META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 幕間閑話・芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の《眼目》
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2023-01-10

幕間閑話・芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の《眼目》

芝居「一本刀土俵入り」(長谷川伸)の眼目は奈辺にあるのだろうか。序幕第一場、取手の宿・安孫子屋の前、土地の乱暴者・舟戸の弥八(28、9歳)が巻き起こす騒動を二階から、ほろ酔い機嫌で涼しげにに眺める酌婦のお蔦(23、4歳)、たまたまそこに通りかかった力士志願の駒形茂兵衛(23、4歳)の「絡み」から物語は始まるのだが、見せ場は、何と言っても、一文なしの茂兵衛に、お蔦が自分の有り金全部(巾着)はおろか、身につけている櫛、簪まで呉れてやる場面であろう。茂兵衛いわく「貰って行ってもいいのか。後で姐さんが困りゃしないか」応えてお蔦「あたしあ、年がら年中困りつづけだから、有っても無くっても同じことさ。遠慮しないで持ってお行き」茂兵衛「半分貰います」お蔦「しみったれな、今に横綱になる取り的さんじゃないか」茂兵衛「だってな、わしも一文なしで困ってきたんだ、姐さんだって一文なしでは」お蔦「やけの深酒とは毒と知りながら、ぐいぐい呷って暮らすあたしに、一文なしも糸瓜もあるもんか。お前さんは大食いだろうから、それじゃ足りない、これもあげるから持ってお行き。(櫛と簪を髪からとる)茂兵衛「いいよ、いいよ、そんなに貰わないでもいいよ」しかし、お蔦は、櫛と簪を扱帯に結びつけて二階から垂らす。茂兵衛は嗚咽しながらそれらを頂戴、絞り出すような声で「わしこんな女の人にはじめて逢った」。この「絡み」の中で浮き彫りされる心象は、「互いに相手を思いやる温もり」である。それは「慈悲の心」であって「愛」ではなかった。事実、当時のお蔦には舟印彫師・辰三郎(25、6歳)といういろ情夫がおり、子どもまで宿していたのだから・・・。一方、茂兵衛の心には、抑えきれない慕情が芽生えたとしても無理はない。そこらあたりを、浪曲師・二葉百合子は見事に詠いあげる。「山と積まれたお宝さえも 人の情にゃ代えられぬ なんで忘れよ花かんざしに こもる心を
受けて茂兵衛の こらえ泣き」(作詞・藤間哲郎、作曲・桜田誠一)。「一本刀土俵入り」という題名の歌謡曲には、三橋美智也(作詞・高橋掬太郎、作曲・細川潤一)、三波春夫(作詞・藤田まさと、作曲・春川一夫)、村田英雄(作詞、作曲者・不詳)島津亜弥(作詞・高月ことば、作曲・村沢良介)、浪曲では、春日井梅鶯、芙蓉軒麗花らの作物があるようだ(そのすべてを知り尽くしてはいない)が、そのほとんどが、茂兵衛の立場から、茂兵衛の心象を描出しようとしている。だがしかし、二葉百合子は違う。前節に続いていわく「厚い化粧に涙をかくす 茶屋の女も意地はある まして男よ取的さんよ 見せてお呉れな きっとあしたの晴れ姿」(歌謡曲版)ここで描かれるのは、お蔦の心象、それも茂兵衛を思いやる「慈悲の心」に他ならない。さればこそ、その思いを受けとめた茂兵衛の慕情が「いや増し」て、えもいわれぬ景色が彩られるのである。続いて、また、二葉百合子は詠う。「利根の堤の秋草を 破れ草鞋で踏みしめる 駒形茂兵衛のふところに 残るお蔦のはなむけが 男心を温めて 何時か秋去り冬も行き、めぐる春秋夢の間に、十年過ぎたが 番付に駒形茂兵衛の名は見えず お蔦の噂も何処へやら 春の大利根今日もまた 昔変わらぬ花筏」(脚色・吉野夫二郎)序幕第一場から、大詰め第一場・布施の川べり場面への「つなぎ」(間奏)としては素晴らしく、無情に流れた十年の年月が、宝石のように結晶化している、と私は感じる。さて、大詰めの見せ場は、第三場・軒の山桜、(イカサマをして逃亡中の)辰三郎を追いかけてきた波一里儀十一家の面々を叩きのめし、茂兵衛いわく「飛ぶには今が潮時でござんす。お立ちなさるがようござんす」辰三郎「お蔦から話を聞きました。僅かなことをいたしましたのに」茂兵衛「いらねえ辞儀だ。早いが一だ」お蔦「(人の倒れ伏すを見て)あッ」茂兵衛「なあに死切りじゃござんせん。やがて、この世へ息が戻る奴ばかり」辰三郎「それでは茂兵衛さん。ご丈夫で」お蔦「お名残が惜しいけれど」茂兵衛「お行きなさんせ早いところで。仲良く丈夫でおくらしなさんせ。(辰三郎夫婦が見返りながら去って行くのを見送り)ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」おそらく、茂兵衛の土俵入りは「言葉」だけ、先ほどの「棒ッ切れを振り廻し」た《立ち回り》こそが、しがねえ姿の「土俵入り」であった筈である。その証しは一目瞭然、波一里一家の面々は「死切りじゃござんせん。やがてこの世に息を吹き返す者ばかり」だったではないか。茂兵衛の目的は、あくまでも「恩返し」、無用な殺生など「御免被りたい」という心根が感じられる。その源は、またしても「慈悲の心」、言い換えれば「見返りを求めない」「与えるだけの思いやり」ということになるのだ、と私は思う。二葉百合子は、大詰め幕切れで詠う。「逢えて嬉しい 瞼の人は つらい連れ持つ女房雁 飛んで行かんせ どの空なりと、これがやくざの せめて白刃の仁義沙汰」。その中には、「慈悲の心」に綯い交ぜされた、茂兵衛の「慕情」が仄見える。もしかして、その白刃とは、瞼の人・お蔦への「執着」を断ち斬るために不可欠な、恰好の得物だったのかもしれない。
 そんなわけで、この物語に一貫して流れる「仁義沙汰」とは、「慈悲の心」、自分をかえりみず相手に尽くす、見返りを求めない思いやり、だと思われるが、それが前半では、酌婦という「賤しい稼業」(なげやり)の立場から、失意のふんどし担ぎに施されたこと、また後半では、方屋入りをし損なった無宿者(アウトロー)から、無力な(飴売りの一家族)に施されたことを見れば、文字通り「一寸の虫にも五分の魂」といった風情が、この芝居の《眼目》かもしれない。さらに、「瞼の人」への執着を絶ち斬らねばならない「愛別離苦」という空気も添えられて、長谷川伸の作物の中でも、珠玉の名品に仕上がっている代物ではないだろうか。私の脳裏には、かすかに、「新国劇」島田正吾の茂兵衛、香川桂子のお蔦という舞台姿が残っているだけ・・・、それ以上の舞台を「大衆演劇」で観てみたい。



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