META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 鹿島順一劇団
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2022-12-11

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《プロフィール》

【鹿島順一劇団】(平成19年11月公演・柏健康センターみのりの湯)
 座長・鹿島順一が登場しただけで、舞台はピリッと引き締まり、牡丹の花が咲いたようになる。瑞々しい男の立ち姿、上品な女の艶姿が、えもいわれぬ澄み切った色香を漂わせる。かつての映画スター・長谷川一夫、高田浩吉を足して二で割ったような風貌・芸風で、芝居・舞踊・歌唱とも斯界の第一人者と思われる。座員には妻・春日舞子、長男・虎順、花道あきら、蛇々丸、春大吉、梅乃枝健等、いずれも実力者が揃っている。
 客の人気に迎合することなく、淡々と、しかも華麗な舞台を創り続けている姿には敬服する。座長を筆頭に、やや「控えめ」、「力を溜めた」演技が魅力的である。「女形舞踊」を「安売り」することなく、「男」踊りの色香に賭けようとする演出は心憎いばかりである。
<座員寸評>
・鹿島順一:これまでに身につけた「風格」「技」を、ひとりでも多くの座員に伝授してもらいたい。特に、芝居における「間のとり方」「力の抜き方」、舞踊における「体の動きの線」のあでやかさ、歌唱における「めりはり」のつけ方において、右に出る者はいない。「演劇グラフ」の案内にあるように、「芝居、舞踊、歌と三拍子そろった」名優である。*近江飛龍は「力の抜き方」において及ばない。舞踊では、見城たかし、南條光貴が迫っているが、「男」踊りでは及ばない。歌唱では、見海堂 駿が迫っている。
・春日舞子:目を明いたまま「盲目」の役をこなせる数少ない「演技派女優」である口跡はやや単調だが、心情の「機微」は十分に表現している。「老け役」「悪女」、「コミカルな役」づくりに期待する。*芝居において富士野竜花、都ゆかりの「実力」と拮抗している。
・花道あきら:「力を抜いた」演技に徹することが肝要。「つっこみ」から「ボケ」への瞬時の「変化」、「敵役」「汚れ役」にも期待する。「女形舞踊」は魅力的。「力を抜いた」舞踊をめざせば大成する。
・蛇々丸: 芝居、舞踊の「実力」は太鼓判を押せる。「重いセリフ」同様に「軽いセリフ」も、ゆっくりと、確実に、力を込めて・・・。「身振り」(パントマイム)による表現力は絶品、同様に「表情」による表現も自信を持ってゆっくりと。目線一つで笑わせる「技」に期待する。新人女優の「棒ゼリフ」に棒ゼリフで応えたアドリブはさすが。また、「舞踊」(安宅の松風)における富樫、判官、弁慶の「踊りわけ」は見事であった。
・春大吉:「源太時雨」は熱演。「セリフ回し」では、声量を「調節」することが肝要。ワイヤレスマイクを通してスピーカーから出る自分の声を「聞く」余裕が欲しい。「身のこなし」ひとつで「心」は表現できる。立ち位置、姿勢、目線の使い方など、座長の「技」を盗んで欲しい。「ボケ」から「つっこみ」への瞬時の「変化」、「静」と「動」の使い分けに期待する。「女形舞踊」は魅力的、自信を持ってよい。
・虎順: 舞踊の「基礎・基本」が確実に身についている。楷書的な「芸風」は見事 の一語に尽きる。観客は、誠実、真摯な舞台姿に感動する。今後は、少しずつ「力を抜く」ことが必要、ただし油断すると楷書がデタラメになるおそれがあるので細心の注意をしなければならない。楷書から行書、行書から草書への「道のり」は容易ではないが、その「力」は秘められている。客の歌声にあわせて踊った「人生桜」、障害のある娘役を演じた「演技力」が、そのことを証明している。*ライバルに、南條影虎、恋川純、早乙女太一がいる。
・梅之枝健: いぶし銀のような脇役、「老け役」「汚れ役」「ボケ役」「敵役」どんな役 でも器用にこなせる貴重な存在である。華麗な舞台を引き締める、「影」のような役割にも期待したい。「老け役」のコミカルな「舞踊」を観てみたい。
・金太郎:「阿波踊り」「チャンチキおけさ」などテンポの速い「舞踊」に挑戦してほしい。「舞踊」の「身のこなし」が、芝居の「表現力」に通じるからで       ある。
・香春香(新人女優):春日舞子の「代役」として、臆することなく「堂々」と演じた舞台態度は立派である。セリフは一本調子でよい。「芝居」も「舞踊」も、つまりは「体」で表現するものだから。「表情」「身のこなし」を鏡に映し、自分の姿を確認しよう。今、観客はあなたの「芸」ではなく「懸命な努力」に感動している。

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2022-12-10

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「新月桂川」・《若手女優・春夏悠生、二年目の「大変化(へんげ)」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年6月公演・大井川娯楽センター〉
芝居の外題は「新月桂川」。私はこの芝居を、ほぼ2年前(平成21年7月)、ここ大井川娯楽センターの舞台で見聞している。以下はその時の感想である。〈芝居の外題は「新月桂川」。敵役・まむしの権太、権次(二役)を好演している春大吉が、「配偶者の出産」のため、今日は、花道あきらが代演したが、これまた「ひと味違う」キャラクターで、出来映えは「お見事」、例によって「新作」を見聞できたような満足感に浸ることができたのである。前回(11年前)来た時、三代目虎順は6歳(小学校1年生)、まだ舞台には立っていなかったという。したがって、今回は、桂川一家の若い衆・銀次役で「初お目見え」(初登場)となったが、「全身全霊で臨む」のが彼の信条、その舞台姿は、親分(蛇々丸)のお嬢さん(春夏悠生)を思う直向きさ、どこまでも兄貴分・千鳥の安太郎(鹿島順一)を慕う純粋さにおいて、座長(父・鹿島順一)と十二分に「肩を並べ」、時には「追い超す」ほどの迫力があった、と私は思う。願わくば、安太郎が「惚れて惚れて惚れぬいた」お嬢さんの風情が、「今一歩」、「振った女」より「振られた男」の色香が優るようでは、「絵」にならないではないか。次善とはいえ、鳥追い女(春日舞子)との「旅立ち」が、殊の外「決まっていた」ことがせめてもの「救い」だったと言えようか。春夏悠生、今後の奮起・精進に期待したい〉。当時は、主役・千鳥の安太郎に二代目鹿島順一(現・甲斐文太)、その弟分・銀次に三代目虎順(現・三代目鹿島順一)、桂川一家親分に蛇々丸という配役であったが、今回は千鳥の安太郎が座長・三代目鹿島順一、銀次が赤胴誠、桂川の親分が甲斐文太と「様変わり」し、敵役の蝮の権太、権次は花道あきら、親分の娘・おみよは春夏悠生、安太郎を慕う鳥追い女・お里は春日舞子という配役は「当時のまま」であった。なるほど、話の筋からいえば、安太郎と銀次の「(義)兄弟コンビ」は今回の方が真っ当である。親分の娘に焦がれる「青春」の息吹きが双方に感じられて、一段と清々しい景色であった。義理と人情の板ばさみで、複雑に揺れ動く安太郎の心情を、三代目鹿島順一は「所作」と「表情」だけできめ細かに、また初々しく演じ切ることができた。お嬢さんと銀次が「できていた」ことを知らされてから、ふっと力が抜けていく(「振られた男」の)無力感」の風情が鮮やかに描出されていた、と私は思う。。加えて、春夏悠生の「変化(へんげ)振り」も見事であった。2年前に私が期待した「奮起・精進」はしっかりと実行され、安太郎が「惚れて惚れて惚れぬいた」お嬢さんの風情、文字通り通り「鬼も十八番茶も出花」といった景色が、その表情、所作の中に表われる。2年前の舞台とは「似ても似つかない」「見違えるほどの」成長振りで、私の涙が止まらなかった。また、安太郎と銀次が帰ってきたことを知らせに来るだけの「ほんのちょい役」、百姓に扮した滝裕二も立派、その懸命な姿に、客から(引っ込みで)大きな拍手がわきあがるほどで、大筋には無縁な役柄こそが、舞台の模様を引き締めるという、何よりのの証であった。親分役・甲斐文太と鳥追い女役・春日舞子は、いうまでもなく劇団の「二本柱」、その気合、姿に申し分はないのだが、それに応える若手陣との「差」は大きく、芝居全体の出来栄えとしては、まだ2年前の舞台に及ばない。やはり安太郎は甲斐文太、追いかけるのは春日舞子でなければならない。親分の娘から「げじげじ虫より」嫌われるのは、甲斐文太の安太郎でなければならない。なぜか。(甲斐文太の)安太郎には人を殺めても「平然」としていられる、アウトロー的な(崩れた)空気が、おのずと漂う。その風情こそが、(まだ「小便くさい」)娘・おみよから嫌われる所以であり、また「酸いも甘いもかみわけた」「すれっからし」の鳥追い女からは「惚れられる源になっているのだから・・・。それ(アウトロー的な崩れた空気)を三代目鹿島順一が今後どのように描出するか、そこらあたりが、これからの課題といえようか。さて、今日の舞踊ショー、これまで以上に「気合」が乗っていた。特に目についたのは、「殿方よお戯れはなし」の春夏悠生、幼紅葉、「御意見無用の人生だ」の滝裕二、その表情、所作、振り・・・等など、無駄がなく流れ、歌の想いが凝縮された見事な作品に仕上がっていた、と私は思う。加えて、いつもながらのことだが、甲斐文太の「河内おとこ節」(歌・中村美律子)、春日舞子の「芸道一代」(歌・美空ひばり)は、斯界・個人舞踊の「お手本」といえよう。、歌を聴くだけなら「なんぼのもん?」と思われる歌謡曲を、「踊り」を添えることによって珠玉の「名品」に豹変させてしまう。まさに「踊り」が「歌」を超えているのである。その景色・風情は「筆舌に尽くしがたく」、(ましてDVN、VHSなどその記録物が皆無とあれば)現地に赴いて、じっくりと鑑賞する他はないのだが、今日もまたその「至芸」を堪能できたことは、望外の幸せであった。感謝。
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2022-12-09

「鹿島順一劇団」・《芝居「紺屋高尾」・三代目虎順の役者魂》

【鹿島順一劇団】(平成20年2月公演・川越三光ホテル・小江戸座)
 祝日とあって観客は「大入り」。芝居は「紺屋高尾」、配役は、座長・紺屋(久助)、虎順・高尾、二人とも発熱(感冒)を押しての熱演だったが、やはり16歳の若手に「遊女」役は荷が重い。「汚れ役」(鼻欠けおかつ)で登場した蛇々丸が舞台を盛り上げた。客から「蛇々丸の女形を観たい」という所望が多いので、今日はそのリクエストに応えたという。しかも、それが何と泥・垢にまみれた「夜鷹」役とあって、客は見事な肩すかしを食らった。そうした演出が実に「粋」である。この「汚れ役」は、通常「鼻に抜けた」口跡で演じるが、「表情」(化粧)「所作」だけで「鼻欠け」役を演じた蛇々丸の「実力」は半端ではない。また劇団の高い品格を(弱者の言動を徒に弄ばない)感じる。座長の歌謡ショーは、虎順の舞踊をバックに「鯱」、そして私が心待ちにしていた「無法松の一生」(度胸千両入り)だった。音が切れたマイクの故障にも動ぜず、最後まで情感たっぷりに歌い通した腕前はさすがであった。ラストショー、「旛随院長兵衛」役の虎順は孤軍奮闘の熱演、それを最後に、夜の部は欠場となった。本人はラーメンを食べ、「夜も出る」と頑張ったが、高熱には勝てず、服薬して静養中とのこと、倒れるまで全力を出し切った「役者魂」に拍手を贈りたい。夜の部の芝居は「仇討ち前夜・小金井堤」、座長を筆頭に、座員一同、「きちんと、いい仕事している」が、いつもとはどこか雰囲気が違う。役者も客も何か物足りない。虎順の抜けた穴がポッカリと空いてしまうのだ。日頃の「全力投球」の姿が見られない「寂しさ」がつきまとう。まだ芸未熟とはいえ、まさに誠心誠意、全力を尽くして舞台を務める彼の存在が、いかに劇団員・観客の覇気(モラール)を高めているか、その舞台を、活気のみなぎった、魅力的なものにしているか、を思い知らされる一幕ではあった。大衆演劇という劇団のチームワークが、役者同士の強い絆によって作られていることを、あらためて思い知らされた次第である。三代目虎順の、一日も早い回復を祈りつつ、帰路についた。

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2022-12-07

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「仇討ち絵巻・女装男子」と「月とすっぽん」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年2月公演・川越・三光ホテル小江戸座〉
 芝居は「仇討ち絵巻・女装男子」と「月とすっぽん」、それに舞踊(歌謡)ショー、二ヶ月ぶりに見る舞台は依然として光彩を放っていた。客の話、「今度の劇団はいいよ」、「特に、女形で上手い役者がいたなあ」「早く役者の名前をおぼえなくちゃあ」、等を耳にしながら、「当然、当然、なにせ日本一の劇団なのだから・・・」と、私は納得していた。特に、「うるさくなくていいよ、他の劇団は音が大きすぎて頭が痛くなってしまう」という客の声は聞き逃せない。私は、これまで観た劇団の座長すべてに、音響効果に留意するよう、手紙を送ったが、その後、変化の見られた劇団は、「劇団花車」(座長・姫京乃助)、「恋川純弥劇団」(座長・恋川純弥)、「剣戟・はる駒座」(座長・津川竜)、「小林劇団」(座長・小林真)、そしてこの「鹿島順一劇団」くらいであろうか。 今日の芝居では、役者が装用するワイヤレスマイクのボリュームを絞れるだけ絞り、舞踊では、音楽のボリュームを「痛覚レベル」寸前で抑えている。この配慮こそ、何よりも大切な「演出」なのである。座長はじめ、花道あきら、蛇々丸、春大吉、三代目虎順、春日舞子、梅乃枝健といった面々の「実力」は相変わらずであったが、若手・金太郎の演技に「少しずつ」変化があらわれているように感じた。舞踊における「身体の線」が「絵になりつつ」ある。さらに「肩の線」「表情」が変化すると「見違えるように」なると思うのだが・・・。三代目虎順の「女装男子」、女形から「若様」(侍)への変身を、どのような間(呼吸)、表情、所作、声音で表現するか、関心を持って観ていたが、市川海老蔵(「十六夜清心」の清心役・「弱」から「強」、「善」から「悪」への変身)よりは「上」であった。前半の「女装」部分(「人形ぶり」のような型どおりの所作)は合格、それが「男子」になった後半が「今一歩」(「若様」としての風格がまだ感じられない)というところか。今後、「渡世人」「素浪人」「旗本」「役者」「百姓」など「立ち役」の使い分けができるように、父・鹿島順一の「至芸」を学びとってもらいたい。花道あきらの「女形舞踊」は、一段と磨きがかかり、まさに「油がのりきった」感がある。芝居でも「表情」による演技が冴え、舞台を引き締めていた。蛇々丸、春大吉も、脇役に徹した「控えめ」な演技がすがすがしく、素晴らしい(爽やかな)舞台であった。「芝居・月とすっぽん」の終幕、どうみてもすっぽんの座長(平太郎)と舞子(お鍋)が深手を負い、どうせ死ぬなら明るくと、「会津磐梯山」の音曲に乗せて踊る相舞踊(節劇)は秀逸、また、「歌謡ショー」で、座長(の歌唱「ああ、いい女」に合わせて踊る)舞子、御両人の舞台も絶品であった。一ヶ月公演という長丁場、それぞれの劇団員が「適材適所」で十二分に「実力」を発揮することを期待する。この劇団がさらにその実力を高め、「日本一」の座をいっそう確実にするための課題は何か。それは「真剣勝負」の一語に尽きると私は思う。文字通り、小道具として使われる大刀、小刀、匕首など、「刃物」が「真剣」(本身)であるように「見せる」ことができるかどうか。それは、刀身が鞘から抜かれるときの「一瞬」で決まる。その光、重さ、冷たさ、鋭さが「真剣」だと錯覚させる「もどき」の世界を追求・実現できたとき、劇団の実力は確固としたものになるだろう。「刃物」は、大衆演劇の小道具に不可欠だが、それが「真剣」だと見間違えるような舞台はまだ観たことがない。唯一、大歌舞伎、新国劇 との「格差」であろうか。小道具に使える値段の多寡(劇団の経済力)は言うまい。「芸の力」でその格差を逆転することこそが、大衆演劇の面目(真骨頂)に他ならないからである。

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2022-12-06

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《座長の至芸「舞踊・ど阿呆浪速華」》とファンの客層

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「旅の風来坊」。清水一家の追分三五郎(三代目虎順)が、一宿一飯のお世話になった仏一家(女将・春日舞子、代貸・花道あきら、三下・三吉・蛇々丸)の「仇討ち」を助ける、という筋書で、主役は追分三五郎ということになっているが、実際の舞台では三下・三吉(三枚目)の独壇場であった。三吉と女将、三吉と三五郎、三吉と代貸しとの「絡み」が見せ場だと思われるが、今日の舞台では、双方の「呼吸の会わせ方」が「今一歩」で、「ボケ」と「つっこみ」の面白さ、「切れ味」が不足気味、三吉(蛇々丸)だけが「浮き上がり」気味であったように思う。客席の大半は老人クラブの「団体客」で、どちらかといえば「無反応」、そこでどうしても「反応を求めよう」として、繰り返し、強調の場面が多くなる。結果は「しつこい」「冗長」「白け」といった空気が漂いがち、芝居は「きれいに仕上がらない」。こんな日もある、そんな時は「気持ちを切り替えて」「いつもの半分で終わらせる」こともあっていいのでは・・・。
 とはいえ、舞踊ショーで座長・鹿島順一の至芸・「ど阿呆浪花華」を観られただけで私は満足である。その舞姿は、まず「浪花男」の風情をベースに、さらに坂田三吉(将棋指し)、桂春団治(噺家)、藤山寛美(喜劇役者)を描き分けるという「離れ業」によって光り輝く。客席の反応は「いまいち」であったが、そんなことは歯牙にもかけず、磨き鍛えた「実力」を、淡々と披露できる「さわやかさ」「いさぎよさ」に、私は脱帽する。加えて、歌唱「無法松の一生」(度胸千両入り)の出来栄えも、「お見事」。今度は、九州男児の風情に「変化」(へんげ)して、車引きの「侠気」「悲哀」を込め「夢も通えよ夫婦浪」という思いが渾身に漂った。
 帰りの送迎バスの中で、客の話。「座長の《無法松の一生》、よかったわね、本当にうまい!」「この劇団は、他の劇団と違って、芝居の筋がしっかりしている。役者さんの足が地についている。細かいところの描写があざやか。もっと、もっと観てみたい、という気持ちになる。他の人気がある劇団とは違う魅力がある。一見すると地味だけど、その中に、しっかりとした実力を感じる」
 おっしゃる通り、それこそがこの劇団の「本質」であると、私も思う。ちなみに、この送迎バスは「つくば駅」行き、件の客は「つくば学園都市」の住民に間違いない。(はたして、「大衆」「庶民」といえるだろうか?)

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2022-12-05

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《「花の喧嘩状」・座長、敵役で順調なスタート》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉                                    「鹿島順一劇団」、この劇場は「初お目見え」とあって、客の反応がどのようなものか、それがどのように変化していくかを見たいと思い、ついつい来場してしまう。今日も、客席は「大入り」、芝居の外題は「花の喧嘩状」。筋書きは大衆演劇の定番、二代目(主役・花道あきら)が男修行の旅に出ている留守をねらって、その親分(梅之枝健)を闇討ちする敵役の浅草大五郎(座長・鹿島順一)、とどめを刺そうとしたが、代貸(春日舞子)と子分(三代目虎順)の登場であきらめる。親分、いまわの際に、苦しい息の中で「仇討ちをあせってはいけない、二代目が帰るまで待つように・・・」と言い残して他界した。親分の遺言を忠実に守りながら二代目の帰宅を待ち続ける代貸と子分二人。浅草大五郎の「いやがらせ」がエスカレートし始めたとき、やっと男修行を終えた二代目が帰宅。しかし、待っていたのは親分の位牌、代貸、子分だけ、二代目、悲嘆にくれたが、「親分をやられて、敵討ちをしないお前らは情ない、俺は再び旅に出る」といって立ち去る。残された代貸と子分、「そういうことなら、やるしかない!」と、浅草一家に殴り込みをかけた。大五郎、「待ってました」と返り討ちにしようとしたが、どこからともなく現れた二代目に突き飛ばされ、座敷からころがり落ちて一言。「チキショー!最後にちょっと出てきて、良い役取りやがって・・・。今日はまだ正月二日だというのに、昨日も悪役、今日も敵役。それもこれもみんな座員のため、座長はみずから貧乏くじを引いてるんだ。温かい思いやりに感謝しろ!どこの劇団だって、三が日は座長が主役を張るもんだ・・・」と愚痴って、笑わせた。二代目、代貸、子分の仇討ちは成功、座長「新年、キラレマシテ、おめでとうございます」と言いながら退場。二日目にしては、客席の「反応」も「まずまず」というところで、私自身は一安心できた次第である。開幕後、客席後方で「私語」が目立ち、それを止めさせようと、客同士の「小競り合い」(言い争い)があったが、それは吉兆、舞台に集中したいと思う客の反応として、今後が期待できる。
 今回の公演、座長の「歌唱」の方から先に「人気」が出たように感じる。歌謡ショーでは「冬牡丹」(梅之枝健の「舞踊」入り)と「無法松の一生」を用意したが、アンコールの声に応えてもう一曲披露した。めったにないことである。なるほど、この劇場では、芝居は昼の部1回だけ、舞踊(歌謡)ショーは昼・夜2回、座長の歌唱をバックに各座員が「とっておきの舞踊」を披露することも悪くない、と思った。
 帰りの送迎バス(つくば駅行き)がどこから出るのかわからず、路線バス(関東鉄道)で土浦に向かおうと停留所(気象台前)に向かった。時刻表を見ると17時26分発がある。その時刻まで30分、時刻後20分待ったがバスは来ない。暗がりの中で、よくよく停留所の看板を見ると、何かがぶら下がっている。なんと正月三が日は時刻表どおりではなく「特別運行」する旨が書いてある。やむなく、湯ワールドまで立ち戻り、18時20分発の送迎バスで帰路についた。

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2022-12-04

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「命の架け橋」で故郷に錦を飾る》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年10月公演・大阪満座劇場〉                                       「故郷へ錦を飾る」といった風情で、ほぼ2年弱に亘る「関東・東北公演」を終え、やっと本拠地に帰還したという気持ちが、ひしひしと伝わってくる。芝居の外題は「命の架け橋」。春大吉、三代目虎順共演(中心)で、二人の演技が「研ぎすまされたように」「冴えわたる」。」俗に「男修行の旅から帰って、一回りも二回りも大きくなった」等といわれるが、文字通り「役者修業の旅から帰って、その技に一段と磨きがかかった」と断言できる舞台であった。何よりも「芝居は心」、そして「呼吸」、登場人物の「気持ち」「心情」を、役者相互の「表情」「所作」「口跡」でどこまで描出できるか、まさに「阿吽の呼吸」が不可欠だが、今日の舞台、「寸分の隙」がないほどに「練り上げられた」といった出来栄えで、涙が止まらなかった。それは、共演の二人に勝るとも劣らないほどに、脇役陣(仇役・花道あきら、死刑囚・春大吉の母親役・春日舞子、奉行役・鹿島順一)の「演技」が光り輝いているからでもある。加えて、その他大勢のちょい役に徹した蛇々丸の「控えめな」「目立たない」演技も「貴重」であった。「ちょい役」であっても、決して「気を抜かない」、「自分の姿を客に観せている」という自覚が素晴らしい。新人の赤銅誠、新入の滝裕二らに見せる「お手本」として、十分にその役割を果たした舞台であった、と私は思う。
 座長の方針、「この劇団の役者は、みんな個性的です。だから、みんなに主役をやってもらいたいのです。(主役をやらせないと文句を言うのです)」、事実、座長が主役の芝居は、極めて少ない。自分は控えめに「脇役」「仇役」としての「手本」を座員に示し続ける。だからこそ、座員は「脇役」「ちょい役」でも光り輝くことができるのではないか。「アヒルの子」の蛇々丸、(かつての)金太郎、「春木の女」の蛇々丸、「心模様」の春大吉、「関取千両幟」の春日舞子・花道あきら、「噂の女」の梅之枝健、「木曽節三度笠」の花道あきら、蛇々丸、「会津の小鉄」の春大吉・蛇々丸、「新月桂川」の春大吉、「女装男子・仇討ち絵巻」の梅之枝健、等々・・・。「脇役」「ちょい役」として「必要不可欠な存在」である実例は、枚挙に暇がないほどである。いかに座員の「個性」を引き出し、舞台の上で「結実化」させるか、それこそが座長の「手腕」だと思われるが、座長・鹿島順一の「手腕」は「お見事」と言うほかはない。座員の面々も、異口同音に言うだろう、「どうか、私の舞台姿ではなく、鹿島劇団全体の芝居(役者相互のチームワーク、呼吸の合わせ方)を観てください」そうでなければ、このような名舞台の数々を描出できるはずがないのである。



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2022-12-02

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《三代目座長襲名後の名舞台・芝居「命の架け橋」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)(平成22年8月公演・大阪豊中劇場)                                            6月に三代目虎順が18歳で鹿島順一を襲名(於・浪速クラブ)、7月は四日市ユラックスで順調に滑り出したように見えたが、8月、早くも試練の時がやって来た。劇団屈指の実力者・蛇々丸が「諸般の事情により」退団したからである。そのことが吉とでるか、凶とでるか。とはいえ私は観客、無責任な傍観者に過ぎない。文字通りの責任者・甲斐文太の采配やいかに?、といった面白半分の気分でやって来た。なるほど、観客は20名弱、一見「凋落傾向」のようにも思われがちだが、「真実」はさにあらず、この劇団の「実力」は半端ではないことを心底から確信したのであった。芝居の外題は「大岡政談・命の架け橋」。江戸牢内の火事で一時解放された重罪人(春大吉)が、十手持ちの親分(甲斐文太)の温情(三日日切りの約束)で、盲目の母(春日舞子)と対面、しかし仇敵の親分(花道あきら)の悪計で手傷を負い、約束を果たせそうもない。それを知った盲目の母、息子の脇差しで腹を突く。息子仰天して「オレへの面当てか!?・・・」母「可愛い子どものためならば何で命が惜しかろう。ワシのことが気がかりで立てんのじゃ。そんな弱気でどうする!早く江戸に戻って恩人の情けに報いるのじゃ・・・」といった愁嘆場の景色・風情は、まさに「無形文化財」。最後の力を振り絞って唱える母のお題目(「南無妙法蓮華経」)の念力によってか、法華太鼓の鳴り響く中、めでたく重罪人は江戸帰還、という筋書だが、今回の舞台、ことのほか春大吉の演技に「凄さ」が増してきたように感じる。加えて、座長・鹿島順一は父・甲斐文太と役割を交代、出番の少ない大岡越前守を演じた。その見せ所は、舞台に立つだけで「絵になる」存在感、仇役の親分を「ダマレ、カキナベ!」と一喝する場面だが、今日はその第一歩、それを精一杯、忠実にこなす姿に、私の涙は止まらなかった。「三代目、お見事!」、それでいいのだ。蛇々丸の「穴」は埋められる。これまで仇敵親分の子分で棒を振っていたが、今日は代わって赤胴誠、その所作は寸分違わず「蛇々丸」然、あとは「表情」「眼光の鋭さ」が加われば言うことなし、といった出来栄えであった。やはり「鹿島劇団」は日本一、その実力は「不滅」なのである。



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2022-12-01

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《観客一人でも幕を開ける「英断」と「実行力」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年12月公演・高槻千鳥劇場〉
客席に一歩足を踏み入れて驚いた。すでにミニショーの幕は上がり、壬剣天音の舞台(個人舞踊・「雨の田原坂」)であったが、客が居ない。暗がりの中、わずかに一人が最前列、そして私が今、一人・・・。「鹿島順一劇団」は客が一人でも幕を開けるのだ。その英断と実行力に、私は心底から敬意を表する。「一段高い所からではございますが、心は下座に下りまして・・・」とは斯界口上の常套文句だが、この劇団は、たった一人の(下座の)客のために幕を上げたのである。見上げた根性といおうか、他の追随を許さない役者魂といおうか、常日頃から座長・三代目鹿島順一が口にしている「全身全霊」とは、このことだったのか・・・。これまでの私の経験では「10人に満たない場合は舞踊ショーだけ」「たった一人の場合は中止」という劇団がほとんどであった。ミニショー・ラストは、座長・三代目鹿島順一の長編舞踊「俵星玄蕃」、以後来場して五人になった観客のために、渾身の力を込めて踊る舞姿は、文字通り「迫真の演技」で、先輩・南條影虎に勝るとも劣らない出来映えであった。客筋の中には、観客の動員数が劇団の実力だと勘違いしている向きも多いが、客の入りなど歯牙にもかけず、日々の舞台で精進を重ねる劇団こそ、真の実力者である、と私は思う。芝居の外題は「身代わり道中」。東海道を旅する股旅ヤクザ、吉良の三太郎(三代目鹿島順一)と赤穂の甚吉(赤胴誠)の友情物語である。道中で知り合った三太郎と甚吉が、相撲上がりの親分・大五郎(花道あきら)から狙われている宿屋(菊屋)の娘・お菊(春夏悠生)を救おうと立ち向かうが、三太郎はあえなく返り討ちに・・・。おりしも、親不孝をして家を飛び出した三太郎を捜す、巡礼姿で盲目の母(春日舞子)に出会ったが、自分は瀕死の身、替わって甚助が(三太郎になりすまし)親孝行をするというお話、大五郎を成敗し、三太郎と母を引き合わせたのが見受山鎌太郎(甲斐文太)という筋書きで、見所は、①無愛想でしたたかな菊屋番頭(幼紅葉)の風情、②菊屋に泊り込んだ三太郎と甚助の絡み合い(じゃれあい)、③身代わりの親孝行を引き受けた甚助と、それを見送る三太郎の景色、④見受山鎌太郎の風格と貫禄、といったところであろうか。私は、この芝居を「三代目座長襲名披露公演」(平成22年6月・浪速クラブ)で見聞している。当時の配役は、甚助が南條光貴、番頭が蛇々丸、客席は大入りといった按配で、その時の舞台模様には①と②が及ばなかったが、まだ「発展途上」の赤胴誠、幼紅葉が健気にも難役に挑戦、閑散とした劇場の中で精進を重ねる姿は感動的であった。たった五人の観客のために、誠心誠意「全身全霊」で取り組んだ、劇団・劇場関係者一同に感謝、今日もまた大きな元気をいただいて帰路に就くことができた次第である。
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2022-11-30

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「心模様」の舞台模様は国宝級》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年12月公演・高槻千鳥劇場〉
芝居の外題は「心模様」。時代は明治から昭和初期にかけて(?)、役人の給料が2~3円の頃、場所は、貧しい人々のために医療を続ける橋本医院の一室、「それでは、先生、お大事に・・・」などと的外れな言葉をかけて、異様な風体の患者(赤胴誠)が帰っていく。見送るのは二代目院長・橋本慎介(花道あきら)と叔父の徳松(責任者・甲斐文太)。徳松「なんだアリャ、来るところを間違えたのでは・・・」慎介「いいんですよ、困っている患者さんを助けるのは誰でも・・・」などと言っているところに、初代の未亡人(春日舞子)が、娘・君江(春夏悠生)を伴って登場。「慎介さん、貧しい人のために尽くすのも程々にしていかないとねえ。患者さんからお金を取らなければ病院の経営が成り立ちません。初代のために私たちがどれほど苦労したことか・・・」。初代のモットーは「医は仁術なり」、その意志を忠実に受け継いでいる慎介は、どうやら君江の入り婿で、叔父の徳松は病院の会計を担当しているらしい。未亡人の景色は、上流階級の奥様風、心中には「医は算術なり」の風情が窺われ、いまだに橋本家の権威を固持しようとしている。その剣幕に手を焼いている徳松、あくまで初代を尊敬している慎介、母と夫の板ばさみで逡巡する君江の様子が、三者三様、鮮やかに描出された場面であった。やがて未亡人と君江は初代の墓参りに・・・、替わって、客席から登場したのが角刈りの渡世人・柊秀次(三代目鹿島順一)、見れば右手に風呂敷包みを巻きつけている。誰がどう見ても「務所帰り」の風体だ。突然の来訪に驚く慎介と徳松、再会の喜びは隠せない。「そうか、出てこれたのか。いつ出所したんだ」「ああ、三月前に刑期を終えた。すぐに来ようと思ったが、まずはお袋のところへ行った。でもお袋は亡くなっていた。兄貴、おめえはずっと仕送りをしてくれたんだってなあ、ありがとうよ、お袋はおめえに感謝していたそうだ」など話すうち、未亡人と君江、再登場。未亡人、秀次を見るなり「どこのお方?」。慎介「私の弟です」「まあ、慎介さんに弟がいるなんて、ちっとも知らなかった」「どちらからいらしたの」秀次「あっしですか、あっしは前橋のけ・・・」といったとき、あわてて慎介と徳松が制し、徳松「前橋の景気が悪いもんでね、こちらに仕事を探しに・・・」「ああそう、それでお仕事は?」秀次「仕事ですか、それは何をかくそう」といって右手を上に上げたとき、徳松、あわてて割って入り「そう、そう、これです」と右手を上下に振り下ろす。未亡人「何ですか、それ」徳松、苦し紛れに「郵便局のスタンプ押し!」未亡人「へえ、じゃあ、前橋の郵便局の景気が悪いから、こちらにやってきたというのですか」一同、胸をなでおろして「そう、そう」といったやり取りが、なんとも面白かった。しかし、真実をいつまでも隠し通せるものではない。実を言えば、まだ慎介が医学生だった頃、町のならず者と酒の上での大喧嘩、助けに入った秀次がならず者を殺してしまった、慎介は将来のある身、秀次がひとり殺人の罪を負い、今、償いを終えて帰って来たという次第。秀次が銭湯へと退場した後、真相を知った未亡人「そんな殺人犯をこの家に入れることはできません、すぐに追い出しなさい」慎介は困り果て徳松に助力を頼む。「おじさん、一つ芝居をしてください」(「何、芝居?芝居なら今、ここでしとるがな」というギャグは、割愛されていたが・・・)「どんな芝居を?」「病院が借金を抱えて困っている。とても秀次を受け入れる余裕がない、という様子を見せてほしいのです」。やがて帰ってきた秀次を前に、徳松の芝居が始まった。「困った、困った。借金が返せない」秀次「借金がある?いくらあるんだ」「五十円」「それは大金だ、利子だけでもというわけにはいかねえか」「いかない、いかない」「そうか」と言いながら、秀次、懐にあった財布を差し出す。「ここに十五円ある。足しにしてくれ」その気持ちに打たれたか、徳松「慎介!、おれにはもう芝居を続けられない・・・」「何、芝居?」さっきから、どうも変だと思っていた秀次、「そうか、二人とも体よく俺を追い出すつもりだな。兄貴、水臭いじゃないか、それならそうと初手から言ってくれればいいものを、下手な芝居を打ちやがって。俺はな、この家に入れてもらいたくて来たんじゃない。お袋の守を頼みにきただけなんだ」と泣きながら、亡き母の位牌を差し出す。慎介、徳松、伏した顔を上げられぬうち、秀次は激昂の態で立ち去った。慎介、ようやく顔を上げ、徳松に「おじさん、酒を持ってきてください」「やめとけ、お前は酒をのんだらどうなるかわからない」「おじさん、持ってきてください」思いつめた様子に抗えず、徳松、壷を携えてきたが、慎介それを奪い取るや一気に飲み干して、その場に昏倒してしまった。そこに駆け込んできたのは村の娘(幼紅葉)、「大変、大変、おじいちゃんがいつもの発作、薬をください!」居合わせた徳松、あわてて慎介を起こし「大変だ、薬、薬、どの薬を渡せばいいんだ?」と尋ねるが、慎介の意識は朦朧、「赤い瓶だな」と確認して、娘に持たせた。しばらくして、ようやく正気になった慎介が徳松に確かめる。「今、誰か来たようだが」「ああ、いつもの子がきて、薬をくれというので赤い方を持たせた」「何だって!赤い方は劇薬だ!」驚愕する徳松「知らない、知らない、わしは知らないぞ」などと叫びながら逃げ去った。ひとり残された慎介、「もうだめだ、過失とはいえ私は殺人罪・・・誰にも迷惑をかけられない」と、出刃包丁を持ち出して、自刃の覚悟、再び飛び出してきた秀次、「兄貴!なんてことするんだ」ともみ合うところに巡邏(梅之枝健)が、件の娘を連れてやって来た。「この娘に薬を渡したのは誰か?」「はい、私です」と両手を差し出す慎介を押しのけて、「違う、違う。薬を渡したのはあっしです」と秀次が名乗り出る。「違う違う、私です」「いや、あっしだ」と言い合う二人を、不思議そうに見て巡邏いわく「どっちでもいい、娘がぬかるみに足を取られて、薬瓶を割ってしまったというんだ、早く薬を渡してくれないか」。思わず顔を見合わせながら、必死と抱き合う兄と弟、その姿は、いちだんと爽やかで、私の涙は止まらなかった。新しい薬をもらって欣然と退場する娘の孝行振り、薬の料金を律義に立て替える巡邏の温もりが、色を添えて、舞台は大詰めへ・・・。「何事ですか、騒々しい」と言いながら、未亡人、君江を伴って再登場、居合わせた秀次を見つけると「まあ、あなた、まだ居たんですか・・・」。しかし、今度は君江が黙っていなかった。「お母様!慎介さんは私の夫、これからは、私たちが決めたことに従っていただきます」と、(毅然として)言い放つ。未亡人「まあ!」と叫んだまま絶句、そのまま袖の内へと引っ込んだ。残された若夫婦、亡母の守は引き受けた、ありがとう、俺にはもう思い残すことはない、では、皆さんお達者で、といった気配の無言劇もあざやかに、この名舞台は幕となった。
 この演目を私は以前、慎介・蛇々丸、徳松・春大吉、未亡人・甲斐文太(当時・二代目鹿島順一)、君江・春日舞子、巡邏・花道あきら、という配役で見聞している。主役・秀次・三代目鹿島順一 (当時・鹿島虎順)はそのままだが、文字通り「はまり役」、その景色・風情は天下一品で他の追随を許さない。今回、慎介・花道あきら、徳松・甲斐文太、未亡人・春日舞子、君江・春夏悠生、巡邏・梅之枝健という配役に替わったが、いずれも「はまり役」で申し分なく、さらに、異様な風体の患者を見事に演じた赤胴誠、健気で可憐な孝行娘を演じた幼紅葉の魅力も加わって、文字通り「適材適所」、劇団の総力が結実化した、まさに国宝(無形文化財)級の名舞台であった、と私は思う。
心もよう心もよう
(1993/11/01)
井上陽水

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2022-11-29

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《座長の絶唱「瞼の母」は、三分間の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年12月公演・行田温泉茂美の湯〉                                    芝居の外題は、昼の部「源太時雨」、夜の部「雪月花・大江戸無情」。この劇団にしては「やや大味」の出来栄えで、特筆する内容はなかったが、夜の部・舞踊ショーで、座長・鹿島順一の歌唱「瞼の母」を見聞できたことは、「望外の幸せ」であった。(それだけで私は満足する)「瞼の母」は、大衆芸術(芝居、映画、浪曲、歌謡曲)の定番で、私自身、生後五カ月で母親と死別していることもあり、ことのほか興味をそそられる作物である。大衆演劇の芝居(歌唱)では、若葉しげる、大川竜之助、春川ふじお、森川凜太郎の舞台、浪曲では、伊丹秀子、二葉百合子、中村富士夫、歌謡曲では杉良太郎、島津亜矢、中村美津子のCDを見聞(視聴)しているが、いずれも鹿島順一の歌唱(その声音・風情・景色)には及ばない。一時間の芝居、三十分の浪曲よりも、鹿島順一の、たった三分間の歌唱の方に軍配が上がるのはなぜだろうか。鹿島順一の「実力」だといえば、それまでの話だが、私の勝手な想像によれば、彼の生育史は、主人公・番場の忠太郎のそれに酷似しており、その心情を容易に共感できる境遇にあった、いつでも忠太郎に「なりきれる」からではないか。かくいう私自身も、忠太郎の心情は、素直に「共感できる」。ただし、いくら瞼を閉じても母親の姿は現れないが・・・。共感できるのは、つねに「何かが欠けている」という喪失感、それを埋め合わせようとして「腰が落ち着かない」不安定感、「こんなヤクザに誰がしたんでぃ」という「やり場のない憤り」と怨念、三十を過ぎても母親を慕おうとする「甘ったれ」根性、未熟なまま大人になってしまった「申し訳なさ」と悔恨、等々だが、鹿島順一の「歌唱」「モノローグ」(セリフ回し)の中には、それらのすべてが「万華鏡」のように「美しく」「艶やかに」散りばめられているのだ。彼の歌唱を聴いた観客は、異口同音に「座長の歌は、よかったね」「アア、よかった。たいしたもんだ」と納得(満足)する。鹿島順一の「生育史」が〈波乱に満ちた半生〉であったことは『演劇グラフ・2007年2月号・vol.68』の巻頭特集(座長インタビュー)を読めば明らかである。「(座長の初舞台はいつ頃ですか?)初舞台は、おそらく3歳の時。芝居の外題は覚えていないんですが、人食いばばあが出てくる芝居で、猿の役で出たのを覚えています。その人食いばばあ役をしていた座員さんというのが、僕の育ての親です。(初代とは一緒に暮らしてはなかったんですか?)僕ら、四人兄弟(上二人は姉、次女は故・近江龍子、長兄・松丸家弁太郎)は、それぞれ母親が違っていて歳も離れていました。みんな別々に育てられ、僕は、和歌山県でその座員さんに中学まで育てられました。(いつ頃、初代が実の父親である事を知ったんですか?)小学6年の時に、育ての親から初代が実の父親で役者をしていると聞かされました。親父とは、それまでも正月やクリスマスに会っていて、小遣いをもらったりはしていました。心のどこかで実の父親だとわかっていたと思います。だけど、一緒に暮らしていなかったので実感はありませんでした。(座長が再び舞台に立つきっかけというのは?)中学の時、僕はどまくれて(九州弁で、不良になって)、仲間とつるんで悪い事ばかりしていたのを、見かねた初代がこれではいかんと九州の劇団に預けたんです」以上は、〈波乱に満ちた半生〉の一部(はじまり)だが、彼の話の中に「母親」は(前にも後にも)いっさい登場しない。再び、私の勝手な想像によれば、(私同様)「話したくても、ネタがない」か、あるいは「話したくない」「話せない事情がある」か、いずれにせよ、「何かが欠けている」(しかも最も大切なものが・・・)という喪失感が、どことない「寂しさ」を漂わせている。その「寂しさ(寂寥感・孤独感)こそが、「瞼の母」の眼目でなければならない。まさに鹿島順一の「魅力」とは、その「寂しさ」に他ならず、彼自身の心象世界の中には、番場の忠太郎を描出するための天賦の条件が」おのずと備わっているということであろう。      
 昼の部、歌謡ショーでの座長の話、「関西の座長大会出演のため、こちらの舞台を休みましたが、なんと、私がいなかった二日間、昼・夜とも「大入り」だったそうで、こんなことなら帰ってこなければよかった・・・」その寂しそうな風情が絶品であった。だが「人気」と「実力」は相関しない。今や、その実力において「鹿島順一劇団」は他の劇団に「大きく水をあけている」ことは間違いない。ちなみに、この劇場、昼より夜の部の客の数は「減る」かもしれないが、反応(拍手・掛け声・盛り上がり)は昼以上、いわゆる「目利き」ばかりが集まってくる。客との「呼吸」もピッタリで、舞台の景色は一変、「しっくり」と落ち着いた雰囲気の中で、至芸の数々を心ゆくまで堪能できるという趣向である。



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2022-11-28

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「浪に咲く花」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年11月公演・苫田温泉乃利武〉                                                  幕が上がると、そこは漁師町の貧しい家内、一人の娘・お房(幼紅葉)が針仕事の最中、どこからともなく大漁節の唄声が流れてくる。帰ってきたのは兄の友蔵(座長・三代目鹿島順一)、お房はまもなく網元(責任者・甲斐文太)の息子・吉太郎(赤胴誠)と祝言を挙げる運びとなっているのである。貧乏なので、花嫁衣装も手作りの様子、ほぼできあがった「うちかけ」を眺めながら、楽しい会話を交わしていると、土地の目明かしで女親分・お時(春日舞子)が訪れた。話は祝言に及んだが、「本当に大丈夫だろうか、身分が違いすぎる」と、お時の表情は曇りがちであった。友蔵に「お前は、昔は村一番の暴れん坊だった。何があっても短気なマネはしないように」と言い含めて退場した。やがて、吉太郎が「つっころばし」然とした風情で登場、お房との「逢瀬を楽しむ」場面となったが、19歳の赤胴誠と14歳の幼紅葉が醸し出す「初々しい」男女の絡みは、ほのぼのとして清々しく、えもいわれぬ景色であった。しかし、お時の懸念は的中する。庄屋の娘・おさき(春夏悠生)が、「千両持参するから、吉太郎と添わせて!」と網元に懇願、金に目がくらんだ網元が、その話を承諾してしまったからである。金持ちで放埒なわがまま娘と、守銭奴・網元の「悪役コンビ」も、どこか滑稽で魅力的、純愛を貫こうとする初な男女とのコントラストが際だっていた。ここからは悲劇の始まり、網元は一方的に「縁談破談」を友蔵に通告、突然な話に友蔵は一時逆上したが、お時の言葉を思い出したか、必死に耐え忍び、やむなく受諾・・・。その悔しさを抑えながら、お房に破談の話をする。ただ貧乏という理由だけで負わなければならない責め苦を、この兄弟は、いとも哀れに、美しく演出していた。文字通り「名もなく貧しく美しく」といった眼目が鮮やかに描出される。お房は奥に籠もって号泣している。よほど気がかりであったか、女親分・お時が再登場、様子を聞けば案の定「縁談は破談」とのこと、「でも、よく辛抱した。今後のことを相談においで」と友蔵を誘う。一人きりになったお房のところに踏み込んできたのは、土地のごろつき達(花道あきら・梅の枝健・壬剣天音)、「網元に頼まれてやってきた、おまえ達が居たんでは、邪魔になる。兄妹そろってこの村から出て行け!」と、言いながら乱暴狼藉のし放題、花嫁衣装も踏みにじられた。倒れ込んで放心するお房・・・。そこに飛び込んできたのが友蔵、ごろつきが持っていた匕首を奪い取るや、その一人(花道あきら)を一突き、たちまち表情は一変して、憑かれたように「とどめ」を繰り返す。その修羅場を見たお房は失神、友蔵は、鬼のような形相になって網元のところへ・・・。舞台は静寂、独り残されたお房は倒れ込んだまま動かない。登場したのは、お時。家内を見回して仰天、お房を助け起こして活を入れた。静かに目を開けたお房、立ち上がると、ごろつきの亡骸にとりついて、欣然と「吉太郎さーん!」、ふらふらと彷徨して 、「アハハハハ」と嬌声をあげ続ける。純粋無垢、可憐な娘の風情は、空虚で妖しい狂女の景色に豹変したのであった。それは、わずか14歳の幼紅葉が「名優」への一歩を着実に踏み出した証であったかもしれない。舞台は一転して、ここは網元宅・・・。庄屋の娘との縁談が成立、祝い酒に浸ろうとする網元のところへ駆け込んだ友蔵、「おのれ、ゆるさねえ!」と叫びながら、網元を刺殺、必死で止めに入った吉太郎までも手にかけようとしたが、「待ってください、お兄さん!私の心は変わりません。必ず、お房ちゃんと添い遂げます!」という言葉を聞いて、「我に返った」。なぜなら、それは他ならぬ弟弟子・赤胴誠の「生の言葉」だったからである。いわば半狂乱の興奮状態であった「心」を静めるだけの響きがあったのだ。役の上では義理の兄、実の世界でも兄弟子と向かい合う赤胴誠が、「つっころばし」から「芯を通す男」への変身を見事に演じ切ったからこそ、義理の兄・三代目鹿島順一は「聞く耳」を持つ(冷静になる)ことができたのではないだろうか。「そうか、そうだよな、お前なら嘘はつかない。おまえならお房を幸せにしてくれるはずだ、お前は吉太郎であると同時に赤胴誠だもんな」、友蔵のそうした思いが、私には直截に伝わってきたのである。舞台は大詰め、お時に曳かれていく友蔵、見送る吉太郎に優しく抱きかかえられ、お房、一瞬「お兄ちゃん」と呟いた。その言葉に、一同、「魂が蘇ったか!」と思えたが、それは「空耳」、覆水は盆に還らないのである。彼女のうつろな笑い声がが虚しく響き渡るうちに、舞台は幕となったが、必ずや、お房は吉太郎に見守られて幸せになるであろう、と私は確信する。責任者・甲斐文太、春日舞子の薫陶を受けながら、20歳の三代目鹿島順一、19歳の赤胴誠、14歳の幼紅葉ら「若手陣」が繰り広げる「人間模様」、それに花道あきら、春夏悠生ら「脇役陣」の個性豊かな色も添えられて、様変わりしていく「劇団」の魅力は倍増しつつある。そんな思いを胸に、劇場を後にしたのであった。
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2022-11-27

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「武士道くずれ」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成23年11月公演・苫田温泉乃利武〉
芝居の外題は「武士道くずれ」。幕が上がると、そこは硝煙立ちこめる戦場、今しも飛び出してきた一人の若武者・秋月一馬(幼紅葉)が、官軍の銃弾を浴びて倒れ込む。すかさず、戦友の直参旗本・真壁孝平(座長・三代目鹿島順一)が駆け寄って「傷は浅いぞ、しっかりしろ!」と抱き起こした。一馬、必死にこらえて「真壁さん、故郷に還ったら、母と姉のこと、よろしくお願いいたします」、「なんて気の弱いことを!」「水が飲みたい」「よし!今、汲んでくるからな、落ちるなよ」。しかし、官軍の優勢はかわらず、一馬は敵に囲まれた。一人の兵卒(壬劔天音)がとどめを刺そうとするのを、連隊長・津田金吾(花道あきら)が制止する。「よせ!見たところまだ少年ではないか、将来のある身、無駄な殺生は無用・・・」と言って立ち去ろうとするのを、一馬は起き上がって、「待て、戦場で情けは無用、尋常に勝負せい」と言い放つや、健気にも挑戦するが、手傷を負っている一馬に勝ち目はなく、あえない最後を遂げた。津田金吾、「また一つ、尊い命を無駄にしてしまった」と一馬の亡骸に合掌、目にとまった手紙と笛を拝受する。追悼の意を込めて、その横笛を吹奏・・・、そこに真壁孝平、水筒を抱えて再登場、息絶えた一馬を抱きかかえて号泣した。ふと背後を見れば、すっくと立ちつくす津田金吾、「おのれ、よくも手傷を負った者を殺めたな!」。たちまち孝平と金吾の一騎打ちが始まった。孝平、額を斬られたが、実力は拮抗、一進一退のうちに序幕は下りた。舞台は変わって、時代は明治、所は京都(?)、それとも東京(?)、いずれにせよ都会の料理屋、女主人は一馬の母(春日舞子)、姉の早苗(春夏悠生)が店を手伝っている。店客(梅の枝健)が気持ちよく酒を飲んでいるところに、ぶらりと入ってきたのが、今は、ざん切り頭で着流し姿になった真壁孝平、どうやら時代の流れに乗ることもなく、放蕩三昧、無頼の生活を重ねているらしい。許嫁だった早苗からも敬遠され、孤独な様子が窺われる。件の店客を一睨みして追い出すと、浴びるように酒を飲む。変われば変わるもの、直参旗本時代の「武士道魂」はどこへやら、街の治安を預かる警備隊長・日下某(責任者・甲斐文太)からも、目をつけられている始末で、文字通り(武士道くずれの)「余計者」に成り下がってしまった。と、そこに現れたのが津田金吾、時代の波に乗って、今では国家の高級官僚に成り上がった。「武士道」とは無縁の「政治」を志しており、反対派の刺客(赤胴誠)から命を狙われている。しかも、こともあろうに、一馬の姉・早苗から慕われている様子。孝平にとって、金吾は戦友・一馬の「仇敵」、加えて、許嫁・早苗の心を奪い取った「恋敵」でもあるのだが、そのことに気づいているのは金吾だけ、という構図で筋書きは展開する。孝平、金吾を見て「どこかで、出会ったような・・・」と感じるのだが、思い出せずに立ち去った。事の真相を打ち明けたのは津田金吾の方から・・・、早苗を呼んで一馬の遺品(手紙と笛)を手渡した。もとより、早苗との絶縁は覚悟の上、「恋」よりも「政治」への道を決断した様子で退場。でも、早苗の気持ちは変わらない。再登場、(ようやく津田が一馬の仇敵であることを思い出した)真壁孝平に「津田は戦場で一馬を殺した。それでもお前は好きなのか、もうおれのことは嫌いになったのか」と問われて、「津田さんが一馬の敵であったことは知っています。それでも好きです。今の孝平さんは大嫌い」と言い放ち、金吾の後を追う。万事休す、傷心の孝平、酒を呷っているところに日下隊長がやってきた。「今度こそ、捕縛するぞ!」「面白い、退屈していたところだ。一遊びするか」と、身構えたところに、早苗が叫声をあげて飛び込んできた。「大変!金吾様が襲われている、孝平さん、助けて!」と言って取りすがる。孝平、思わず「ええっ?」と絶句(それはないだろう、女心は秋の空・・・)する。その立ち姿と表情は絶品、思い切り振られた女から頼られる、しかも助ける相手は、憎っくき恋敵であり、戦友の仇敵でもある。言いようのない「やるせなさ」「せつなさ」を、三代目鹿島順一は「ものの見事に」描出していた、と私は思う。以後は「お決まり」の筋書きで、孝平が、金吾の刺客を成敗(赤胴誠との殺陣も迫真の景色であった)、早苗と金吾の間を「縁結び」して、日下隊長に自らの捕縛を申し出る。隊長が縄をうとうとする、金吾、静かに制すれば、隊長「おまんは、よか男、過去を悔い改めて出直せる。自首しんしゃい」と退いた。大詰めは、一馬の母の一言、「みんな戦争の所為、戦争がすべてを変えてしまった」という嘆きを背に、日下隊長が唄う「田原坂」に送られて、真壁孝平はひとり獄舎へと向かう。戦争で友を失い、死に損なった負い目を背負いながら、恋にも破れ、さびしく、「武士道くずれ」の道を歩まねばならなかった男の悲哀を、一際鮮やかに漂わせながら、三代目鹿島順一の姿は花道に消えたのであった。
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2022-11-26

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「新版・浜松情話」と「流れの旅路」》

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成20年10月公演・栃木・鬼東沼レジャーセンター〉                                                                    午前11時45分から、栃木県・鬼東沼レジャーセンターで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)JR東北本線・石橋駅からタクシーで20分、鬼怒川大橋を渡って右折、大きなゴルフ場の隣りに「劇場」はあった。インターネットの紹介記事によれば〈鬼東沼レジャーセンター 基本的には団体客がメインとあって、入館料2500円は幕の内弁当と飲み物付きのプライス。鬼東沼レジャーセンターの名物は社長自らが刈り取った純度100パーセントのコシヒカリを贅沢に使った白米。オカズいらずのおにぎりが特に有名で、それだけを目当てにやってくるお客さんもいるとか。社長いわく「水からして違うからね」と自信満々の白米をぜひその舌で味わってみてください。アウトドアを満喫したい向きには釣り堀やバーベキューも楽しめます〉ということである。どこにも「芝居」のことなど書いて「ありゃあしない」。11時頃入場すると、なるほど、団体客のカラオケが「今まさにたけなわ」という雰囲気で、熱気むんむん、やや腰の曲がりかけた老婦人の「瞼の母」には、数千円の「花」が付くほどの盛況ぶりであった。一般客は、「御贔屓筋」6~7人、「家族連れ」(含む子ども)5~6人だったろうか。土地の豪農が地域住民の「福利厚生」のため、私財をなげうって設立した施設に間違いない。建物の景色は、「得たいの知れない公民館」風、それに年期が加わって、入り口のアーケード(くぐり門)は、「半壊状態」、玄関までの道脇には「鹿島順一さんへ」と染め抜かれた(今は、色あせている)幟がポツンと二本(一本は「近江飛龍より」)、侘びしげに立っていた。大昔、旅役者のスターを慕う「流れの旅路」(唄・津村謙)という名曲があったが、「はるか、あの町、あの村過ぎて、行くか、はるばる、流れの旅路」という歌詞がピッタリあてはまる情景ではあった。
 芝居の外題は「浜松情話」。「鹿島順一劇団」十八番中の十八番。しかし、今日の配役・茶店の娘は春大吉ではなく春夏悠生(新人女優)、その親爺は座長ではなく蛇々丸に変わっていた。だからといって、その出来栄えの見事さに変わりはない。もちろん、役者が変われば「風情が変わる」。しかし、その変化は、芝居のレパートリーが「増えた」ことと同じで、私たちは、もう一つの「浜松情話」を楽しむことができるのだ。座長は裏方、春大吉は脇役に回ったが、何と言っても主役は三代目・虎順の「三下」、これまでの「初々しさ」に変わって、「上手さ」が芽生えてきたように思う。宴会気分の団体客にとって、芝居は「余興」、あくまで「酒の肴」に過ぎないが、その関心を惹きつけ、思わず「かけ声」まで掛けさせる「演技力」が身につきつつある。開幕当初、酔客の「ざわめき」が耳障りだったが、徐々に「集中」し、終幕が「拍手喝采」で終わったのは、まさに虎順の力である。それを支えた蛇々丸の「確かな力」、春夏悠生の「初々しさ」、花道あきらの「温かさ」も見逃せない。座長にしてみれば、「いずれは座長を退く身、少しずつ座員に任せて行かなくては・・・」という気持ちなのだろう。まして、ここは「団体客の余興の場」「自分が登場するまでもない」という気持ちがあったとしても、おかしくない。私は両手を挙げて、その判断に「同意」「支持」する。座長の至芸を団体客に「安売り」する必要は毛頭無いのだから。その「思い」をしっかり受けとめ、「全力」を尽くしている(虎順を支えている)、蛇々丸をはじめ、花道あきら、春大吉、梅之枝健、そして新人たち「座員一同」のチームワークにも脱帽する他はなかった。
 劇場の空気に合わせてか、口上、座長の歌唱は省略。男優の「女形舞踊」もなかったが、それはそれでよし(すでにその舞台を堪能している私自身は、役者の姿を見られただけで満足なのである)、「はるか、あの町、あの村過ぎて、行くか、はるばる流れの旅路」、その旅を続けるために、今は、英気を養う時なのだから・・・。



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2022-11-25

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《芝居「幻八九三」、赤洞誠の「たしかな一歩」》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)〈平成22年10月公演・ジョイフル福井〉
芝居の外題は「幻八九三」(まぼろしヤクザ)。雌伏三年、いよいよ新人・赤胴誠の「出番」がやってきた。これまで舞踊ショーの裏方(アナウンス)、個人舞踊、芝居での「ちょい役」で修業を積んできた赤胴誠が、初めて「出番」の多い、準主役をつとめるチャンスが巡って来たのである。筋書は単純、兄・伊三郎(座長・三代目鹿島順一)のようなヤクザに憧れている弟の伊之吉(赤胴誠)が、こともあろうに、兄とは敵同士の権助親分(春大吉)に入門を申し込む。「オレは日本一、強いヤクザになりてえんだ!」という一心で、親父(甲斐文太)や幼友達(幼紅葉)の忠告なんぞは「馬耳東風」と聞き流す。権助親分、はじめは取り合わなかったが、あまりにしつこくつきまとうので、「それなら十両もってこい。身内にしてやるぞ」。伊之吉、小躍りして自宅に跳び帰り、「親父、十両くれ。これから権助親分の身内にしてもらうんだ」、あきれかえる親父を尻目に十両ないかと家捜しをする始末、親父「そんな金があるはずもねえ」と高をくくっていたが、あにはからんや、伊之吉、亡母の仏前から十両持ち出してきた。そういえば、先刻、兄の伊三郎が旅から帰り、仏壇に手をあわせに行ったのだった。さだめし、兄が手向けた供え物に相違ない。「渡すわけにはいかない」と、必死に揉み合う親父と伊之吉。だが、どうみても「すばしっこさ」では伊之吉に分がある。十両手にして玄関を飛び出そうとしたとき、なぜか十手持ちの女親分(春日舞子)、颯爽と登場、たちまち伊之吉をねじ伏せて十両を取り戻す。「いててて、なんだ、この女、おぼえていやがれ!」と、捨て台詞をはいたまま、伊之助は権助親分のもとへ・・・。兄・伊三郎と女親分は旅の道中で顔見知り、気心が通じ合ったかどうかは不明だが、それとなく兄に「肩入れ」しようとする気配が感じられてはいたのだが・・・。権助親分のもとへ駆けつけた伊之吉、「十両持ってきたか」「それが、駄目でした」「どうして?」「十両は見つけましたが、へんな女に取り上げられちゃって」とかなんとか言っているところに、兄・伊三郎登場。権助親分「よくも帰ってきやがったな。身内の仇だ、生かしちゃおけねえ」、三人がかりで斬りかかるが、腕は数段伊三郎が上、たちまち返り討ちに・・・。その様子を見ていた伊之吉、「やっぱり、兄貴は強ええ!。兄貴の身内になりてえな」。新三郎「いいだろう、二人で一家をかまえよう」。だがしかし、そうは問屋が卸さない。なぜか再び十手持ちの女親分登場。「一家をかまえるなんてとんでもない。伊三郎!捕縛するから覚悟しろ」。かくてタイマンの勝負となったが、今度は女親分の腕が数段上、たちまちお縄をかけられて「おーい、伊之吉、助けてくれ、オレはまだ死にたくない・・・」と泣き出した。その姿の格好悪いこと、惨めなこと。伊之助、ハッと我に返り「なんでえ、なんでえ、あの姿。イヤだ、イヤだ。もうヤクザなんてなりたくねえ!」と叫んで号泣する。実を言えばこの話、伊之助にまっとうな人生を送らせようとして打った、伊三郎と女親分の「芝居」だったに違いない。私が驚嘆したのは、弟・伊之助こと赤胴誠の成長(変化)である。俗に、役者の条件は「イチ声、二振り、サン姿」というが、いずれをとっても難が無い。未熟な役者ほど、声(口跡・セリフ)だけで芝居を演じようとするものだが、今日の赤胴誠、「振り」も「姿」も初々しく、その場その場の「心情」がストレートに伝わってくる。例えば、親父に向かって「十両くれ!」とあっけらかんにせがむ「青さ」、十手持ち親分を「なんだ、この女」と見くびる「軽さ」、兄・伊三郎の立ち回りを、へっぴり腰で応援する「熱さ」、一転、捕縛された兄貴の惨めな姿に号泣する「純粋さ」等々、未熟で頼りない若衆の風情を「そのまま」舞台模様に描出できたことは、素晴らしいの一言に尽きる。雌伏三年、師匠・甲斐文太、諸先輩の「声・振り・姿」を見続けてきた研鑽の賜物であることを、私は確信した。甲斐文太は「今日の出来は30点」と評していたが、なによりも、他の役者にはない「誠らしさ」(個性)が芽生えていることはたしかであり、そのことを大切にすれば貴重な戦力になるであろう。客の心の中に入り込み、その心棒を自在に揺さぶることができるのは、役者の「個性」を措いて他にないからである。
 芝居の格、筋書としては「月並み」な狂言であっても、舞台の随所随所に役者の「個性」が輝き、客の感動を呼び起こす。それが「鹿島劇団」の奥義だが、今や新人・赤胴誠も、それに向かって「たしかな一歩」を踏み出したことを祝いたい。



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2022-11-24

劇団素描・「鹿島順一劇団」・《座長誕生日公演・「吉五郎懺悔」の名舞台》

【鹿島順一劇団】(座長・三代目鹿島順一)・〈平成23年10月公演・大阪オーエス劇場〉         
今日は三代目座長20歳の誕生日とあって、南條隆、龍美麗、南條勇希、大導寺はじめ、豊島屋虎太朗といった面々がゲスト出演で「ダブルの大入り」という盛況ぶりであった。芝居の外題は「吉五郎懺悔」。名うての盗賊・木鼠吉五郎(座長・三代目鹿島順一)が、奥州の白石で捕吏につかまるお話である。幕が開くと、そこは白石在の、とある茶店、その店先で土地の目明かし親分(責任者・甲斐文太)と子分・清太郎(赤胴誠)、清太郎の母で茶店の老婆(春日舞子)、親分の娘・お八重(幼紅葉)が四方山話をしている風情。親分の話では、どうやら盗賊・木鼠吉五郎が近在に潜入したらしい。「しっかり仕事をするように」と子分の清太郎を諭しているが、清太郎はいっこうに耳を傾けない。十手を弄んでいたかと思うと、どこかへ立ち去ってしまった。おそらく博打場にでも遊びに行くのだろう。あきれかえる親分、ゆくゆくは娘のお八重と一緒にさせよう、と思っているのに・・・。息子の体たらくを詫びる老婆、清太郎を追いかけていくお八重。文字通り老若男女の四人が醸し出す冒頭の景色は、例によって「いとも鮮やか」であった。一同が去った後、主役の木鼠吉五郎、子分藤造(ゲスト出演・南條勇希)を引き連れて花道から登場。よおっ、三代目!颯爽とした立ち姿はひときわ「絵」になっていた。吉五郎、子分に曰く「おれはまだ捕まるわけにはいかねえ。どうしても会っておかなければならねえ人がいるんだ」「それはいったいどなたで?」「今から20年以上も前、江戸の振袖火事で生き別れになった、おれのおふくろさ」「そうでしたか。お頭には親御さんがいなすったか」「おまえは、おれにかまわず独りで逃げてくれ、達者でいろよ」。独りになった吉五郎、(尋ねる人の情報を集める魂胆か)茶店の中に声をかけて一休みする。応対に出たのは件の老婆。双方、一目見るなり互いに惹かれ合う様子が鮮やかに描出される。吉五郎いわく「お婆さん、見たところ、この辺りのお人とは思えないが」老婆応えて「まあ、お目が高い!私はこれでも若い頃は江戸で左褄をとっておりましたよ」とシナを作る。「あなた様も、どこかキリッとした、いい男だこと」。実の親子が、役の上でも親子を演じる。「よおっ、御両人」と声をかけたい絶妙の間合いであった。うち解けて二人は互いの身の上話を交わすうち、吉五郎はその老婆が、お目当ての母親であることを確信する。とは言え、今さら「親子名乗り」などできようはずがない。「幼いとき、おれを捨てた薄情な母親だと恨んできたが(老婆の温かい心遣い、ぬくもりを感じて)その気持ちも消え失せた。もう思い残すことはない」と思いつつ、「それでは、ゴメンナスッテ」と立ち去ろうとしたとき、今度は、老婆が呼び止めた。「せっかくだから、手作りの濁酒を飲んでお行きなさい(もう二十歳になったのだから)。御飯も食べて行きなさい」。やっぱり、切っても切れないのが親子の絆か・・・。吉五郎、立ち戻って縁台に腰を下ろし、酒と飯を馳走になった。「どうぞ、たあんと召し上がれ」、思い切りかっ込んで飯をのどに詰まらせる。あわてて背中をさする老婆の手が吉五郎に近づいた一瞬、しっかりとその手を握りしめ、頬に押し頂く。氷のように固まって慟哭する吉五郎、その様子を優しく見つめる老婆の姿は「筆舌に尽くしがたく」、まさに「虚実皮膜」の極致であった。ここは飛田の芝居小屋、だがしかし、その舞台模様は、国立劇場・歌舞伎座・明治座。演舞場等々、名だたる大劇場に勝るとも劣らぬ出来映えであった、と私は思う。聞けば、老婆の一人息子は十手持ちとのこと、その体たらくな息子の清太郎に「手柄を立てさせよう」と吉五郎は決意する。もう逃げ隠れする必要はない。舞台は二景、村はずれの街道であったか。博打でとられた銭を「返してくれ」と、清太郎が土地のヤクザ(花道あきら)に追いすがる。ヤクザ、「何を言っているんだ。また銭を持ってきて博打をすればいい」と取り合わず、立ち去ろうとしたのだが、そこに吉五郎登場、匕首を突きつけて難なく清太郎の銭を取り返す。「うそー!」と嘆くヤクザの様子が、たまらなく魅力的であった。吉五郎、自分の手配書(人相書き)を見せて「オイ、清太郎。まだ気づかねえのか。オメエが追いかけている木鼠吉五郎はこのおれだ。早くお縄にしねえか!」。はっと気づいた清太郎、「御用!」と叫んだが、十手がない。「待ってろよ、今、家に帰って持ってくるからな」「ああ、いつまでも待ってるよ」。その時、背後から声をかけたのが十手持ちの親分、「待て!お前は木鼠吉五郎だな。神妙にお縄にかかれ」「あいにくだがオメエに捕まるわけにはいかねえ。手向かいするぜ!」吉五郎も親分も「清太郎に手柄を立てさせたい」という思いは同じ、いわば同志に違いないのだが、それを知っているのは観客だけ・・・。両者必死に立ち回るうち、吉五郎に分があって、親分は絶命。男と男の意地が絡み合った悲しい結末。しなくてもよい「殺生」の罪が吉五郎に加わって、舞台は大詰めへ・・・。捕り手に囲まれた吉五郎、飛び出してきた子分の藤造に助けられて囲みを破り、やってきたのは茶店の前。「来てはいけないところに来てしまった。おっ母さん、私の分まで長生きしておくんなさい」と独りごちする。その様子を見届けたのは清太郎、「アッ、おめえ!」と絶句しながら、他のことに気がついた。「オメエは兄ちゃんじゃねえか!おっかあがよく言っていた・・・。そうだ、そうだ、兄ちゃんに違いない」「違う、違う。おれは木鼠吉五郎だ、早くお縄にして親孝行をしねえか」「いやだ、いやだ。そんなことをしておっかあが喜ぶはずがねえ!」三代目鹿島順一と赤胴誠は、甲斐文太の兄弟弟子である。ここでもまた虚と実の風情が絡まり合って、絶妙の景色を描出していた。体たらくで遊び好き、まだ嘴の黄色い未熟者が、実は「母思い」「兄思い」の実直な青年であった「真実」を、座長の弟弟子・赤胴誠は、ものの見事に演じ通したのであった。弟に曳かれていく兄、その様子を見て「ハッ!」とする老婆(母)、思わず駆け寄ろうとするのを、必死で止める清太郎、開幕から1時間20分、長丁場の名舞台は「屏風絵」のように艶やかな景色を残して閉幕となった。お見事!この芝居の眼目は、一に「親子の情」、二に「兄弟の情」、三に「男の意地の絡み合い」、それらが錦紐のように綯い交ぜされた「鹿島順一劇団」の夢芝居は、どこまでも続くのである。

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2022-11-21

《追悼》 ありがとう、三代目・鹿島順一!

 三代目・鹿島順一の(たぶん?)初月忌にあたる6月25日、私もまた「急性心筋梗塞」の症状に襲われた。夜半から夜明けにかけて胸に違和感を感じていたが、午前6時を過ぎると「疼痛」に変わり、冷や汗、息苦しさも伴ってきた。いつもなら「肋間神経痛?」ぐらいな気持ちでやり過ごしてしまうところだが(痛みも軽減するところだが)、今回は違っていた。このままでは一日もたない、「とにかく診察を仰がなければ」という思いで救急車を要請、緊急の入院・手術によって一命をとりとめた。
 まったく「いい奴ばかりが先に逝く どうでもいいのが残される」という小林旭の歌(「惚れた女が死んだ夜は」詞・みなみ大介、曲・杉本真人)そのままに、三代目・鹿島順一の面影を追うほかはない。
 今から10年前(平成20年)、「鹿島順一劇団」は関東をまわっていた。2月公演は川越三光ホテル、三代目・鹿島順一は当時16歳、まだ三代目・虎順と名乗っていた。昼の部の外題は「紺屋高尾」、虎順はインフルエンザに罹っていたが、懸命に「高尾太夫」を演じ、ラストショーでは「幡随院長兵衛」を「全身全霊」で踊り通した。その時の感想を、私は以下のように綴った。
《ラストショー、「旛随院長兵衛」役の虎順は孤軍奮闘の熱演、それを最後に、夜の部は欠場となった。本人はラーメンを食べ、「夜も出る」と頑張ったが、高熱には勝てず、服薬して静養中とのこと、倒れるまで全力を出し切った「役者魂」に拍手を贈りたい。夜の部の芝居は「仇討ち前夜・小金井堤」、座長を筆頭に、座員一同、「きちんと、いい仕事している」が、いつもとはどこか雰囲気が違う。役者も客も何か物足りない。虎順の抜けた穴がポッカリと空いてしまうのだ。日頃の「全力投球」の姿が見られない「寂しさ」がつきまとう。まだ芸未熟とはいえ、まさに誠心誠意、全力を尽くして舞台を務める彼の存在が、いかに劇団員・観客の覇気(モラール)を高めているか、その舞台を、活気のみなぎった、魅力的なものにしているか、を思い知らされる一幕ではあった。大衆演劇という劇団のチームワークが、役者同士の強い絆によって作られていることを、あらためて思い知らされた次第である。三代目虎順の、一日も早い回復を祈りつつ、帰路についた。》 そして10年後(平成30年)、突然、彼は「何の前触れもなく」この世を去った。いや、前触れはあったに違いない。もし、死因が「急性心筋梗塞」だったとすれば、かなりの痛み・苦しさを感じたはずである。発症から5時間以内に手を打たなければ(入院・手術など)危ないといわれている。私はかろうじて4時間以内に手術を受けることができたが、彼は「全身全霊」で《辛抱》を続けたのかもしれない。誠に惜しい人材を失った。
 でも、三代目・鹿島順一が残した「名場面」の数々が失われたわけではない。「私はテレビには出ません。大衆演劇の役者ですから」「今日は20人ものお客様が来てくださいました。ありがたいことです!」そうした言辞に加えて、芝居「心もよう」「悲恋夫婦橋」「武士道崩れ」「明治六年」「浜松情話」「木曽節三度笠」「女装男子」「月の浜町河岸」、舞踊「忠義ざくら」「蟹工船」「俵星玄蕃」「大利根無情」などなど、彼でなければ描出できない名場面は、今もしっかりと私の脳裏に刻まれ、思い浮かべるだけで涙がわいてくるのだから・・・。
 ありがとう、虎順!いや三代目・鹿島順一。そういえば、いつごろからか、彼は、「パッと咲いて」(詞・麻こよみ、曲・美樹克彦、唄・岸千恵子)を踊るようになった。歌詞にいわく「どうせ人生 一回なんだから・・・」「どうせ死ぬ時 ひとりっきりだから・・・」、《パッと咲いて パッと散って チョイと人生 花ざかり》。その言葉どおり、三代目・鹿島順一の人生は、「花ざかり」のまま《チョイと》永遠に止まったのである。
(2018.7.6)



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2022-11-04

劇場界隈・《行田温泉茂美の湯、もさく座公演「鹿島順一劇団」》

【行田温泉茂美の湯・もさく座】(埼玉県行田市)
 JR高崎線・北鴻巣駅から送迎バスで10分、または吹上駅から路線バス・行田車庫行きで「産業道路」停留所下車、徒歩15分、「さきたま古墳群」の傍、忍川の畔にある。もさく座は、「源泉かけ流し」の名湯である行田温泉茂美の湯に併設されており、宿泊して観劇すれば名湯と名舞台が同時に楽しめる桃源郷である。浴室には、様々な浴槽が設けられ、それぞれ泉温が違う。自分の好みに合わせて適宜利用すれば、日頃の生活で傷ついた心身を、ほどよく癒してくれる。従業員は若者が多く、「気が回らない」物足りなさ、「手際の悪さ」はあっても、「別に悪気があってのことではない」と思えば、さほど気にはならない。劇場はこれまでの舞台付き大広間(いわゆる宴会場・二階)から、観劇専門の一室(約300人収容・一階)に移転、リニュアール・オープンしたとの由。暗闇の中で飲み食いしながら観劇するという「愚」を避けようとする、経営者の賢明な判断に拍手を送りたい。公演は「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居の外題は、昼の部「忠治御用旅・雪の信濃路」、夜の部「噂の女」。二日替わりのプログラムで、初日、二日は「春木の女」と「会津の小鉄」(名張屋新蔵と仙吉)だったそうな。いずれも、劇団屈指の名狂言。さぞかし感動的な名場面、至芸の数々が展開されたことであろう。さて、私が見聞したのは「忠治御用旅」。赤城の山を追われた国定忠治(座長・鹿島順一)が、雪の信濃路を逃げていく。あまりの寒さに、思わず立ち寄った一件の居酒屋、そこの亭主はかつての子分(春大吉)、その女房(春日舞子)の兄(蛇々丸)は十手持ち、忠治を捕縛する役目を負っていた。兄と対抗する女衒の十手持ち(花道あきら)、土地のごろつき(梅之枝健)女衒の子分たち(三代目・虎順、赤胴誠)が必死に忠治を追いかけるが、「貫禄」が違う。その筋書き・台本通りに、座長・鹿島順一の舞台姿は「日本一」、一つ一つの所作、口跡は「珠玉」の「至芸」、とりわけ、御用旅の疲れにやつれた風情が、一子分との出会いで一変、しかしその子分が女房持ちと知るやいなや、すぐさま立ち去ろうとする「侠気」、ごろつき殺しの疑いをかけれれた子分の窮地を救うために「百姓姿」(三枚目)に豹変する「洒脱」、さらには、もう逃げ切れぬとさとったとき、兄の十手持ちの前に両手を差し出す「諦念」の風情を「ものの見事に」描出できるのである。加えて、子分、その女房、その兄との「絡み合い」は、心に染み渡る「人情芝居」そのもの、剣劇と人情劇(時には喜劇も)を同時に楽しむことができる「逸品」であった。十手持ちの蛇々丸が忠治の座長を「それとなく」「逃げのびさせる」やりとりは、「勧進帳」の「富樫」にも似て、大衆演劇の「至宝」と評しても過言ではない、と私は思う。
 夜の部「噂の女」、客の数は半減したが、「そんなことにはおかまいなく」(座長の気分が乗れば)全力投球で舞台に臨むのがこの劇団の特長である。今回の舞台も、座長、「しっちゃかめっちゃか」(一見、型破り、実は計算され尽くした)の奮闘公演、百二十パーセント「完璧な」筋書き・展開(どこのセリフ回しも端折ることなく)が具現化されていた。舞台は「水物」、その劇場、客筋によって、出来映えは「千変万化」するのだが、その変化がを「つねに前進・向上」したものしようと努める(ころんでもただでは起きない)心構えが劇団員一人一人に「徹底して」染みこんでいるように、私は感じる。      以下は、前回、私が見聞した「噂の女」の感想である。
 〈夜の部の芝居は「噂の女」。主演・春日舞子、共演・鹿島順一。配役は、「噂の女」・お千代(春日舞子)、その父(蛇々丸)、弟(花道あきら)、弟の嫁(春大吉)、嫁の父(梅乃枝健)、お千代の幼友達・まんちゃん(座長・鹿島順一)、村人A(三代目・虎順)、B(金太郎)、C(赤胴誠・新人)、D(生田あつみ)という面々である。時代は、明治以後、五百円が、今の百万円程度であった頃だろうか。ある村に、「噂の女」が帰ってくる。まんちゃんは「駅まで迎えに行こう」と、村人を誘うが、誰も応じない。「お千代は、十年前、村に来た旅役者と出奔し、その後、東京・浅草の淫売屋で女郎をしているというではないか。そんな不潔な女とは関わりたくない」と言う。まんちゃん「そんなことは関係ない。みんな同じこの村の仲間ではないか」村人「とんでもない。そんな女に関わるなら、お前は村八分だ」まんちゃん「村八分、結構!もともと、俺なんかは村では余計物、俺は一人でもお千代タンを迎えに行くぞ」、村人「勝手にしろ。お前はいくつになっても、足りんやっちゃ、この大馬鹿もの!」  
 やがて汽笛の響きと共に汽車が到着、まんちゃんはお千代の荷物を持って大喜び、一足先に、お千代の父宅に持参する。やがて、東京暮らしですっかり垢抜けたお千代も帰宅、父はお千代が好きだった「揚げ豆腐」を買いに出て行った。後に残ったのは、まんちゃんとお千代の二人きり、まぶしい太陽でも見るようにまんちゃんが言う。「お千代タン、よう帰ってきてくれたなあ。オレ、ずうっと待っていたんだ」「どうして?」「だって、ずっと前から、オレ、お千代タンのこと好きだったんだもん。」「あんた、あたしが浅草でどんな商売しているか知ってるの?」「知ってるよ。男さんを喜ばす仕事だろ。みんなは、汚い、穢らわしいと言うけど、オレはそう思わない。お千代タンは、人を騙したり、傷つけたりしていない。人を喜ばす大切な仕事をしていると思うとる」「ほんとにそう思うの?」「ああ、本当だ。できれば、お千代タンと一緒に暮らしたいんだ、キーミーハ、コーコーローノ、ツーマダーカラ・・・」思わず絶句するお千代。よく見ると泣いている。「アンタ、泣イイテンノネ、オレまた何か、まずいこと言っちゃったんかな?」「そうじゃないのよ、嬉しくて涙が止まらないの」「フーン?」しばらく沈黙、意を決したようにお千代「まんちゃん!あたし、まんちゃんのお嫁さんになる!」動転するまんちゃん「何だって?今、なんて言った?」「あたし、まんちゃんのお嫁さんにしてくれる?」「そうか、オレのお嫁さんになってくれるんか。へーえ、言ってみるもんだなあ」かくて、二人の婚約は成立した。そうとなったら善は急げだ。こんな村などおさらばして、東京へ行こう。まんちゃんは小躍りして旅支度のため退場。そこへ父、帰宅、弟夫婦も野良仕事から戻ってきた。しかし、二人の表情は固い。土産を手渡そうとするお千代に弟は言い放つ。「姉ちゃん、何で帰ってきたのや。村の人たちはみんな言ってる。あんな穢らわしい女を村に入れることはできない。もし居続けるようなことがあったら村八分や。おれたち村八分になってしまうんや。姉ちゃん、それでもいいのか。はよう、この家から出て行ってくれ!」父が激高した。「お前、姉ちゃんに向かって何てことを言うんだ」弟も反駁。「隠居の身で大きな口たたくな。今はおれこそが、家の大黒柱、それに姉ちゃんは十年前、おれが病気で苦しんでいたとき、旅役者と駆け落ちしたんじゃないか!」「何だって、もういっぺん言ってみろ」「ああ何度でも言ってやる。姉ちゃんはおれたちを見捨てて、淫売女になり果てたんだ。そんな女をこの家に置いとくわけにはいかない」「よーし、お前がそこまで言うんなら、わしも黙っているわけにはいかない!」必死で止めようとするお千代を制して、父も言う。「おまえが病気の時、姉ちゃんが出て行ったのはなあ、お前が町の病院で治してもらうお金のためや。姉ちゃんは、自分の身を売ってお前の治療代を作ったんだぞ!、病気が治ったのは姉ちゃんのおかげ、それを今まで黙っていたのは、お前を心配させないためや」「・・・・」絶句する弟、「何だって!何で、今頃そんなこと言い出すんや。もう遅いわい」そこへ、弟嫁の父、登場。「やあ、お千代さん。よう帰ってきたなあ・・・。サチヨ(嫁)、もうお姉さんに御挨拶はすんだのか?」だが、その場の様子がおかしい。一同の沈痛な表情を見とって自分も沈痛になった。「やあ、困った、困った。実に困った」、「何が?」と問いかける弟に「実はな、ある人の借金の保証人になったばっかりに、五百円という大金を負わされてしまったんだ。何とかならないだろうか?」「えっ?五百円?そんなこと言われたって、見ての通りの貧乏暮らし、そんな金どこを探したってあるはずがない」弱気になる弟に、隠居の父がつっかかる。「お前、さっきなんてほざいた。この家の大黒柱じゃあなかったんか」やりとりを黙って聞いていたお千代が口を開いた。「おじさん。五百円でいいの?ここに持っているから、これを使って。これまで、身を粉にして貯めたお金よ。家に帰ってみんなの役に立てればと思って持ってきたの。私が使ったってどうせ『死に金』、おじさん達に役立ててもらえば『生きたお金』になるじゃないの」一同、呆然、弟夫婦は土下座して声が出ない。肩が小刻みに震えている。お千代、キッとして「もう、いいの。このまま浅草に帰るわ。また、あそこでもい一回、頑張って生きていこうと思います」、「待ってださい」と引き止める弟夫婦、その両手をやさしく握りながら、「あっ、そうだ!忘れていた。お父さん、あたし好きな人ができたの。あたしその人のお嫁さんになるの!」一同、驚愕。「えっ?誰の?」お千代、涼やかに、「まんちゃんよ!」すっかり、旅支度を整えたまんちゃん、踊るように再登場、舞台も客席も、笑顔の花が咲き乱れる。まんちゃん「まあ、そういうことで、お父上、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」弟嫁の父、そっとお千代に近づき「やあ、めでたい、めでたい、そういうことなら、これは私からのお祝いだ」さっきの五百円を手渡そうとする。「だって、おじさん!これは借金の返済に使うお金・・・」「なあに、心配ご無用。さっきの話は私の作り話、一芝居打ったのさ!」舞台に流れ出す、前川清の「噂の女」、まんちゃんとお千代、花道で颯爽と見得を切る。さっと振りかざした相合い傘の骨はボロボロ、破れガサがことのほか「絵」になる幕切れであった。「襤褸は着てても、心は錦、どんな花より綺麗だぜ、若いときゃ二度ない、どんとやれ、男なら、人のやれないことをやれ」、まんちゃんの心中を察して、私の心も洗われた。
 大衆演劇に共通する眼目は、「勧善懲悪」「義理人情」だが、もう一つ「人権尊重」という主題が秘められていることを見落としてはならない。「村八分」という差別観に敢然と立ち向った「まんちゃん」(余計者・与太郎)とお千代(賤業者)の行く末は?、それを決めるのは、他ならぬ私たち一人ひとりなのではないだろうか。

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2022-10-31

劇場界隈・「広島ゆーぽっぽ」・《「鹿島順一劇団・「マリア観音」の名舞台》

2010年5月9日(日) 晴
 今日は「鹿島順一劇団」の特選狂言「マリア観音」の公演日、それを観るために、はるばる(昨日は大阪途中下車、二劇場で観劇)広島までやってきた。劇場は「ゆーぽっぽ」。バス停の名前は「上小田」。たしかJR広島駅前⑧乗り場からバスが出ているはずだと、そこへ行き、路線図を見たが「上小田」という停留所名が見当たらない。駅まで戻って確かめようと観光案内所に入り「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」と尋ねたが、一同、ぽかんとしている。「あの・・・、上、に小さい、田という字の停留所で降りるんですが・・・」と言うと、係員(中年男性)の表情が明るくなった。「ああ、それはですね、多分、福屋というデパートの前⑳番乗り場から出ているバスが行くと思います。そこに行って、来たバスの運転手に聞いてください」「わかりました。それで、上に小さい田という停留所は何と読めばいいのですか?」「それも運転手に聞いてください」だと。やむなく⑳乗り場に赴く。5分ほどでバスが来た。乗客は私一人、運転手に「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」運転手曰く「このバスは行きません。JRか広島(ナントカ?)交通のバスなら行きますよ」「わかりました」といって降りようとすると、「ここ(⑳乗り場)から出るバスは本数が少ないので、バスの2番ホームに行った方がいいと思いますよ」、なるほど。2番ホームとは、私が初めに行った、⑧乗り場のホームではないか。再度⑧乗り場に行くと、幸いにも始発のバスが待っていた。乗り込んで運転手に聞く。「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」「ゆーぽっぽ?停留所の名前がわからないとねえ」とそっけない。「あの、上に小さい田というところです」「ああ上小田ね。行きますよ」だって。なんだ、⑧乗り場でよかったんじゃないか。「ずいぶんと回り道をしたもんだ」と思ったが、「鹿島劇団」見聞のためなら納得できる。ちなみに「上小田」は「カミオダ」と読む。バスに乗車すること約30分、上小田で下車した乗客は私一人であった。以後は、道路の「案内板」を頼りに行けばいい。あった、あった。電柱に「ゆーぽっぽ」への経路を矢印で表示した看板が貼り付けられている。安心してその道を辿ったが、分かれ道に来た。右方向は「道なり」、左方向は「踏切」、でも「案内板」はない。ということは、もうすぐそこ、わざわざ案内するまでのことはない、ということだろうが、新参者(私)にはそこがわからない。結果は「踏切を渡る」が正解だったのだが、私は「道なり」を選択、住宅地の袋小路に迷い込んでしまったという次第。「ゆーぽっぽ」は、典型的な「地域のスーパー銭湯」といった風情で、そこにモダンな「舞台付き大広間」が併設されているという趣であった。従業員は「今風の若者」が多く、およそ大衆演劇のイメージとはかけ離れているところが面白い。さて「鹿島順一劇団」の5月公演、案内チラシには〈鹿島劇団 5月3日(月〉、鹿島順一座長として最後の誕生日特別公演!!」と刷り込まれていた。芝居の外題は「マリア観音」、開幕前、私の前の指定席(桟敷・座布団座椅子付き)に、親子とおぼしき「三人連れ」が座った。子どもは「幼稚園年長組?小学校低学年か?役者のように可愛らしい男児であった。一人でゲームに熱中しているのを、隣の父親(とおぼしき)男性が「ちょっかい」(悪ふざけ)を出して邪魔をする「絡み」が興味深かった。本来なら、父親が新聞を読んでいるのを子どもが妨げるという「構図」が自然だが、まさに「その反対例」が展開されているのだ。「世の中、変われば変わるものだ・・・」等と思っているうちに幕が開いた。主人公・半次郎が鹿島虎順、彼を「悪の道」に引き入れようとするスリの仲間たち(三人)が、春大吉、蛇々丸、梅乃枝健、それを取り締まり、半次郎を矯正しようとする人情肌の岡っ引き親分に花道あきら、半次郎の母に春日舞子、半次郎から煙草入れを擦られ、スリ仲間の一人から「マリア観音像」を盗まれた北町奉行・阿部豊後守(実は半次郎の父)に座長・鹿島順一という配役で、まさにゴールデン・キャスト。筋書きは割愛するが、この芝居の眼目は、(お互いの身分の違いから)離ればなれに暮らさざるを得なかった一組の男女、そしてその愛児が、「ひょうんなこと」から、再会を果たしたが、時すでに遅し、いずれもが「自死」という形で決着をつけなければならないという、「悲しいさだめ」の描出にある。この演目、私は「三河家劇団」(座長・三河家桃太郎)の舞台を見聞している。その出来映えを比べれば「いずれ菖蒲か杜若」、それぞれが劇団の「色」を十二分に発揮した代物であった、と私は思う。「三河家風」は、「艶やかな気配」、それもそのはず、半次郎が女優・三河家諒の「立ち役」、阿部豊後守と半次郎の母、二役を座長・三河家桃太郎が演じるという「離れ業」、一方の「鹿島風」は、実の父母、実子が「そのまま」役柄に符合してしまう「迫真の演技」といった按配で、「夢か現か幻か」、そのリアリティーに圧倒されてしまった。とりわけ、愛しい阿部豊後守の煙草入れを手にした時、春日舞子の表情が、子持ちの母から「芸妓の風情に」一瞬「変化する」場面は秀逸、「お見事!」という他はない。また、舌をかみ切って血にまみれる半次郎を抱き寄せ、自らも自刃する阿部豊後守の「勇姿」は、ひときわ鮮やかで「筆舌に尽くしがたい」。閉幕後の一コマ、私の前に座っていた可愛らしい男児が、びくとも動かず固まっている。必死に「悲しみ」をこらえて泣いている姿が「後ろ姿」だけでよくわかる。気づいた母親が声をかける。「怖かったの?」でも男児は無反応。父親とおぼしき男性も微笑みながら、男児の顔をのぞき込む。それを思い切り払いのける。男性に目配せする母親の目も赤い。5~6分も経ったころだろうか、男児は目を伏せたまま母親の胸に抱かれに行ったのである。その様子を見るだけで、今日の舞台がいかに素晴らしいものであったか、間違いなく男児は心底から「感動」していたのだ、と私は確信する。かくて「鹿島風」と「三河家風」の対決は「勝負なし」「引き分け」双方とも「横綱級」という結果であった。今後、「鹿島風」が「東横綱」に座るためには、「スリ三人組」の風情を変えることも必要ではないだろうか。現状では、「どこか憎めない」「間抜け風」の景色(それはそれで一つの魅力だが)で、悲劇の中に「明るさ」(笑い)を添えようとする演出・意図はよくわかる。一方、半次郎に殺されても当然、といった「極悪非道」「性悪」な風情も、大詰の愁嘆場を際立たせる伏線として不可欠ではないだろうか・・・、などと「身勝手な思い」(素人の妄想)を巡らせつつ、帰路についた次第である。
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