META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 付録・洋画傑作選
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2022-05-20

付録・洋画傑作選・《「第三の男」(監督キャロル・リード・1949年》

 映画「第三の男」(監督キャロル・リード、原作グレアム・グリーン、出演オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード)《「世界名作映画BEST50」DVD・KEEP》を観た。「作品解説書」には以下の通り述べられている。〈第二次世界大戦後のウイーン。麗しの音楽の都も今では暗黒の街。この街で成功しているいう友人を訪ねてアメリカからやってきた三流小説家。しかし友人は死んだという。その事故死の時、正体不明の第三の男がいたという謎を追って小説家は街をたどる。かつて友人の恋人だったという密入国者の女性と知りあうのだが、なぜか警察の調査の手がのびている。映画の原点は光と影。それを素晴らしい感覚で見せてくれるのがこの映画だ。特に、オーソン・ウエルズが姿を現した時の光の使い方はショックさえ感じる。そしてこの映画は見る度に新しい発見をさせてくれる。ウイーンの濡れた舗道を這う光と影。斜の構図による不安感のもり上げ。そして何よりこの映画は、女の愛の強さを描いている、ラストのキャメラ据えっぱなしの長回しは凄い。小説家がジョセフ・コットン。恋人がビスコンティの「夏の嵐」のアリダ・ヴァリという凄いキャストである。(1949年・イギリス)〉たしかに、死んだと思っていた友人(オーソン・ウエルズ)が、突然闇の中から姿を現すシーンは印象的であった。深夜の街道筋、頭のてっぺん(帽子)から足のつま先(靴)まで「黒ずくめ」の男が、とあるアパート1階の戸口に潜んでいる。そこに通りかかった小説家、「つけられてる」気配を察したか大声で呼び掛ける。驚いた2階の住民が灯りを点けた、その瞬間、あの「親しげな」「いたずらっぽい」、オーソン・ウエルズの横顔が映し出されるという趣向で、まさに衝撃的な「主役登場」のシーンであった。この映画の見どころは、解説にもあるように、「女の愛の強さ」であることは間違いない。しかも、愛し合っている二人が出会うのは「ほんの一瞬」、三文小説家(ジョセフ・コットン)が密入国者の女性(アリダ・ヴァリ)を助けようとして20年来の友人(オーソン・ウエルズ)を罠に掛ける。それを見抜いた女性が「ハリー、危ない!逃げて!」と警告する一瞬だけが、唯一無二の「ラブシーン」なのである。善悪という尺度から見れば、明らかに三文小説家が「善」、にもかかわらず、闇世界のボスと旅役者の女の「愛」の方に「共感」してしまうのは何故だろうか。彼らの「悪」は、戦争の産物、平和な街並、音楽の都・ウイーンを破壊しつくした戦争という「悪」に翻弄され、「物」だけでなく「心」まで毀されてしまった「現実」の「虚しさ」が、ニコリともしない女の表情に象徴されている。その表情が無表情であればあるほど、内に秘められた「愛」の強さ、確かさが浮き彫りにされてくる、という仕掛けであろう。極め付きはラストシーン、あわよくば女の「変心」を期待して残留を決意、墓地の参道で待機する(お人好し・マヌケな)三文小説家を「全く無視」、凍りついたように遠ざかる女の風情は「お見事」、文字通り「感動的な幕切れ」であった、と私は思う。(2010.4.26)



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2022-05-19

付録・洋画傑作選・《「カサブランカ」(監督マイケル・カーチス・1942年)

 映画「カサブランカ」(監督マイケル・カーチス、原作マーレイ・バーネット、出演ハンフリー・ボガード、イングリッド・バーグマン、ポール・ヘンリード、クロード・レインズ・1942年)《「世界名作映画BEST50」DVD・KEEP》を観た。「作品解説書」には以下の通り述べられている。〈この映画を見ずしてアメリカ映画を語れない。と言われるほどの名作である。ドラマチックでスリリングで、反ナチの思いが強烈に語られる永遠のロマンである。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンという世紀の顔合わせである。第二次大戦中ナチの統治下におかれたモロッコのカサブランカ。亡命者たちがひしめくこの町で偶然再会するボガードとバーグマン。二人はかつてパリで愛し合った仲。戦火のパリで別れたままボガードは今ではカサブランカで賭博場を経営している身。バーグマンは抵抗運動にすべてをかけた男の妻。あの有名なラストの別れ。「君の瞳に乾杯」「我々にはパリの思い出がある〉」という数々の心うつ言葉。この映画、実は元大統領ロナルド・レーガンの役者時代、彼の為に企画されたものだった。しかし彼は他の作品でスケジュールが合わず、ギャング・スターのジョージ・ラフトに廻った。ラフトは人の企画はいやだと断りボガードに廻った。彼女の方もアン・シェリダン、へディ・ラマーと廻り、脚本を読んで感動して出演を熱望したバーグマンのものとなった。ラストも三種類撮られ検討の結果ご覧のものになったのである。(1942年・アメリカ)この映画の眼目は、「反ナチの思いが強烈に語られる永遠のロマン」であることは間違いないのだが、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンという「世紀の顔合わせ」が、ロマンとしてはおよそ似つかわしくない「異色の顔合わせ」に終始している点にある、と私は思う。バーグマンは、その容貌・立ち居振る舞いからして、「抵抗運動にすべてをかけた男の妻」がふさわしい。片や、理想に燃え、思想・信条に命を献げようとする正義感、一方、ボガードは闇世界を生きる賭場の貸し元ではないか。その二人を、あの「理知的で」「高貴な」風情のバーグマンが「同時に」愛せるなんて、正気の沙汰とは思えない。といったあたりが、この映画の見どころであろう。さすがに「脚本を読んで感動して出演を熱望した」だけあって、バーグマンの「絵姿」は際だっている。夫の前では「理想」「純愛」を貫こうとする健気な「女」、恋人(バーグマン)の前では「不倫」覚悟で「性愛」(愛欲)に迷う「不条理」さを見事に描出していたのだから・・・。彼女の言葉「もう我慢できない」、そうなのだ。「愛欲」は、思想・信条・理想などといった「価値観」とは無縁のところで成立する、という「真実」を彼女は鮮やかに描出していた。ボガードの前のバーグマンは、すべての緊張から解き放たれた「裸」の表情を露わにする。「もううどうすればよいか分からない」「あなたが考えて・・・」等など、その「ちぢに乱れる」姿に「女の本性」を見る思いがして、私は「鳥肌が立つ」ことを抑えられなかった。それに比べれば、ボガードはじめ、彼女の夫、警察署長らの男性陣は「単純」そのもの、「闘魂」「勇気」「侠気」「腹芸」等々、それぞれがそれぞれの「味わい」を演出してはいたが、所詮「条理の世界」を超える言動は見受けられなかったように思う。可愛い、可愛い。「強面」のボガードが、「君の瞳に乾杯」「我々にはパリの思い出がある」などと、思いっきり「二枚目」ぶっても、「不条理な」「女の本性」は癒されまい。かくてバーグマンは再び「我慢を覚悟」(愛欲の断念)、夫の思想・信条・理想に殉ずることを決意してアメリカに向け旅立ったのである。そこはには「不倫」とも「性愛」とも「不条理」とも無縁な、「政治という健全な世界」(表舞台)が待っているであろう。「めでたし、めでたし」というべきか否か・・・。この映画の製作は1942年、まだ世界は大戦中であったことを思えば、「これからが正念場」ということになる。「解説」によれば三種類のラストがあったそうな。あとの二種類はいかようであったか、興味をそそられる話である。いずれにせよ、この作物は「第16回アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞」を受賞している由、文字通り「世界名作映画」にふさわしい幕切れであった。(2010.5.12)



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2022-05-16

付録・洋画傑作選・《「晩秋」(監督・ゲーリー・デビッド・ゴールドバーグ・1989年・アメリカ》

午後1時30分からテレビ映画「晩秋」(1989年アメリカ)視聴。新聞の解説(東京新聞10月5日付け朝刊12面)によれば、〈89年アメリカ。ジャック・レモン。仕事優先の生活のために家族を失った男性が、年老いた父親のために仕事を捨て、家族との愛に生きる喜びをみいだしていく。ゲーリー・デビッド・ゴールドバーグ監督〉ということである。なるほど、そういう見方もあるのか、と妙に感心してしまった次第だが、私自身は、当然のことながら、名優・ジャック・レモンが演じる「年老いた父親」に焦点を当てて観たので、1960年代に「一世を風靡した」アメリカ版ホームドラマの「なれの果て」という感想をもったのだが・・・。登場人物は「年老いた父親」(多分78歳)と「その妻」、「その息子」(仕事優先の生活のために家族を失った男性)、「孫」(息子の息子・大学生)、「その娘」「娘の亭主」といった面々で、いずれも「まさにアメリカ人」然とした風情で、中高年のホームドラマであることに間違いはない。いくらかボケが始まった亭主(ジャック・レモン)を「一方的」に介護(コントロール)することに「生きがい」「張り合い」を感じている(ような)妻が「心臓発作」でダウン、父親を誰が介護するかが懸案となるが、とりあえず「仕事人間」の息子が(二、三日の休暇を取って)対応することに。妻の場合とは違い、息子の介護は「アバウト」で「いい加減」、何でも父親にやらせようとすることが「功を奏して」、みるみる父親の生活能力は回復、ボケも吹っ飛んだ様子、妻の心臓発作も回復して退院、めでたく快気祝いのパーティーで「第一景」は終演。しかし幸せはいつまでも続かない。今度は父親が血尿を催し「癌」の疑い、しかも彼は人一倍「癌恐怖症」ときている。息子は担当医に「くれぐれも癌告知をしないように」要請するが、そこは大病院、「患者の知る権利」を尊重して父親に告知してしまった。結果、父親には「分裂症状」が発生、幻視・幻聴、妄想が高じて意識不明の重篤状態・・・。息子は病院の「対応」に怒り心頭、自宅に連れ戻す。とはいえ今後は「お先真っ暗」、とりあえず、母(父の妻)を妹(父の娘)一家に預け、独り看病に専念しようと決意した。藁をも掴む思いで相談した(おそらく下町の)庶民病院は、ことのほか「温かく」、患者・家族の立場に立って「親身に」対応、父親は数日間で「意識回復」という奇跡的な展開に・・・。かくて無事退院、またまた快気祝いのパーティーで「第二景」は終演となった。でもドラマはまだ終わらない。父親、回復の「度が過ぎて」、誰が観ても「はしゃぎすぎの」「躁病」状態、「自分は十九歳に若返った」などと宣う始末、専門家(精神科医)の見立てによれば、五十年間に亘って「レディーファースト」を重んじ、妻のコントロールに従ってきた「枷」が外れてしまった、今こそ本来の「父親像」が現出したのです、それを否定すれば、またボケの世界に戻るだけでしょう、だと。今度は妻がついて行けない。「あんなお父さんの姿なんて見たくない」と息子に当たり散らす。まさに、「老夫婦」の葛藤、確執、軋轢が「無情にも露呈」といった景色で、鬼気迫る風情を感じることができた。(私自身は、不謹慎にも笑いが止まらなかったのだが・・・)息子と妻の「バトル」を見た父親、やむなく「躁状態」を解除して「第三景」も終演に・・・。いよいよ終幕の「第四景」は、父親の「癌再発」から「臨終」「葬式風景」といった展開で、観客は「やっとこさ」、典型的なアメリカ人の「死」を見送ることができるという按配であった。
 それにしても、「人間はそう簡単には死ねないものだ」「いくら生きようとしたところで、寿命には限界がある」「老いや死に臨んで、じたばたしてもはじまらない」といった条理は「万国共通」であることを、あらためて再確認するのに十分な「出来映え」の映画であった、と私は思う。(2009.10.5)



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2022-05-03

付録・洋画傑作選・《「紳士は金髪がお好き」(監督ハワード・ホークス・1953年》

 映画「紳士は金髪がお好き」(監督ハワード・ホークス、出演、マリリン・モンロー、ジェーン・ラッセル、チャールズ・コバーン、1953・アメリカ)〈DVD「世界名作映画BEST50 KEEP〉を観た。「作品解説書」では以下の通り述べられている。〈「ナイアガラ」で悪女として登場したマリリン・モンローを、ハリウッドでのセクシー女優NO.1の地位を確立するため20世紀フォックスが苦心して製作した力作である。コメディエンヌとして金字塔を打ち立てた大ヒット作であり、真のモンローを花咲かせた傑作なのだ。共演のジェーン・ラッセルは当時大人気のセクシースターで、公開当時は大変な話題になった。監督は「脱走」のハワード・ホークス、彼の魔法のような演出により、豪華なドラマがコメディタッチに繰り広げられる。当時、コメディにこれだけの製作費を投じるのも映画界の決断。新たなモンローの魅力が生まれスターの仲間入りとなった。(以下略)〉マリリン・モンローとジェーン・ラッセルは、当時のアメリカを代表するセクシー女優、その二人が共演となれば、当然「どちらが魅力的か」という話題になるだろうが、この二人、映画の中では「大変、仲がよい」。しかも、二人の容貌・性格は「正反対」、片や金髪、片や黒髪、片や可憐、片やグラマー、片や拝金至上主義、片や恋愛至上主義・・・。ことごとく両者の見解は「対立」する。それかあらぬか、「魅力」も五分五分、お互いに「自分にないもの」を相手の存在で「補い合う」といった関係が見事に描出されていたと思う。モンローとラッセルは(おそらく)貧民出の踊り子、二人の「相舞踊」はどこに行っても人気の的で、それなりの稼ぎはできるのだが、やはり求めるのは頼りがいのある「男」。その条件、モンローは金、金、金・・・。「お金があれば何でもできる。もちろん人を愛することだって・・・」なるほど、逆に言えば「お金がなければ何もできない。もちろん人を愛することも・・・」ということか。まさにアメリカの価値観、その合理主義は徹底されていて清々しいほどであった。一方、ラッセルの条件は「男らしさ」「かっこよさ」「心意気」、「愛があれば貧乏なんて・・・」という侠気(姐御肌)が感じられて頼もしい。この映画の見どころ(眼目)は、何もかもが正反対な二人が、互いに協力、その違いを「尊重し合う」生き様にあると思われるが、極め付きは以下の二点。その一、アメリカからパリに渡る豪華客船の中、モンローがラッセルの(結婚)相手を物色、乗船名簿を検索して「メイド付、ナントカ三世」という人物に目星をつけた。ディナーでの同席予約に成功、テーブルに先着して相手を心待ちにしていたが、現れたのは、なんと、こましゃくれた「ガキ」(小学校低学年相当の男児)であったとは・・・。その二、モンローが金持ちの老婦人からダイアモンドのティアラを掠め取った廉で訴えられ裁判にかけられた。その被告人をラッセルが「身代わり」で演じる。金髪の鬘を装着、口跡も所作もモンローと「瓜二つ」といった按配で、その「鮮やかさ」に舌を巻いてしまった。キャリアからいえば、ラッセルがはるかに先輩、新人・モンローの魅力を受け容れ、さらに際だたせようという「ゆとり」さえ感じさせる、見事な演技であった、と私は思う。前出の解説では「セクシー女優の登場、コメディタッチの展開」が指摘されていたが、私はそれ以上に、当時(というより開国以来不変の)アメリカイズムといおうか、あからさまな拝金主義と、それに歯止めをかけようとするヒューマンなロマンチシズムの「対立」が、そのままノーサイドでゴールイン(結婚)する筋書(終わり方)に注目する。モンローもラッセルも、アメリカ社会の「価値観」(イデオロギー)を代表(象徴)する人物として描かれていることを見落としてはならないのではないだろうか。(2010.10.1)



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2022-05-02

付録・洋画傑作選・《「アフリカの女王」(監督ジョン・ヒューストン・1951年)》

 映画「アフリカの女王」(監督ジョン・ヒューストン、イギリス・1951年)を観た。たいそう面白かった。舞台はアフリカ奥地のある集落。イギリス人の牧師兄妹が原住民を集めて、賛美歌を合唱している。そこは、密林の中に開けた平地の一郭であろうか。物資の輸送は水路に頼るものとみえ、蒸気船(といっても乗組員は船長一人の小型船)が定期的にやって来る。船の名前が「アフリカの女王」(なるほど映画のタイトルは船の名前だったのか)。船長はカナダ人で職工あがり(ハンフリー・ボガード)、今しも賛美歌が終わろうとする頃、葉巻を吹かしながらやって来た。途中で、吸いかけの葉巻を投げ捨てると、それを求めて村の若者たちが殺到して、周囲の景色は大混乱、その空気が教会の中にも波及するといった按配で、この船長およそ信仰とは縁のない風情であった。それもそのはず、彼は教会に牧師宛の郵便を届けに来ただけなのである。牧師兄妹は、いやな顔ひとつせず船長を歓待、紅茶などを馳走する。片や敬虔なクリスチャン、片や無精ひげに薄汚れた衣服の船長、およそ似つかわしくない取り合わせの「茶会」であったが、何事もなく船長は退出した。ただ一点、彼がもたらした気がかりな情報は、ドイツとイギリスが戦争を始めた、その影響がアフリカにも及ぶだろうとのこと。案の定、まもなくドイツ軍が村に侵攻、原住民の村人全員を拉致・連行。教会も含めて、すべての家屋は焼き払われてしまった。そのショックで牧師は病死、妹(キャサリン・ヘプバーン)だけがひとり残された。そこに再登場したのが件の船長。悲嘆にくれる妹をなぐさめ、励まし、自分の船で奥地から脱出するように勧める。妹も同意、以後二人の船旅が展開するという筋書きだが、この二人の「絡み」が何ともユーモラス(ヒューマン)で面白かった。実を言えば、この映画、冒頭場面と大詰めを除けば、二人しか登場しない。舞台も狭苦しい蒸気船の中だけというシンプルな設定だ。この異色な(取り合わせの)男女(カップル)の「絡み」を描出することが、主たる「眼目」であろう。通常なら「妹」(女)を保護・先導するのが、「船長」(男)の役割だが、実際は正反対。奥地からの危ない脱出、過激なドイツ戦艦攻撃等など、「常識破りな」方法を提案するのは、つねに「妹」の方、「船長」は当初「断固拒否」するが、とどのつまりは「従わざるを得ない」、強面のハンフリー・ボガードが演じる、せつない風情(男の純情)が何とも魅力的であった。一時など、そのストレスに耐えられずジン酒を暴飲して二日酔い、その間に妹は平然とジンの酒瓶すべてを捨ててしまう。その空瓶が5本・・・、10本と波間に漂うシーンが「女のしたたかさ」を暗示しているようで、身につまされた次第である。さて、この二人、敵の要塞、急流(滝)、船の破損、沼地での迷走、座礁等など、様々な困難に遭遇するが、その度に打開策を提案、叱咤激励するのが「妹」、それを実行・実現するのは「船長」という分担で窮地を脱出する。なるほど、人生とはこういうものか、伴侶とはこのようなものなのか、を具体的に納得させられるという趣向で、極め付きは大詰め。いよいよ敵艦に魚雷を的中させる段階に至った時、互いに「特攻するのは自分一人でよい」と言い争い喧嘩する。相手の安全を気遣っての対立だが、互いにゆずらず「攻撃は同伴で」という結論に落ち着いた。しかし、魚雷艦(?)・「アフリカの女王」は、時化のため、あえなく沈没、作戦は失敗に終わった。加えて、二人ともドイツ軍に捕らえられ、死刑囚の身に・・・。といった場面で幕は下りるのだが、はたして、この物語、「悲劇」なのか「喜劇」なのか、「活劇」なのか「ロマン」なのか、「戦記」なのか・・・。そのいずれでもあり、いずれでもないような「仕上がり具合」が、たいそうユニーク、暗示的で面白かったのである。(2010.8.16)



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2022-05-01

付録・洋画傑作選・《「コロラド」(監督ヘンリー・レヴィン・1948年)》

 映画「コロラド」(監督ヘンリー・レヴィン、原作ボーデン・チェイス、出演グレン・フォード、ウィリアム・ホールデン、エレン・ドリュー、レイ・コリンズ)《「世界名作映画BEST50」DVD・KEEP》を観た。「作品解説書」には以下の通り述べられている。〈グレン・フォードとウィリアム・ホールデンの二大俳優が西部劇で競演するということで公開当時、大変人気のあったテクニカラー映画。監督のヘンリー・レヴィンがこの大作を、大いなる娯楽西部劇として演出している。ストーリーは南北戦争の終わり頃、グレン・フォード演じるオエン・デヴァロウ大佐は非情な行為を犯しコロラドに帰郷した彼は、ウィリアム・ホールデン演じる親友デル・スチュワート大尉も愛している女性、キャロリン・エメットにうまく言い寄ったりしながらも州知事になり、スチュワート大尉も保安官として名声を得てゆく。しかし、ある事件を境にデヴァロウ大佐の狂気に、二人は対立する関係に。ラストはデヴァロウ大佐VSスチュワート大尉となり緊張が高まるが、決闘の末、スチュワート大尉が残り、エメットと共に幸福な日々を手に入れる、といった娯楽大作。(1948年・アメリカ)〉この解説では「大いなる娯楽西部劇」「娯楽大作」などと、しきりに「娯楽」が強調されているが、はたしてそうか。少なくとも、私自身はこの映画を「娯楽西部劇」として「楽しむ」余裕はなかった。グレン・フォード演じる北軍大佐の「狂気」が真に迫っていたからである。南北戦争の終わり頃、彼が犯した「非情な行為」とは、すでに白旗をあげて降伏を表明している南軍兵士(敗残将校一人を残して)を「皆殺し」にしたことである。この行為は法律的にも道徳的にも許されることはないだろう。その源は「敵」(自分に逆らう者)に対する「憎しみだけ」である。「平気で敵を殲滅する」という「狂気」の源は何か。それが「戦争に他ならない」という眼目が、この映画では雄弁に語られている、と私は思う。北軍は南軍に勝った。しかし、戦後のコロラドの状況をみれば、その勝利を単純には喜べない。戦時のヒーローが平時を治めるとは限らないからである。事実、グレン・フォード演じる北軍大佐は、平時のリーダーとしては不適格であった。彼は戦時と平時の区別ができなかったのである。狂気に満ちた戦場での「判断」を、そのまま平和な日常社会に適用したのである。自分は正しい、なぜなら「敵に勝った」のだから。自分に逆らう者は殲滅する、そうしなければ自分を守ることはできない、といった戦時の「確信」が、彼の「狂気」を平時にまで拡大させたのであろう。私たちは「相手を殺したい」と思っただけで、すぐにそれを実行することができるだろうか。「でも殺せない」と思い直すのが、人間の本心ではないだろうか。かつての米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは、「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた。」(『戦争における「人殺し」の心理学・安原和見訳・ちくま学芸文庫』)と述べ、(南北戦争を初めとしたアメリカの近代戦において)最前線の兵士ですら、自らの銃器を発砲する者は15~20%に過ぎなかったことを明らかにしている。だとすれば、このデヴァロウ大佐という「男」、その15~20%の中の一人であったのか。
 というわけで、この映画の眼目が「戦争がいかに人間を狂わせるか」「戦争に勝利はない。勝者であることがすでに(良心の)敗北なのである」という《反戦思想》の描出にあることは明らかである。製作は1948年、にもかかわらず、アメリカ社会は、以後「朝鮮戦争」「ヴェトナム戦争」「イラク戦争」「対テロ戦争」等々、性懲りもなく「敗北への道」を辿っているようだ。現実においては、デヴァロウ大佐が「まだ生きている」ことの「証し」である。(2010.4.28)



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2022-04-30

付録・洋画傑作選・《「肉弾鬼中隊」(監督・ジョン・フォード・1934年)》

 映画「肉弾鬼中隊」(監督・ジョン・フォード・1934年、世界名作映画DVD)を観た。解説には〈ジョン・フォード監督としては珍しい戦争映画。第一次大戦中、砂漠に迷って敵に囲まれてしまった英国中隊が反抗するかという壮絶なアクションをお楽しみいただきけます〉とあったが、内容は「壮絶なアクション」とは無縁、とはいえ、というより、だからこそ「戦争の愚かさ、むなしさ」を根底から告発する「不朽の名作」に仕上がっていた、と私は思う。舞台は、果てしなく広がる炎熱の砂漠と、唯一、中隊が迷走のあげく辛うじて辿り着いたオアシスだけ、登場人物も中隊長の中尉、軍曹、伍長、その他兵士、合わせて10名そこそこといった面々というシンプルな設定で、戦争映画だというのに「敵」は全く登場しない。(わずかに終幕の場面で、数名のアラブ兵が無言のまま「霧のように」現れ、主人公(軍曹)が乱射する機関銃の餌食になってしまったが・・・)筋書も単純。本隊から偵察に派遣された中隊の先頭を歩いていた中尉が、突然、馬から崩れ落ちた。どこからとも知れず飛んできた、アラブ狙撃兵の銃弾に倒れたのだ。その時から、中隊の悲劇が始まった。中隊の任務、行き先、作戦(戦術・戦法)等々は、すべて中尉の胸中、当人が死者となってしまった今、誰も中隊に命令する者はいない。とりあえず、軍曹が指揮を執って本隊に戻ろうとする。行き先は北、北に向かって進めば川がある。そこで本隊に合流できるに違いない。一行は、いつ襲ってくるかもわからない「敵」におびえながら行軍(迷走)する。疲労は極度に達し、一頭の馬が力尽きて倒れ込んだ。それでもなんとか、水場、椰子の実、寺院のあるオアシスにたどり着くことができた。砂漠の中では馬が命の綱、ここで野営し馬を休ませれば何とか本隊に戻れるだろう。一同は、ともかくも安堵し一夜を過ごすが、翌朝、馬は一頭残らず姿を消し、見張りの兵士は刺殺されているという有様、やむなく、ここに留まって援軍を待つ他はなくなった。しかし「見えない敵」の「散発的な攻撃」に晒され、味方は一人、また一人と「戦死」、そのたびに軍曹が弔う「剣の墓標」が増えていく。ついさっきまで、言葉を交わし、力を合わせていた「仲間」たちが、ほんの一瞬のうちに逝ってしまう。嘆き悲しむ「時間」などない、という戦争の現実がひしひしと迫ってくるのだ。しかも「敵は見えない」、確認できるのは「味方の死」だけ、といった恐ろしさ、怒りに、猛り狂う。そうした光景が「戦争の愚かさ、むなしさ、残酷さ」を見事に描出していたのではないだろうか。この作品ができたのは、今から76年前、しかしその「映像表現」は決して「色あせることなく」、むしろその「シンプルさ」のゆえに、かえってその輝きを増しつつあることは間違いない。反戦映画の典型、文化的「世界遺産」として永久保存されるべき価値がある、と私は思った。
(2010.3.17)



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