡、さらには「スワニー」「聖者の行進」「ムーン・リバー」などなどのスタンダード・ナンバーに至るまで、そのレパートリーは広く、歌唱力も群を抜いている。その彼が、おそらくライブ・コンサートの中で、ほんの余興として歌った「ダンディ気質」の一節は珠玉の逸品。ギターの弾き語りで「花のキャバレーで 始めて逢(お)うて 今宵ゆるした 二人のこころこんな男じゃ なかった俺が 胸も灼きつく この思い ダンディ気質(かたぎ) 粋なもの」と弾むように明るく歌い終えると、ナント、口三味線で「スチャラカチャンチャン・スチャラカチャン・・・」、その声音の「やるせない」「投げやりな」風情こそが、この歌の《真髄》とでも言えようか、彼(および私たち)の人生が一点に凝縮されているようで、私の(感動の)涙は止まらなかった。(2014.3.24)



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