META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 幕間閑話・「遊民の思想」(森秀人)・《若き日の「梅沢武生劇団」》
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2023-01-12

幕間閑話・「遊民の思想」(森秀人)・《若き日の「梅沢武生劇団」》

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)の「Ⅱ 芸人・大衆芸術論」の中に「考えるところあって、十二月に旅役者の一行とともに田舎を歩いた。梅沢武生一座という。座長は二十四歳。野球選手になりたかったのに親の後を受けて役者になった。生活のためである。妹の正子は二十歳。ふつうの娘のような生活を望んでいるが、彼女も結局舞台に立った。総勢十七名。なんとも陽気な一座である」という書き出しで始まる一節がある。その内容を要約すると、①座長以下全員、舞台づくり移動など工場労働者以上の労働に密着している。②若い現代の旅役者たちは、義理人情の思想に乏しいから、自分たちの芸をあまり信じない。ところが、いったんかれらが舞台に立つと、観客が涙を流して泣き笑う。粗末な小屋で、だから演じるのはむしろ観客なのだ。観客の思想が、舞台の若い役者たちを感動させ、熱中させる。③若い役者にとって、楽屋という見あきた小さな生活圏は牢獄である。他の生活の選択は許されない。小さな共同体は、一人崩れれば全滅するのだ。だから、若い旅役者は淋しい。④彼らは共同体的な芸術を独自に崩そうとあがきはじめている。その結果、ポンコツ喜劇とポンコツ楽団をつくって舞台にのせたら大成功、一座の人気レパートリーとなって、連日十五日間満員で小屋を埋めさせた。⑤それでも若い役者たちは、舞台に生涯をかける気はさらにない。⑥その栄光と悲惨を、わたしはひとごとのように思えなかった。階級社会に生きるすべてのもののそれは象徴なのである。そして、まとめの段落は以下の通りである。「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある。知識人芸術家たちの先駆が、文学を行きつめることで、文学を止揚しつつあるように、かれらは芝居を止揚していっている。その行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても、あまり驚かないほどの用意は、すでに充分あるのであった」
 この一節の中で、著者・森秀人は何を言いたかったのだろうか、私にはわからない。まず第一に、著者は冒頭「考えるところあって・・・」と書き出しているが、どんなことを考えたのだろうか。第二に、共同体的な芸術(従来のレパートリー)を崩し成功したことが「栄光」、楽屋という生活圏から逃げられないことが「悲惨」だとして、それが階級社会に生きるすべてのものの象徴だと「断定」する根拠は何か。第三に、「旅役者たちは、芸術の私的所有の今日的形態を、自然に脱却しつつある」とは、どういうことか。第四に、「文学を行きつめることで、文学を止揚しつつある」とは、どういう意味か。ちなみに「行きつめる」という単語は辞書に載っていない。また、「止揚」とは「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン(ドイツ語)の訳語」(スーパー大辞林)とある。つまり、知識人芸術家たちの先駆が、文学を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」しつつあるように、旅役者も芝居を「そのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生か」していっている、ということか。第五に、旅役者が、芝居を「行きつめたさきに一座解散という事態が起こっても」という時、著者はどのような事態を想定しているのだろうか。
 私が「梅澤武生 劇団」に出会ったのは、この著書出版から三年後(1971年)である。おそらく、そのポンコツ喜劇、ポンコツ楽団に感動、芝居小屋を満員にした一人になるだろう。以後、「梅澤武生劇団」は、小屋主と公演料の折り合いがつかず、「東京大衆演劇劇場協会」を脱退、独自の公演活動を展開しているが、「芸術の私的所有の今日的形態を脱却」したことになるのだろうか。しかも、まだ「一座解散という事態」は起こっていない。思うに、著者・森秀人の「心の中」には(彼自身が図示して説明していることだが)、 人類芸術史は、1・未開 共同体芸術社会(無階級社会)、2 文明 文学的芸術社会(階級社会)、3 大衆芸術(階級社会)、4 新文明 共同体芸術社会(無階級社会)というように発展・発達(止揚)「するはずだ」もしくは「させければならない」という仮説(無政府主義・アナーキズム?)があるようだ。しかし、人類史は、1991年の「ソ連崩壊」によって、「無階級社会」から「一歩後退」という「段階」に陥っているようである。つまり、評論家・森秀人の「仮説」は、今のところ「歴史的事実」によって否定されて「しまった」といえるだろう。その「仮説」は、彼が「心の中」で思った(感じた・願った)ことに過ぎないのだから、「評論」としては成り立たなくて当然である。おそらく、彼の「願望」としては、「文明」によってもたらされた「階級社会」の矛盾の現れである「(高尚・道徳・「体制」的な)文学的芸術社会」(知識人)を、対立・闘争の過程を通じて(低俗・本能・「反体制」的な「大衆芸術」を評価・受容することによって)発展的に統一(「新文明の創造」「無階級社会の具現化」イコール革命)するという「筋道」があったのだろう。 
 しかし現代は「格差社会」、「ソ連崩壊」によって「階級社会」という言葉も死語になりつつある。そして、評論家・森秀人の著書もまた「反古」になりつつあるのだろうか。(2008.4.3)
梅沢富美男と梅沢武生劇団の秘密梅沢富美男と梅沢武生劇団の秘密
(2002/01)
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まとめteみた.【幕間閑話・「遊民の思想」(森秀人)・《若き日の「梅沢武生劇団」》】

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)の「芸人・大衆芸術論」の中に「考えるところあって、十二の正子は二十歳。ふつうの娘のような生活を望んでいるが、彼女も結局舞台に立った。総勢十七名。なんとも陽気な一いう書き出しで始まる一節がある。その内容を要約する...

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