META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 付録・浪曲特選
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2023-03-28

付録・浪曲特選・女流浪曲師天津ひずる「未だに健在!」

2015年6月1日(月) 晴
 正午過ぎから、浅草木馬亭へ浪曲鑑賞に赴く。先々月(4月)、番組表に天津ひずるの名があったが当日は休演、先月は名もなかった。もう二度と見聞できないのではないかと思っていたが、今月、再び天津ひずるの名があったので馳せ参じた次第である。彼女の出番の前に、前座の澤勇人が「松坂城の月」を演じたが、彼は昭和55年生まれの35歳、入門が平成23年ということで、入門二年目としては「見事」な出来映えであったと、私は思う。師匠は澤孝子、だとすれば広沢菊春の孫弟子に当たる。第一に、声が渋い。第二に節回しに菊春の名残が感じられる。筋書きは、城主の酒乱につきあう実直な武士の物語だが、双方の人物描写にはまだ相応の時間が必要とはいえ、基礎・基本が着実に身についている。多くの若手は、人物描写に力を入れ、器用・達者に演じているが、肝腎の声・節回しとなると、遠く先人に及ばないまま老いていくのが現状ではないか。そんな中で、まず声を鍛え、先人(菊春・孝子)の節回しを懸命に踏襲しようとする姿勢に好感がもてた。その証しに、彼は大先輩・天津ひずるの口演を客席前列で拝聴していたのであった。さて、いよいよ、天津ひずるの出番がやってきた。演目は極め付き「瞼の母」。中入り前の口演ということで、土地の親分・藤造との絡みは割愛されていたが、その眼目は彼女の声、節、啖呵の中に十二分に結実化されていた。師匠・天津羽衣のこってりとした有彩色の景色が、澄み切った透明色にまで浄化されて、えもいわれぬ母性を際立たせる。最前列の男性客は終始ハンカチで涙を拭っていた。彼女の舞台姿は、師・羽衣に育まれた天女の風情を漂わせる。浪曲の本道とは一線を画しているかもしれないが、それだけに貴重・稀有な芸風ではないだろうか。本道の味が渋茶に塩煎餅だとすれば、ひずるのそれは玉露に錦玉羹とでもいえようか。とまれ、天津ひずる「未だに健在!」という感に勇気づけられて帰路に就いたのであった。



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2023-03-27

浪曲特選・女流浪曲師天津ひずる・「原爆の母」の《美しさ》

 午後2時過ぎから、浅草木馬亭で浪曲を聴く。口演は天津ひずる。演目は、飯山栄浄作「原爆の母」。平成7年(1995年)、戦後50年を節目にして作られた佳品である。舞台は広島、海辺の町か。原爆で顔を負傷した母・ゆきえは、戦地に抑留された夫・のぶゆきの帰還を待ちわびている。いよいよその日がやってこようという折も折、姑からは離縁を申し渡された。「これは暇金、といって悪ければ、孫のみのるを、これまで育ててくれたお礼です」「待って下さい、お母さん。せめてあの人がお帰りになるまで、私をこの家に置いてください」「それは無理、あなた、その顔で、のぶゆきに逢えるおつもり?」「・・・・」(これが浮き世か人の世か、今は原爆、身に受けて、醜い姿じゃあるけれど、この家に嫁いだその時は、こんなに悲しい顔じゃない・・・)「みのるには、新しいお母さんを迎えます。明日にでも、この家を出て行って下さい」。そこに帰ってきたのが7歳のみのる、「お母さん、ただ今」「お帰りなさい。もうすぐお父さんが帰ってくるのよ」「ふうん、でもボク、お父さんの顔、知らない。お母さん、元気がないけど、またお婆ちゃんにいじめられたの」「いいえ、お母さんはちょっと用事ができたので、家を留守にします」「いつ帰るの」「用事が終わったら、すぐに帰ります。それまで待っててね」。しかし、母はすぐには帰らなかった。父・のぶゆきが帰還の日、〈みのるはそっと家を出て、渚に立って母を呼ぶ。呼べど答えは返り来ぬ。青く冷たい冬の海、磯の千鳥も親子連れ、なかよく飛んでいるものを、なぜに帰らぬお母さん。たずねて行こう、いますぐに。あわれ、みのる少年が、辿る足取り日も暮れて、ここは中国山脈の山と山とに誘われた、家もまばらな山里に・・・〉着いたのは、極寒の真夜中、再会できた原爆の母子、「もう離れない、離さない」と抱き合うところに、やってきたのが父、のぶゆき、「今、帰ってきたよ」。逡巡し、謝罪する妻・ゆきえにむかって一言、「人間は姿形ではない。美しい魂こそが尊いのだよ。罪は原爆にある、戦争にある」、かくて、ゆきえは「心の傷も身の傷も、忘れて、恋しい夫の胸に・・・」、季節はもうすぐ春「緑、若草、ほほえまむ」という一節で終章となった。この佳品の眼目は、いうまでもなく「反戦」、加えて「親子愛」「夫婦愛」の源泉である「美しい魂」の描出にあると思われるが、その美しさが終始一貫、天津ひずるの「声」「曲」「啖呵」の中に「響き」となって流れていたことに、私は驚嘆した。たった30分ほどの作品だが、数ある(長編)反戦映画、反戦ドラマに比べて、一歩も引けを取らない「名作」だと確信する。折しも、明日は「原爆記念日」、あらためて戦争の「愚かさ」を肝銘しつつ、炎天の浅草を後にしたのであった。(2013.8.5)
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2023-03-26

付録・浪曲特選・女流浪曲師・天津ひずるの「魅力」・《「瞼の母」》

午後0時30分から、浅草木馬亭で浪曲を聴く。出演者は、玉川太福(「太閤記長短槍合戦」、澤華丸(「万手姫恋慕」)、富士鷹雄(次郎時致母の祈り」)、天津ひずる(「瞼の母」)、港家小柳(「忠臣蔵両国橋勢揃い」)、国本武春(「忠臣蔵田村邸の別れ」)という面々であったが、やはり、天津ひずるの口演は群を抜いていた、と私は思う。演目は「瞼の母」、これまでに、二葉百合子、伊丹秀子、中村富士男、天津羽衣、京山幸枝若らが、「いずれ菖蒲か杜若」といった(甲乙つけがたい)作物を残しているが、いうまでもなく、彼女は師・天津羽衣の芸風を忠実に踏襲していた。私は、かつて天津羽衣の作物について、以下のように綴った。〈土地の親分藤造が水熊の女将・お浜に「匿っている男を出せ」と迫るのだが、男はいない。その男とは、実は番場の忠太郎で、先刻(昨日)、藤造の子分たちがお浜の娘・お登勢にしつこく絡んでいたところを、「黙って助けてくれた」という設定である。しかし、忠太郎とお登勢は初対面の「知らぬ同士」、お登勢が「お礼を言う暇も無い内に行って終った」由。お浜いわく「名前くらい聞きゃ良かったのに、世の中は広いねえ。悪い奴も多い代わりに、そんな良い人もいるんだ」。その後は定番通り、大詰めで、忠太郎が「抱いて温めた百両ッ、何とぞ見てやっておくんなせえッ」と迫っても、「・・・いいや、その手にゃ乗らない、乗るもんかッ・・・世間の裏から表まで、散々見てきた私だよ。水熊の身上が入るならと、百両位は誰が貸さないものでも無い。さ、良いかえ忠太郎さん、それを言われて口惜しかったら、何故そんなやくざ姿で尋ねて来たんだぃ、やくざは浮世の屑じゃァないかッ・・・」と、冷たく拒絶する。通常なら、「お内儀さん・・・親に放たれた迷い鳥、ぐれたをあなたは責めなさるかッ」、《こんなヤクザに誰がしたんでィ》と居直るところだが、天津羽衣の忠太郎は違っていた。「いいや、もう何も言いますめえ。お登勢さんとやらにも一度逢いてえが、いいやそれも愚痴だろう・・・あーあ、考えて見りゃあ俺も馬鹿よ・・・・」と自分を責めるのである。その後、忠太郎が立ち去ろうとしたところにお登勢が遭遇、「あッおッ母さん、あの人ですッ。今ッ出ていたあの人が、昨日私を助けて呉れた人なんですッ」。お浜は驚愕、仰天して忠太郎を追いかける、という幕切れ、ここらあたりがこの作物の特長であろうか。天津羽衣の語り・節回しは一貫して「母性的」、止めにいわく「さすがお浜も生みの母 嵐の如く胸は鳴り 呼び醒された愛情に 血相変えた二人が 声を限りに名を呼んで 表へ出れば早や既に とっぷり暮れた江戸の空 憎や やくざの藤造が それと気づいて後を追う 番場生まれの忠太郎 又その後へ追い縋る 母とお登勢の三ツ巴 荒川べりの血飛沫も 瞼の母の物語」。その物語は、もしかして、お浜が語った物語・・・。お浜が見た、愛しいわが子の物語ではなかったか〉。天津羽衣の作物はCD、天津ひずるは「実演」という違いはあるものの、私の独断と偏見によれば、明らかに「弟子の技量が師を超えている」。その例証一は、声の「質」(声音)である。羽衣の声は「有彩色」、艶やかで仇っぽい空気が漂うが、ひずるの声は「透明色」、どこまでも澄みわたり、天女の風情を彷彿とさせる清純さを描き出す。二は、節回しである。羽衣の節回しを完璧に踏襲しながら、ひずるの節には寸分の隙もなく、「語り」と「歌謡」が見事に調和していると言えるだろう。三に、セリフ回しである。ひずるの口跡には「訛り」が皆無、本職の「声優」と比べても遜色はない。とりわけ、忠太郎とお浜の「絡み」は秀逸、言辞とはうらはらに、心中では「親子名乗り」をしているお浜、それを察して、潔く引き下がる忠太郎の(やるせない)「侠気」が溶け合って、まさに師・天津羽衣が目指した「母性」が見事に浮き彫りされていた、と私は思う。けだし、「お浜が見た、愛しいわが子の物語」に他ならない。
トリを務めたのは、今、「売り出し中」の国本武春だが、「どうだ!」という力みすぎが目立って、浅野内匠頭や片岡源吾右衛門の姿はどこにも見あたらず、曲師・澤村豊子の至芸(三味線の音色)だけが際だつ有様、まだまだ母・国本晴美の「域」には遠く及ばない、などと身勝手(的外れ?)なことを考えながら、帰路に就いた次第である。(2012.3.1)
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(1995/11/01)
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2023-03-25

付録・浪曲特選・国本武春「清水の三下奴」&天津ひずる「婦系図」

午後から、浅草木馬亭で浪曲を聴く。出演は天津ひずると国本武春。演目は天津が「婦系図」、国本が「次郎長外伝・清水の三下奴」であった。この御両人は、今や関東を代表する浪曲師に違いない。ベテランに、澤孝子、玉川福太郎、大利根勝子、東家浦太郎、浜乃一舟、三門柳らが居並ぶ中で、若手、中堅として一際「気を吐いている」存在であろう。私が知る浪曲師といえば、二代目・広沢虎造を筆頭に、広沢菊春、広沢瓢右衛門、三門博、二代目・玉川勝太郎、浪速亭綾太郎、梅中軒鶯童、相模太郎、伊丹秀子、天津羽衣、二葉百合子といった面々で、二葉を除けば、皆「鬼籍」に入っている。とはいえ、彼らが描出した珠玉の作物は、今もなお私の脳裏から離れない。したがって、どうしても、そうした先人の浪曲と「聴き比べてしまう」結果になってしまうのだが、私の独断と偏見によれば、「師を超える」景色・風情を醸し出している浪曲師は少ない。例えば、日本浪曲協会会長の澤孝子、彼女の師は広沢菊春と聞く。「からかさ桜」「春よ来い」等の名作があるとはいえ、菊春特有の「節回し」には及ばない。例えば、玉川福太郎、どちらかといえば「軽妙・洒脱」な芸風で、勝太郎が描出する「重厚でいて艶やかな」(いぶし銀のような)世界とは異質である。例えば、三門柳、師・三門博の足跡を懸命に辿ろうとする姿勢は窺えるものの、その「変幻自在」な「節回し」の艶っぽさには、遠く及ばない。浜乃一舟も同様、伊丹秀子の「啖呵」(の魅力)とは無縁であった。そんな中で、副会長の国本武春が、果敢にも「虎造節」に挑戦!、と相成ったが・・・。結果は残念ながら「虎造もどき」、その「声音」「啖呵」において遠く及ばない。その昔(昭和30年代)、「浪曲天狗道場」なるラジオ番組があり、のど自慢の素人衆が、達者な旦那芸を披露していたが、その出来映えは五十歩百歩、「銭を取る芸」ではなかった(と私は思う)。「虎造節」は、鍛え抜かれた「声音」に、哀愁を帯びた「短調」のメロディーが主流でなければならない。「啖呵」は、どこまでも軽妙で歯切れよく、その言葉のはしはしには、「裏街道」を歩く侠客の「諦念」と「謙虚さ」も加わって、陰と陽との絶妙なコントラストが、「虎造節」の真骨頂なのだから・・・。とはいえ、国本武春の師は虎造ではない。現代の大衆に向けた啓発をねらいとしていたなら、それはそれでオーケー、何も言うことはない。(いつもながら、国本武春の「向上心」「研究熱心」さに、私は拍手を惜しまない)さて一方、天津ひずるの演目は、師匠譲り(?)の「婦系図」、私の見聞は2度目だが、その完璧な出来映えは、変わらなかった。当時の感想は以下の通りである。〈湯島境内の別離から一年後。病魔に冒されたお蔦の病状は悪化の一途、面倒を見る惣助夫婦の計らいと説得で、「真砂町の先生」も改心、早瀬主税を静岡から呼び寄せたが、時すでに遅し、お蔦の臨終には間に合わなかった、という愁嘆場である。口演の天津ひずるは、その状景・叙情を「淡々と」、しかも迫真の「技」で描出する。浪曲の真髄は、一声、二節、三セリフ(啖呵)と思われるが、声は清らかに澄みわたり、細やかな節回しも絶妙、セリフは、聞いただけで、その個性的な人物像が浮き彫りされる、といった按配で、文字通り「三拍子揃った」、天下一品の出来映えであった、と私は思う〉。今日もまた、彼女が「演じますのは、泉鏡花原作・婦系図。サァー・・・」と発した瞬間に、舞台は「明治」に変化(へんげ)し、私たちは、居ながらにして「明治」という時代に生きた人々の、「義理と情け」の世界に引き込まれてしまうのだ。寡聞にして、私は、彼女の師・天津羽衣の「婦系図」を見聞していない。しかし、その「節回し」「セリフ回し」ともどもに「師を超えている」ことは確かであろう。臨終のお蔦に降りかかる白梅の花びらが、私の目にはハッキリと見えたのだから・・・。聞けば、来る10月26日、「第1回浅草浪曲祭」の「節劇・浪曲シンデレラ」で、天津ひずるは〈浮き世離れした大きなシンデレラ〉を演じるという。さもありなん、彼女は、まさに「斯界のシンデレラ」、ますますの活躍と舞台の盛会を祈りつつ帰路に就いた。(2012.10.1)



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2023-03-24

付録・浪曲特選・《「瞼の母」の競演模様》・《下》(天津羽衣・京山幸枝若・鹿島順一)

続いて④天津羽衣も、③と比べて「同工異曲」の作物である。土地の親分藤造が水熊の女将・お浜に「匿っている男を出せ」と迫るのだが、男はいない。その男とは、実は番場の忠太郎で、先刻(昨日)、藤造の子分たちがお浜の娘・お登勢にしつこく絡んでいたところを、「黙って助けてくれた」という設定である。しかし、忠太郎とお登勢は初対面の「知らぬ同士」、お登勢が「お礼を言う暇も無い内に行って終った」由。お浜いわく「名前くらい聞きゃ良かったのに、世の中は広いねえ。悪い奴も多い代わりに、そんな良い人もいるんだ」。その後は定番通り、大詰めで、忠太郎が「抱いて温めた百両ッ、何とぞ見てやっておくんなせえッ」と迫っても、「・・・いいや、その手にゃ乗らない、乗るもんかッ・・・世間の裏から表まで、散々見てきた私だよ。水熊の身上が入るならと、百両位は誰が貸さないものでも無い。さ、良いかえ忠太郎さん、それを言われて口惜しかったら、何故そんなやくざ姿で尋ねて来たんだぃ、やくざは浮世の屑じゃァないかッ・・・」と、冷たく拒絶する。通常なら、「お内儀さん・・・親に放たれた迷い鳥、ぐれたをあなたは責めなさるかッ」、《こんなヤクザに誰がしたんでィ》と居直るところだが、天津羽衣の忠太郎は違っていた。「いいや、もう何も言いますめえ。お登勢さんとやらにも一度逢いてえが、いいやそれも愚痴だろう・・・あーあ、考えて見りゃあ俺も馬鹿よ・・・・」と自分を責めるのである。その後、忠太郎が立ち去ろうとしたところにお登勢が遭遇、「あッおッ母さん、あの人ですッ。今ッ出ていたあの人が、昨日私を助けて呉れた人なんですッ」。お浜は驚愕、仰天して忠太郎を追いかける、という幕切れ、ここらあたりがこの作物の特長であろうか。天津羽衣の語り・節回しは一貫して「母性的」、止めにいわく「さすがお浜も生みの母 嵐の如く胸は鳴り 呼び醒された愛情に 血相変えた二人が 声を限りに名を呼んで 表へ出れば早や既に とっぷり暮れた江戸の空 憎や やくざの藤造が それと気づいて後を追う 番場生まれの忠太郎 又その後へ追い縋る 母とお登勢の三ツ巴 荒川べりの血飛沫も 瞼の母の物語」。その物語は、もしかして、お浜が語った物語・・・。お浜が見た、愛しいわが子の物語ではなかったか。さてどんじりは、⑤京山幸枝若。この作物は「歌謡浪曲」で5分程度、私はYoutubeの画像を見聞したに過ぎない。「軒下三寸借り受けまして、申し上げます おっ母さん・・・」という詞で始まる歌謡曲に、「こんなヤクザに誰がしたんでぃ」という科白が入った代物である。今、「瞼の母」といえば最も多く「人口に膾炙している作物」かもしれない。同一曲を、杉良太郎、島津亜弥、中村美律子らも歌っているが、やはり何といっても浪曲師・初代京山幸枝若の作物が群を抜いている、と私は思う。その理由は簡単、彼の背景には「瞼の母」の他に、「会津の小鉄」「花の幡随院」「雷電と八角」「河内十人斬り」「浪花しぐれ・桂春団治」「左甚五郎・竹の水仙」といった名作が綺羅星の如く居並んでいるからである。声音、節回し、セリフ回しのいずれをとっても、「役者が違う」のである。彼の「瞼の母」には、これまでの芸歴(の長さ)、芸域(の広さ)がおのずと「結実化」している。まして、彼は今は「鬼籍」の人、現役に比べて「一日の長」があることは当然であろう。もし、現役で彼に迫る者があるとすれば、知る人ぞ知る、大衆演劇界の名優・甲斐文太(「鹿島順一劇団責任者・二代目鹿島順一)を措いて他にはあるまい。ただし、彼の作物はDVD、CD、Youtubeといったステージには存在しない。公演先に赴いて、「運が良ければ鑑賞できる」、幻の名品に他ならないからである。以上「瞼の母」競演模様のお粗末は、まずこれまで。だが蛇足を一つ。長谷川伸の原作を見ると、「大詰め・荒川堤」の場には「異本」が加えられている。その〈二〉では、〈幕切れに忠太郎の絶叫、「おッかさあン」で駆け戻り、「おッかさあン」と絶叫、一つ二つ続ける。そのあと・・・おはま・お登世(呼ぶ声を聞きつけ、引き返し来る)忠太郎(母・妹の顔をじッと見る)おはま(全くの低い声)忠太郎や。お登世(低い声で)兄さん。忠太郎(母と妹の方へ、虚無の心になって寄ってゆく)おはま・お登世(忠太郎に寄ってゆく)双方、手を執りあうその以前に。〉と記されてある。なんと、忠太郎とおはま・お登世が「手を執りあう」ハッピーエンドでもよいのだ。忠太郎が意地を通すか、和解に応じるかは大問題、そのことで物語の眼目は豹変してしまう、とはいえ原作者・長谷川伸にとっては、そんなことはどうでもいいこと、どうぞ勝手にしておくんなさい、といったアバウト(優柔不断)さが垣間見られて、実に面白い。さればこそ、原作の「換骨奪胎」おかまいなし、ということで、件の「浪曲競演」はおろか、全国各地の芝居小屋では「百花繚乱」然とした「瞼の母」が今日もまた、演じ続けられているという次第である。〈おわり〉(2011.6.19)



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2023-03-23

付録・浪曲特選・《「瞼の母」の競演模様》・《上》(二葉百合子・中村冨士夫・伊丹秀子)

 浪曲「瞼の母(CD版)を聞き比べる。口演は、①二葉百合子、②中村冨士夫、③伊丹秀子、④天津羽衣、⑤京山幸枝若の五人、①から④までは、いずれも30分前後、⑤は歌謡浪曲で5分程度の内容である。さて、その出来栄えは「いずれ菖蒲か杜若」、甲乙が点け難い。①と②は、脚色が室町京之助で、長谷川伸の原作を直截に踏襲している。二葉百合子は、瓦屋半次郎の家の場面から大詰めの荒川土手までの流れを、忠実に辿りながら、番場の忠太郎の「心象世界」を鮮やかに浮き彫りする。とりわけ、冒頭の歌謡「瞼とじれば会えてたものを せめてひと目と故郷をすてた あすはいずこへ飛ぶのやら 月の峠で アア おっ母さん 泣くは番場の忠太郎」から、料亭水熊の語り「こんな事なら夢のまま 瞼の母の面影を そっと抱きしめ人知れず 会ってりゃよかった故郷の 番場の宿にさえいたらこんな憂き目は見まいもの 草鞋をはいたばっかりに 花のお江戸の柳橋 やっと会えたと思ったら ただいちどきに瞼から 母の姿が消えたとは 二十余年を一筋に 見てきた夢が無になった せめても一度あの時の 母よ来てくれ会いに来て ホロリ瞼で泣いてくれ」を経て、「一人 一人ぼっちと泣いたりするか 俺にゃいるんだ瞼の母が 孝行息子で手を引いて お連れしますぜ アア おっ母さん 旅のからすで あの世まで」という歌謡で締めくくられる風情は、まさに「一巻の絵巻物」である。極め付きは、冒頭と終末の「歌謡」であろう。その声、節回しは、誰にもまねできない「国宝」(無形文化財)級の代物である、と私は思う。続いて、中村冨士夫の作物、ほぼ内容は①と同じだが、冒頭は、番場の忠太郎の「仁義もどきのお目見え」から始まる(その中で「まだくちばしの青い身で」という件があったが、「嘴が黄色い」方が自然ではないだろうか、まあそんなことはどうでもいい)。瓦屋半次郎宅の場面は省略、料亭水熊の店先、忠太郎とおとら婆さんの絡みが初場面という演出だが、どうやら水熊の女将が自分の母親らしいと「確信」した後の「歌謡」が素晴らしかった。いわく「わずか五つのあの時に 別れて二十有余年 会いたい見たいと神かけて 祈り続けた母親と 年も名前もいっしょなら 生まれ在所もまた同じ どうか尋ねる母親で あってくれよと眼を閉じりゃ 母は恋しいなつかしい」。はやる忠太郎の気持ちが真に迫って描出される。演者は男とあって、いとも自然に忠太郎の風情が伝わってくるという按配で、とりわけ「おかみさん、とんだお邪魔でござんした。二度と再び忠太郎、お宅の軒はくぐりません。ごめんなせえっ」という「決め科白」が清々しかった。加えて大詰め、待乳山で待ち伏せた素盲・金五郎に向かって「・・・おうっと危ねえ、よせったら。畜生、じゃあ聞くがナ、てめえ、親がいるか」「そんなものァねえや」「兄弟は・・・」「いるもんけえ」「よし、じゃあ斬ってやらァ。なんだい、そんなへっぴり腰をしやがって・・・。それじゃァ人は斬れねんだ。斬るというのァ、こうやるんだっ」という「やりとり」の中に、アウトロー同士の荒んだ景色が仄見えて、やるせない。終末、「あとは静かな夜の闇 雲が流れた月が出た どこへ行くのか忠太郎、風に流転の三度笠」「ああ浅草の鐘が鳴る あれは竹屋の渡し船 影を姿を送るよに 声をじまんの船頭が 泣いているよな隅田川」という、寂寥感漂う中村冨士夫の語りの中には、まさにこの作物の眼目(愛別離苦)が、否応なしに結晶化されているのであった。続いて、③(伊丹秀子)は、荻原四朗の脚色、場面は料亭水熊のみ、筋書も長谷川伸の原作とは大きく異なり、瓦屋半次郎が水熊に「逃げ込んできた」という設定である。土地の親分、柳島の弥八が、一味と連れだって半次郎を追跡、「飯岡一家の若けぇ者を三人まで叩き斬ってずらかった野郎ダ。やくざの意地で生かしちゃおかねェ。だまってだしてもらいてェんだ・・・」と水熊の女将・お浜に迫るところから話は始まる。お浜は体よく弥八を追い返し、娘・お豊と共に半次郎をもてなすといった按配で、ややもすれば、お豊と半次郎の間にに「常ならぬ空気」が漂う景色を描出する。伊丹秀子、詠っていわく「お豊が先に顔だせば 見張りの者の影はなく 夜空に冴える神無月 水懐に映るのみ 後振り向いてうなづけば まわし合羽の半次郎 招きに応え木戸口へ 別れともない霧の夜」。匿っていた半次郎をお豊が逃がす場面だが、この《別れともない》という一言が、いかにも面妖で興味深かった。以後は定番通り、婆と忠太郎、忠太郎とお浜の「絡み」へと進んで行くが、この作物の特長は、登場人物が多いこと、前出の柳島弥八、お浜、半次郎、お豊に、銭を乞う老婆、忠太郎、水熊出入り人・徳、水熊女中、下男、なんと9人の面々を、伊丹秀子は、その声音だけで見事に演じ分ける。俗に「七色の声」と評される所以であろう。そのことによって、物語の展開が、芝居の舞台模様のようにその光景を彷彿とさせるのだ。また、忠太郎がお浜との「絡み」の中で「・・・お前さんは、間違えもない此の忠太郎のおっ母さんだ。へぇ、おっ母さん!なぜ返事をしてくれねえんだ。おっ母さん。おっ母さんと呼んじゃ悪うござんすか。大きな声で悪かったら」という科白に続いて「小さな声で、忠太郎と呼んでく下さい おっ母さん 武州金町瓦屋の半次郎と名乗る旅人を・・・」と「語り」に入っていく風情は、文字通り「天下一品」、終末も、お豊が弥八に拉致されたと聞くや、「お浜さん、お前には義理も恩もかけらも無えが、お豊とか云う娘さんは俺の話を聞いてやれと云ってくれた。優しそうな人が忘れられねぇんだ。一生一代の晴れの姿が無事に祝言させてやりてえ。この忠太郎がたすけてやるぜ」と言い残し、(三度笠を投げ捨てた、道中差の繰り方を、しっかり握る忠太郎。花散る堤 かけて行く)幕切れが、何ともあっけなく、「粋な別れ」であった、と私は思う。〈つづく〉(2011.6.19)



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2023-03-22

付録・浪曲特選・《婦系図》(天津ひずる)

  午後0時30分から、浅草木馬亭で浪曲を聴く。出演者は、東家一太郎(「矢作の鎌腹」)、玉川奈々福(「放蕩一代」)、澤順子(「蝶々夫人」)、浜乃一舟(「男の花道」)天津ひずる(「婦系図」)という面々であったが、なかでも天津ひずるの「名調子」は見事であった。御存知、湯島境内の場から1年後の話。病魔に冒されたお蔦の病状は悪化の一途、面倒を見る惣助夫婦の計らいと説得で、「真砂町の先生」も改心、早瀬主税を静岡から呼び寄せたが、時すでに遅し、お蔦の臨終には間に合わなかった、という愁嘆場である。口演の天津ひずるは、その状景・叙情を「淡々と」、しかも迫真の「技」で描出する。浪曲の真髄は、一声、二節、三セリフと思われるが、声は清らかに澄みわたり、細やかな節回しも絶妙、セリフは、聞いただけで、その個性的な人物像が浮き彫りされる、といった按配で、文字通り「三拍子揃った」、天下一品の出来映えであった、と私は思う。芸名から察するに、彼女の師は天津羽衣か・・・。風貌は、堂々として貫禄十分、芸風はどこまでも艶っぽく、なんとも魅力的な舞台姿であった。木馬亭の2階は木馬館、大衆演劇のメッカで、日にち毎日「芝居を観に来る」客でごった返しているが、打って変わって、こちらは「静閑」そのもの、「浪曲を聴きに来る」(落ち着き払った)客筋との違いが際だつという風情で、まことに興味深い。まさに「観ると聴くは大違い」ということだろう。日頃は、十数名の客数だが、今日は百名近くが来場、それでも「深閑」とした、いつもの空気が毀されることはなかった。感謝。(2012.2.4)



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2023-03-21

浪曲特選・女流浪曲師・大利根勝子の十八番「田村操」の《眼目》

 女流浪曲師・大利根勝子の十八番に「田村操」という作物がある。時は明治、ある法律家には二人の娘がいた。姉は25歳、妹は22歳。法律家は妹を呼んで「おまえも、もう年頃、好きな男を見つけて夫にするがよい。その青年にこの家を継がせよう」などと言って、「品定め」に入った。白羽の矢が立ったのは、この家に住み込んでいる書生・田村操という好青年であった。「彼だったら申し分ない」と、法律家、大いに満足したが、妹は不審の様子。「でも、私にはお姉様がいます。お姉様の縁談の方が先ではないでしょうか」「なるほど、おまえがそう思うのはもっともな話・・・ 」。法律家、あたりを憚りながら、声を細めて曰く「ここだけの話だが、姉は今から25年前、玄関先に捨てられていたのだ。子どもがいなかった母さんと私は、その子を拾って「わが子」のように育てた。その後、おまえが生まれて「妹」になったが、この家を継ぐのは実子であるおまえの方なのだよ」。しかし、壁に耳あり障子に目ありで、この話は、すべて姉に聞かれてしまった。しかも、間の悪いことに、姉もまた、田村操という好青年を慕っていたのだ。すぐさま、姉は田村の居室に赴き、直接談判に及ぶ。「田村さん、私はあなたを愛しております。どうか、私をお嫁にもらって下さい」。寝耳に水の,田村操、「待って下さい。私はまだ書生の身、まして先生のお嬢さんなどと一緒になれるわけがありません」と断ったが、姉の気持ちは収まらない。刃物を持ちだして「私の話を聞いてくれないのなら、あなたを殺して私も死ぬ」と斬りかかる始末、「危ない!やめて下さい」などと揉み合ううち、騒ぎを聞いて、駆けつけてきた法律家、「いったいどうしたのだ?」。姉曰く「お父様、田村さんが、私にお嫁になれ、言うことを聞かなければ殺す、といって襲いかかってきたの。人殺し!」その豹変ぶりは、迫力満点、あらためて「女の恐ろしさ」を再認識させられる場面として、際立っていた。「何ということを!この恩知らずが、出て行け!」と激昂する法律家を前にして、あっけにとられた田村操、「いえ、先生、違います」と抗う気持ちを、ぐっとこらえて辛抱する。「わかりました。申し訳ありません。大変お世話になりました。私はお暇いたします。いつまでもお元気で、ありがとうございました」と言って退去したのだが、収まらないのは妹も同様・・・、必死で田村操の後を追う。その後の展開や如何に?といったところで「ちょうど時間となりました。チョト一息、また口演」となるのが、(浪曲の)定番だが、大利根勝子嬢は、結末まで詳細に語ってくれた。しかし、今、私はそれを思い出すことができない。かくて、この作物の眼目は(私にとって)「不条理」以外の何ものでもないという結果になるのだが・・・。それにしても、この「田村操」という人物、斯界では「有名」だが、現代の巷間では全くの「無名」である。なぜだろうか。(2013.8.10)
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(2006/04/14)
坪内 逍遙

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2023-03-20

浪曲特選・名品二つ、「雨の山科」(天津ひずる)と「からかさ桜」(澤孝子)

 午後2時過ぎから浅草木馬亭で浪曲を聴く。その一は、天津ひずるの「雨の山科」、その二は、澤孝子の「からかさ桜」。いずれも、女流浪曲界の達人が描出する名品で、まさに「斯界の至宝」、久しぶりに浪曲の醍醐味を堪能できた。「雨の山科」は、御存知「忠臣蔵」の一節、大石内蔵助が「敵を欺くためにはまず身内から」と、妻・りくに向かって心ならずも「愛想づかし」をする場面から始まる。りく、半信半疑に「祇園遊女、浮橋太夫を身請けするという話は本当ですか」と問いただせば、内蔵助、こともなげに「ああ、本当だ。妹のように可愛がってやれ」と言い放つ。りく、まだ半信半疑で「それは、御本心か?」と確かめるが、「ええ、くどい!そちのようなつまらぬ女に用はない。浮橋に子どもたちの面倒はさせられない。子どもたちを連れて出て行け」「私には行くところがありません」「お前の実家があるではないか」という問答の中に、内蔵助の母、子どもたちも登場、義理のため「不条理な」決断を迫られ「離縁」の愁嘆場を演じる一家の面々の景色が、天津ひずるの口演によって、哀しくも鮮やかに描き出され、私の涙は止まらなかった。とりわけ、一同が去った後、息子・大石主税を見送らせながら、「りく、すまぬ。許してくれ」と手を合わせる内蔵助の心象風景は絶品、芝居の舞台を超える出来映えであった、と私は思う。続いて、大御所・澤孝子の「からかさ桜」。江戸向島は桜の名所、長命寺の門前に立つ一本の大木、そこにやって来たのは、五十両の借金が返せずに、首を吊ろうと二の枝にまたがった呉服商北野屋、帯を首に巻いて「南無阿弥陀仏・・・」と唱えたが、下の方ではかすかな人声、見ると若侍と芸妓の二人連れ。「この世で添えぬなら、あの世で・・・、お花、覚悟は良いか。後の始末に百両を置いておこう」。その心中場面を木の上から見ていた北野屋、(欣然として)「そっと首から帯び解いた」。しかし、若侍が振り上げた刀の切っ先が光ったのに驚いて、木から転落、二人連れも「追っ手が来たか!」と逃げ去った。残されたのは「切り餅四つの百両」、北野屋「お侍様!お忘れ物ですよおっ・・・」と追いかけたが、後の祭り。北野屋、思いもかけぬ大金を手にして借金は返済、以後の事業はトントン拍子で十年後・・・。今や表通りに八間間口の大店を構えている北野屋、そこに訪れたのが件の侍と奥方、息子の七五三の祝いにと袴地を物色に来たのであった。かつての若侍はすでに37歳、あの時、叔母の計らいで心中は断念、今では本所に居を構えるまでに出世、芸妓・お花も「花江」と名を変えて奥方に納まっている次第、北野屋いわく「あの時に拝借した百両のおかげで私は死なずに済みました。今、お返しいたします。利子はこの北野屋の身代、すべてお受け取りください」「わしも武士、いったん手放した金は受け取るわけにはいかない」といった清々しい結末で大団円となった。この美談を耳にした長命寺の住職が、件の百両を元手に「三囲社」を建立、その名には、北野屋、若侍、芸妓の三者が十年ぶりに巡り合った由来が込められているという。口演の澤孝子、師匠は「落語浪曲」の名人・広沢菊春だが、その声音・声量は喜寿を超えてますます充実、軽妙・洒脱な「啖呵」も群を抜いている。稀代の名人芸は、今も着実に継承されていることに感動しつつ、今日もまた大きな元気を頂いて帰路に就いたのであった。
(2014.3.4)
大石内蔵助の生涯―真説・忠臣蔵大石内蔵助の生涯―真説・忠臣蔵
(1998/08)
中島 康夫

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2022-06-15

浪曲特選・女流浪曲師・天津ひずるの「お吉物語」

午後3時過ぎから、浅草木馬亭で、天津ひずるの浪曲を聴く。本日の演目はナ、ナ、ナント「お吉物語」であった。いつもなら、「○○原作、○○○○、サーッ」と言いながら語り始めるところだが、「お吉物語、実話にもとづいて語ります」とのこと、私の期待は高まった。それというのも、前回(1月)の口演「母の罪」視聴後、その感想を綴った駄文の末尾で、私は以下のように書いていたからである。〈「母の罪」は、師・天津羽衣が、戦後「女優」として第一歩を踏み出したデビュー作、それを忠実に(脚色を加えながら)踏襲しようとする、ひずるの「孝心」に脱帽する。さればこそ、次回は、「お吉物語」「明治一代女」の名作(ひずる版)を、是非とも蘇らせていただきたいなどと、身勝手な「夢」を描きつつ帰路に就いたのであった。(2013.1.5)〉それから、ほぼ2ヶ月後、望外にも私の夢は叶ったのである。その作物は、まさに「ひずる版・お吉物語」、師・天津羽衣のそれとは、一味も二味も違っていた。冒頭の、下田町奉行組頭・伊佐新次郎の「ハリスの元に行ってもらいたい」という要請を断固として拒絶する場面は同じであったが、以後の展開は、全く趣を異にする。羽衣版では、次の間に、正装して控えた鶴松との「絡み」へと進むが、ひずる版は、一転して、二世を誓ったあの時、下田港での逢瀬の場面が、回想される。羽衣版は、どちらかといえば「恨み節」、時として、鶴松(男)の身勝手さを責める風情も漂うが、ひずる版は、時代の波に翻弄され、世間の「冷たさ」に抗い切れなかった、お吉、五十余年の生涯を「俯瞰的」に描出する。「お吉物語」といえば天津羽衣、天津羽衣といえば「お吉物語」というほどに、羽衣版が人口に膾炙している中で、「実話」に拘ったひずる版を創出しようとする彼女に、私は心底から拍手を送りたい。後半(時代は江戸から明治に移り変わり)、襤褸切れのようになって暮らすお吉、施された米をばらまいて「世間」に立ち向かう。今では、明治政府の役人に出世した伊佐新次郎、探し当てたお吉の(その)姿に茫然として「謝罪する」が、お吉は許さない。その毅然とした姿が、ありありと目に浮かび、私の涙は止まらなかった。そしてまた、「鶴さん、お酒、一緒に飲もうね」と墓前で語りかける。一瞬、場面は、冒頭の「逢瀬」に蘇えり、私の心中には、おのずと「夢も見ました、恋もした、二世を誓った人も居た、娘ごころの紅椿、どこのどなたが折ったやら」(作詞藤田まさと・作曲陸奥明)という、あの歌声が聞こえて来たのであった。大詰めは、お吉の亡骸を引き取り、法名を授けて丁重に葬る宝福寺住職の件、ちなみに、そのあたりの事情について「実話」(「斎藤きち」・ウィキペディア百科事典)では、以下のように記されている。〈その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる〉。かくて、「ひずる版・お吉物語」は幕となったが、その作風は、あくまで「澄み切った」清冽な情景の連続で、師・天津羽衣の(あばずれ的な色濃い)「泥臭さ」とは、無縁であった。どちらが好きかは聴衆の勝手、「私的」には、「ひずる版・黒船哀歌」くらいは、聴いてみたい気もするのだが・・・。(2013.3.1)
お吉物語/黒船哀歌お吉物語/黒船哀歌
(2005/12/07)
天津羽衣

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